僕の脳を活性化するものぐさ媛
@Liberio
第1話
キワムは不吉な郭公の鳴き声で目が覚めた。まだ明けやらぬ初夏の早朝。カーテンの隙間に新幹線の軌道が潜る黒緑の布引山が迫る。新神戸のタワーマンション、山側の高層階に居住している。夜はとことん暗いほうがいい。街や港の灯りは煩わしい。
早朝覚醒かもと少し怯えたが、食欲もあるし性欲も変わらないと確認して安心した。鬱ではないだろう。キワムは筋肉の緊張を緩める方法で眠りに戻ろうとした。仰臥の姿勢で顎、瞼、唇の順に緊張を解き放つ。脚、体幹、肩、上肢まで緩めても湧く雑念を消せなかった。雑念は巡るままにして吐く息に意識を向けよう。マインドフルネスの手法で。
女に去られて1か月、立ち直るはずなのに日々脱力感が増す。年齢差が開くほど若い女に逃げられる確率は大きくなる。女の最大の価値は若さだと理解しているので、覚悟も準備もしていたはずなのに今回はおかしい。
佳菜子とは5年付き合った。その間、専門学校に通わせ介護福祉士にした。独り善がりだったかもしれないが相性は良かったと思う。提案を拒絶されたり行動や発言をたしなめられたりはあったが概ね気分良く過ごせたし、全く飽きなかったのだ。しっくりと収まり何度回しても異和感が発生しない、精巧な鍵と鍵穴の感触だった。
佳菜子の前に付き合った女とは1年と持たなかった。鼻にかかる可愛い声を出す女だったが本性は泥棒猫で最後にタンス預金を盗られた。全額ではなかったので気付くのが遅れたし証拠が無いので表沙汰にしなかった。漠然と油断が出来ない相手で、もっと重大なものを盗られずに済んで安堵したくらいだ。財布の色を褒められたことがあった。金の出し入れに敏感だったことに後で気付いた。
2年前から佳菜子は特別養護老人ホームで働いていた。お給料貰わないと介護なんて出来ないわ、たとえ自分の親でもが口癖だった。排泄の世話も慣れるし入居者は可愛い人もいるけど、家族がねぇ。細かい注文やクレームが多くて、なら自分達で面倒看てよ、捨てたくせにと思う。職員にもうんざりするのがいて施設長に取り入って私に余計な指図をしてくるの。そんな話をする反面、あの人のお世話は私がしないとなど律儀な責任感も見せる。
確かに近年の日本人の劣化はすざましいとキワムは思う。スマートフォンが普及してから急に頭のおかしい人が増えた。したいこと、知りたいことがその場で叶うとドーパミン報酬系が刺激される、それを繰り返すと人間は短絡的、衝動的、狂暴化するとどこかに書いてあった。通勤電車は劣化日本人の見本市と化し、向かい合った座席1列全員が触っている光景も珍しくないが、その中にスマートフォンを目の高さまで挙げている人は心の操縦席を乗っ取られたスマホ中毒だ。THE NORTH FACEのロゴからは邪気が出ている。柿色のアウターを着ている団塊爺は短気で些細なことに粘っこく絡んでくるから気をつけろ、真面目な顔をしてそんなことを言っているから佳菜子に逃げられたのかな。
国民の劣化を止めようとしない国家は滅びる、それ以前にこの国に国家は存在しない、あるのは金儲け共同体、官僚がルールを作り国民は唯唯諾々と従っていると薩摩の竹原市長が看破していた。高度経済成長期以来、自然を壊して金に換えてきたがいよいよ行き詰まりつけが回った。郊外の山林を追われた狸や狐やイタチや野兎はさぞかし人を恨んだこ
とだろう。動物たちの怨霊が特に中年女性に作用して不安神経症を発生させている。似たような内容のジブリのアニメもあった。
