第80話 羊は悪女の宴を見る

「あれ……?」


 帰ろうと自転車置き場まで来たところで、足を止める。

 部活へ向かった学生と帰宅部の学生が帰った谷間の時間なのか、自転車置き場には誰もいない。

 遠くから吹奏楽部の練習の音や、運動部の掛け声が聞こえる。


「…………」


 耳を澄ませる。


 放課後の音の合間を縫うようにして――唄が、聞こえた気がした。


 思い出すのは去年の梅雨のこと。

 歌っている明宮と、出会った日のこと。


 ……まさか。


 そう思いながらも、校舎の裏手に足を伸ばす。


 校舎の裏は、静かでひと気はない。

 花壇の紫陽花の花はまだ開いておらず、緑一色だった。


「気のせい……?」


 まさかとは思ったが、そこなことあるわけが――


 ――嘘つき。


 だが耳朶を打ったその声に、思わず花壇の木陰に隠れてしまう。


 ――じゃ、どうして過去に好きだったのに今は好きじゃなくなったの? ヒツジくん、明宮さんにひどいことしたの?」

 ――違います。


 息を飲む。

 その声は紛れもなく、シアと明宮。

 お昼を一緒に食べていただけでも驚きなのに、二人が校舎の外れで話している?

 しかもその内容は、俺のこと?


 ――好きだったのにふさわしくないから。そんな理由であきらめたんだ。

 ――……ええ。


「え?」


 その言葉に耳を疑う。


 好きだったのに? 明宮は俺を友人と思っているんじゃないのか?

 じゃ、どうして周りに言われてとか、『友達』だとかそんなことばかり言った?


 ――今だって、ヒツジくんの中にはあなたがいるわ。


「う……」


 シアの言葉に、口の中に苦いものが広がる。

 デートの帰りにシアは『明宮のことを好きだったか』と訊いてきた。

 あの時の問いかけは、昔の話をしていたつもりだ。


 だが『明宮のこと、好きだった』と言った時点で、シアはとっくに『今』のことも気づいていたに違いない。


「今……?」


 だが、思わずその言葉を反芻する。

 ふと胸の奥にもやもやしたものが広がっている。


 シアに告白をして。

 シアと一緒に暮らすようになって。

 『今の俺』は、どう思っているんだろう……?


 ――『でも、本当は彼、私のことを好きなの』――って余裕かしら?

 ――やめてっ!


 明宮の叫びに、思考の沼に入りかけた意識が戻ってくる。


 ――日辻さんが私を少なからず想ってくれていること。きっと私、わかってたの。


 「…………」


 明宮が断言した。

 俺への想いを。隠していた、俺が勘違いしたと思っていた本心きもちを。


 ――相手の気持ちなんて……すぐにはわかりません。

 ――ようやくできた大切な人の関係を変えるなんて……時間が、必要だったんです。


 明宮は言葉を重ねる。本当の気持ちを言えなかった理由を。

 拒絶されれば怖いという当然すぎる考え。


 ……そうか。そうだよな。

 明宮は皆と話せるようになったばかりだ。

 そうなっても当然なのに、俺は何を勘違いして迷っていたのか。


 ――だったら、どうして割り込むようなことをしたんですか……!

 ――私達の積み上げてきたことを、崩すようなことを……したんですか!」


 いつしか明宮の言葉は、シアに対するものに変わっていた。

 明宮からしてみれば、自分たちの育てていた愛情を壊されたと同じ気持ち――


 ――勘違いしてるわ。偽ったのは明宮さんでしょう? 『友達』なんて枠を付けてヒツジくんとの関係を崩したのは明宮さん自身でしょう?


「シア……」


 だが、シアの言葉は驚くほど冷徹だった。

 確かにそうかもしれない。でもそれは感情を抜きにした話。


「なんで、そこまで……」


 シアは、からかったりイタズラっぽいところがあったりする。

 でも、他人を強く責めるようなことを言うタイプではないはず。


 ――少なくとも、それで傷つく人間がいるということは理解したほうがいいわ。


 『嘘をつかない』と言ったシアの顔が脳裏に浮かぶ。

 シアには、偽りを言われたことが、それで傷ついたことがあったのか?


 ――でしたら……私も、想いを伝えます。シアさんに遠慮する理由もありませんから。


 シアの気持ち。

 明宮の気持ち。

 そして俺の気持ち。


 その三つを考えれば考えるほど混乱する中、飛び出した明宮の言葉に驚く。

 それはつまり――。


「――だってさ、ヒツジくん?」

「あ……」


 思わず顔を上げる。

 遠くなのに、シアの瞳が俺を映したと確信してしまう。


「……悪い」


 逃げるという選択肢はなく。

 俺は、立ち上がると二人の前へと向かった。

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