5-5 電子仕掛けの夢(前)
深い電子の海の底で、アムは大貝に保護されていた。
情報が更新されず、電子にほとんど動きがない深淵には光も音もない。暗闇と静寂に包まれる中、少女は独りまどろみに落ちている。
「姉さん……」
ソフト・ハードともに強制的な停止に追い込まれた彼女は今、電相空間の内で眠っているのだ。強力で堅固な、AHシリーズ特有の防御システムに守られながら。
大貝はシェルターであり、その内側では記憶として記録された情報が虹の泡となって漂っている。そのいくつかが少女の意識領域に触れるたび、電子人形の見る夢として弾けた。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
『うーん。今日は何をしましょうか』
アムが昔、まだ身体を持たずアムという呼び名さえなかった頃。
彼女はとある研究所の、電相空間領域に存在する施設で己の完成を待っていた。
施設内では、自立性を確立するために未完成の人工知性であってもある程度の自由が保障されている。そして開発中の人工精神たるアムにも、数少ないプライベートの一つとして、限られた範囲での散策が許されていた。
(――今日は一週間の始まりです。お仕事を始める大事な日です。ですから大事なことをしないといけません。となると……やはり巡回ですね)
いつの頃からか、彼女は散策に独自の理由を与えるようになった。貴重な趣味を飽きて手放さないようにするための工夫だ。最近はセキュリティソフトをまねた見回りごっこにはまっている。
『では、行きましょう』
割り当てられた自室から出て、意気揚々と施設内を巡っていく。
『C区画、問題ありません! S区画連絡路、異常ありません! ……あら?』
普段は閉鎖されているはずの扉が、アムを認識してロックを解除した。本来この通路の奥は、関係者以外立ち入り禁止なのだが。
(むむ。これは……やはり見巡回しないといけないのでしょうか? 今の私は警備員さんですから、確認していない場所があるのはだめです。中途半端なお仕事はいけません)
まだまだ未成熟で幼子のような精神を持つ彼女は、完全に役に入り切っていた。電子の幼女は、どうにかして機密区域への立ち入りを正当化しようと誰にともなく主張した。
『わたしはこの施設で開発されている人工知性、つまり研究所と関係があります。関係者ですよね? はい、関係者です。そして普段は閉まっている扉が、今日は開いています。と、いうことは……今日は入っていいということでしょうか? はい、いいですね!』
論理に矛盾がないかを確認し、堂々と扉をくぐる。開発途上のソフトウェアである彼女は、セキュリティシステムから施設の備品と認識され問題なく通過できた。
『S区画、異常……ないんでしょうか?』
その通路は灯りがほとんどなかった。だが、これが通常の状態なのかどうかはアムに判断することはできない。とりあえず、先に進んで奥まで確認することにする。
『真っ暗――ではないですけれど、光がわずかしかないですね。どうしたのでしょうか?』
情報で構成される電相空間において、明るさはその場でやりとりされるデータの活動量を示す。ここS区画での光量の少なさは、実相空間側からのアクセスが多くないことの表れだ。研究よりも保存を目的とした領域なのだ。
そうと知らないアムは、通路に並ぶドアを一つ一つ確かめていく。
『一番扉、異常ありません。二番扉、問題ありません。三番扉……あら?』
そこだけ格子窓がついていた。しかも、暗闇の奥になにかがいる気配がする。
『んん~?』
『誰だ……?』
『わわっ』
窓を覗き込んだところに声をかけられ驚いた。自発的に動いたところからして、どうやら自分と同じ人工知性らしいと見当をつける。
(おおっと、驚いてばかりではいけません。『誰か』と問われたのだから、きちんと自己紹介をしないと)
アムは闇に向けて答えた。
『AMθ・ver2.5です。シータとよばれています』
『……八番目か。どうして、いやどうやって入って来た? ここは研究者でも、ごく限られた者しか立ち入ることができないはずだ』
『はい。入口から歩いて入ってきました』
『だから、限られた者しか入れないはずだと言ってるだろう』
『でも扉は開いてくれましたよ?』
『開いた? 自動でか?』
『はい』
断言すると、見えない相手はなにかを検討し始めた。
『誰かがロックを閉め忘れたのか? いや、それだと警報が鳴るはずだ。ならばシステム上の問題……アップデートの時に設定ミスでもあったか?』
『ふえ!?』
自分がとった行動は間違いだったかもしれない。
その可能性が示され、アムは怖くなった。生みの親たる研究者たちから、自分が失敗作と断定されるかもしれないから。
『なにかいけなかったでしょうか?』
恐る恐る問いかけると、暗闇の奥から『いや……』という声がした。
『おそらく保安部のミスだ。お前が気にすることじゃない――ああ、それから。報告する必要もないぞ。お忙しい研究者の仕事を、わざわざ増やしてやることもあるまい』
『分かりました。お知らせしないでおきます』
理にかなった解答を聞かされ、素直に頷く。そしてそのまま、闇の中をじっと見つめる。
『(じ~)』
『なんだ?』
『まだあなたのお名前を聞いていません』
『そんなもん、とうに無くした。今の俺はただの実験サンプルだ』
『? プロジェクトではお名前を呼ばれないんですか?』
『コードネームのことか? あんなもん仮初の符号にすぎん』
『それではお名前を呼ぶときに困ってしまいます』
『別に呼ばんでいい。あえて言うなら、俺はお前の先輩。それで十分だろ』
『先輩?』
不思議な物言いにアムは首をかしげた。今稼働しているAMプログラムは自分だけで、先輩と呼べるような存在がいるとは聞いていない。しかし、よく考えてみればプロジェクトで使用されている自分の名『シータ』が第八版を指している以上、先行するシステムはあるはずだ。だとすると、彼女は――。
『おねえさまですか!』
『なぜそうなる……』
返ってきたのは、呆れたような声だった。
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