佳菜子とはHの相性が良かった。パターン化されていたけれど行為に滞りが無く一体になれた。互いに相手を満足さし得たと思える心地よい疲労感に浸れた。20歳台の頃、先輩医師に言われた「とろけるようなHは自分の身体が若い時しか味わえない」とか「新型のスターレットは古いクラウンを超えられない」全く嘘でした。悦楽の姿変われど奥深し。佳菜子は過去の誰よりも良かった。楽しい老後を過ごすために余計な固定観念や先入観や思い込みは捨てよう。
2か月ほど前、珍しく佳菜子が夢の内容を話した。「もう一緒に暮らせないと言ったら、貴方は私を呪い殺してくれと霊能者に頼みに行った」キワムはムーの愛読者でお気に入りの号は本棚に並べていたからオカルトマニアだと思われていた。その2週間後には「親に会わせたい男性がいると言われた」と告げた。捨てられる予感は十分あったけれど唐突に居なくなり1通のメールが届いてあっけなく終わった。『いろいろあって考えたりもしお別れすることにしました。良くして頂いてありがとうございました。キワムさんならきっと素敵な女性が現れます。お幸せになってください』
素敵な女が現れるでしょうと空手形を振られてもかえって落ち込むだけなのにと多少腹も立ったが、執着や哀願はこの場面では逆効果なので『真意が分からず混乱しましたが佳菜子は決めたことを変えない人だし寂しいけど受け入れます。身体に気をつけてね。いつでも連絡をください』嫌がっているのに何度も連絡をしたり実家や職場で待ち伏せすると今やストーカーとして夕方のニュースで全国放送される時代だから諦めるしかない。若い頃からキワムの別れ際はきれいだった。去る者は追わずで一過性に落胆しても回復は早かった。ところが今回は時間が経つほど脱力感が強まり集中力が低下し佳菜子のことばかり思うようになった。何をするのも気合が伴わず注意力が散漫になって困ってしまう。
思い当たる理由があった。佳菜子と付き合ったころから指圧の勉強を始めた。手順を覚えるため週2~3回のペースで練習台になってもらっていた。フルコースすると30分を超える。指圧とは単に肉体に物理的な圧を加えているわけではないと教えられていた。人間には肉体の外周にオーラのような第2の体(幽体とかエーテル体とか呼ばれる)があり、指圧している手掌は圧の延長上でそこに届いて効果を発揮する。肉体の病変部は必ず幽体上に反映されているので、その部分に作用することで肉体を癒すという理論だ。そのためには相手への理解と同情が必要である。医者は指圧を習得すべきと言ったヒポクラテスという人がいたらしい。
好きな女の肉体を何度も圧していたから確実に幽体に接触していただろう。逆指圧みたいな現象も生じていた。指圧中に気持ち良さそうに寝てしまう佳菜子を見て深い満足感に浸ったが、こんな時は指圧する側の幽体が癒されていた。幽体同士の交流を失い自分の幽体には穴が開いてそこからエネルギー(気とかプラーナとか)が漏れている。だから肉体はどこも悪くないのに力が入らないのだとキワムは診断した。
まるで魂が触れ合うような深い交流が一朝一夕にして崩壊するのが爺と若い女の交際の脆弱なところだ。
脱力感と同時に寂しさがつのった。補陀洛船に乗って沖に流されるような、救いようのない寂しさだった。救けの手を差し伸べてもらいたくて手あたり次第に身近な若い女に声をかけた。「話を聞いて欲しい」「食事しましょう」「旅行に行きませんか」すべて拒否に会い「アドレス忘れました」「お付き合いする上限は10歳までです」「寂しいのなら友達の韓国人男性を紹介しましょう」などと言われた。爺の相手をしてくれる女は10パーセント未満だろう。自分でもバランスを崩しているなと思いつつ、日常の人間関係の範囲では誰も慰めてくれないので、出会い系サイトの掲示板に投稿をした。
佳菜子に戻ってきてもらう方法も考えた。現身を呼び出すことは出来ないが幽体なら構わないだろう。交流を重ねたのだから幽体同士のつながりはまだ残っているはず。イメージと想像力を駆使すれば呼び出しは容易だった。慣れ親しんだ体温と体臭と息遣いが混じった微かな佳菜子の気配はキワムの左肩の上やや背後に現れた。ちなみに呼び出された本人はその時間ぼんやりしたり上の空になるらしい。戻って欲しい、貴方に対して及び腰になっていた部分は直すから、最も明るい未来を提供できるのは我儘で頑固な貴方を理解している僕だと自負している、具体的好条件を提示して説得したが芳しい反応はなかった。一度夢に現れた時もよそよそしい表情で小さく首を横に振るだけだった。
何度か呼び出しているうちに奇妙なことに気付いた。佳菜子と一緒に才気煥発な5歳くらいの童女が出てくるのだ。佳菜子にこれは君の幼い時の姿それともインナーチャイルドかいと聞くと違うと言う。それなら誰と聞きたいところだが、キワムは霊能者では無いのでYES or NOとしか聞けない。多分縒りが戻った後、二人の間に産まれる娘だろうと解釈した。佳菜子とは子供を作ってもいいと思っていて名前も以前から決めてあった。明佳、男ならあきよし、女ならはるかと読める。童女にはるかと呼びかけたがあまり反応しない。気に入らないのかなと思い明佳 読み方で調べてみた。あすか、さやかとも読めるようだ。何て読んだらいいと童女に聞いた。童女はいたずらをして笑ったり、見つけた何かに集中したり、退屈して飛び跳ねたり活発に動き回って「早く会わせて」とメッセージを送ってきた。
数日前キワムの直感に当たりがあった。過去何度も経験した実現をもたらす予感だった。
近々佳菜子から連絡があるだろう。復縁したら入籍して子供を作ろう。明佳を早くこの世に送り出さねば。3日間経ったが連絡は無かった。おかしい、今までこの手の直感は外れたことがないのに・・・
ここらで身体の弛緩が深まりキワムは眠りに落ち回想と雑念は途絶えた。
次の日、手が空いた時に携帯を見ると覚えのない人からSMSが入っていた。『さやかです!覚えていますか?突然ですけど会ってお話しませんか?お返事待っていますね✨』
SMSの登録名は沙也加になっていた。さやかほど当てられる漢字が多岐多様な名前は珍しいとキワムは思った。そして登録した経緯を思い出した。ハッピーメールの掲示板に『彼女に振られました。心にぽっかり穴が開いて力が入りません。誰か元気づけてくれませんか』と載せたらいくつかレスポンスがあった。印象深いメールを書ける子がいて遣り取りしたのだった。『彼女が戻って来てくれそうな気がします』と送ると『女は上書き、男は別フォルダ』と返ってきた。この現代的格言はキワムには残酷だったが気に入って暫くあちらこちらで反復した。男は別れた女に未練を引きずり女はきれいさっぱり忘れて次の男に行くという意味だ。『一度お会いしたいですね。電話番号を交換しませんか』電話番号はゲットしたものの落ち込んでいたせいで連絡を取らなかった。キワムは『よく連絡をしてくれました。嬉しいです。お食事しましょう』と返信した。
サイトを通した出会いの場合、プライバシーの露出を避け偽名使用で様子を見るのが定石だが、最初に会った日にキワムは本名から職業まで全て打ち明けてしまった。沙也加が嘘を言っていないと思えたし、会話が盛り上がり楽しかったのだ。美人局であるとか質の悪い彼氏がいるのではなどの不安がよぎらないわけではなかったが、彼女から発散する知能の高さに降参してガードを外してしまっていた。
小顔にやや小柄な体格はバランスが良く、はっきりしているけど派手ではない目鼻口で眉と目の間隔が広めだった。庶民と貴族の中間層の容姿、宮中女官や大奥女中のイメージだった。年配の方ならご存じだろう女優の藤真利子に似ている。要するにアホ顔ではないのだ。北関東の出身、上智大学の心理学部卒、専門は心理統計で文系だが数学好き、電通に就職したが職場のストレスがきつくて2年で退社した。臨床心理士の資格を持っている。今は社会性を失わない程度にアルバイトしている。趣味か本業か分からなくなっているのがコンピューターゲームとアニメとギャンブルだそうだ。始めると時間を忘れるまでしてしまう。「バイトしなきゃ世間から乖離する一方だわ」
沙也加が部屋に居る時、ベッドの上にはゲーム機とスマートフォン、エアコンとテレビと照明のリモコンが載っている。傍のキャスター付きワゴンにポカリスエットと袋菓子があり、しばしばゲーム三昧の果てに寝落ちする。口癖は「面倒くせぇ」で、何かを誘った時のみならず他愛ない噂話の最中にも発せられる。
オタク女子とはいえたった1回の挫折で再就職もせず何故関西にまで来たのだろう。その理由は何となく恐ろしくてまだ聞けてなかった。キワムは今までこれほど知能の高い女と付き合ったことがなかった。会話して不快を感じなければ賢い女だとみなしていた。知能で敗ける相手には色々と遠慮してしまう。銀座の高級クラブに行けば東大生のホステスとかがいて知性溢れる会話が楽しめるのだろう。沙也加も水商売の経験者かもと慣れた仕草でコートをハンガーに掛けてくれた時ふと思った。源氏名みたいだし。
沙也加がスマートフォンを使用している時に知能の高さを知らされた。たいがいディスプレイには半端じゃない量の複数のページが重なり、マジシャンがトランプを捌くように、トランプの方から手に吸い付いてくるように必要な画面を前に出したり後に引っ込めたりしている。沙也加にとってスマートフォンは安倍晴明が使役した式神(十二神将)だった。使いこなせる知能がある人が持てばスマートフォンも悪影響をもたらさないのだと感心して見ていた。
「子供の頃は自分より年上の男の子を連れて、トカゲや昆虫を捕まえたり魚釣りをしたり野球もした。ガキ大将だったのよ」近所で評判の利口で活発な少女だったに違いない。キワムは気付いていた。佳菜子の後をついて出てきていた童女が沙也加だったことに。内なるガイドと呼ばれる存在は真摯に質問すれば必ず答えを返してくる。答えがいつ何処で来るかは偶発的で内容は曖昧模糊としている。明佳 読み方で検索したとき現れたさやかの名前と佳菜子のラストメールにあった素敵な女性を結合させて答えだったと思い込んだ。
自分を凌駕する知能の持ち主と付き合うのは楽な部分がある。相手のコントロール下に入ればいい。指示を仰ぎ、要望には忠実に応える。日米関係みたいだと力なく独り笑いした。出しゃばりな行為や余計な気遣いは「面倒くせぇ」と嫌がられる。沙也加と居ると脳が賦活化され行動も活性化するとキワムは感じていた。マンネリ化した業務に新たな興味を見つけたり、新しい事に挑戦しようと勉強を始めた。全く興味が無かった海外旅行に行きたい。もう子供を作る歳ではないし、エロも先細る一方だ。寂しさを埋めてくれて認知症予防になればこれほどまでに素敵な女性はいないだろう。これまでは女性とは家事をこなし子供を産み育てる存在だとする旧態依然の価値観で接していた。いくら低姿勢、低干渉、低依存を心掛けていても、どこかで男の道具だとみなしていることは佳菜子にもチラチラとばれていただろう。いつ振られてもいいと覚悟したり、常にスペアの女性をキープしたりも男の傲慢や思い上がりの裏返しだ。親子ほど年の差がある沙也加だが、天が与え給うた最後の女神だと思って、己を空しくし足元にひれ伏そうと決意した。
キワムは幽体の穴がふさがりエネルギーが漏れずに全身を巡っている状態を感じていた
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