深愛なる悪女へ

有霞くるり

第1章 『何か』

第1話 夜桜の中、はじまりはじまり

 高校二年の始業式前日。

 引っ越しの荷物整理もようやく終わればもう午後十時。

 ひと息入れて、アパートのベランダを出ると、正面にある公園の桜が満開だった。


「へぇ……」


 夜桜見物なんてやったことがない。

 でも、今日から俺は一人暮らしの自由の身。

 少しぐらいならいいだろうと、ペットボトルのコーラ片手に外へ出る。


「わ……っ」


 ぐるりと桜の木で囲まれた公園は、そぞろ歩くにはちょうどいいぐらいの広さ。

 視界いっぱいに広がる木々は、どこもかしこも満開だ。

 朝、荷物を運んでいた時はここまで華やかではなかったから、きっと昼に開いたのだろう。

 街灯に照らされた花は、夜闇の中でうす紅色をきわ立たせ、はらはらと舞い落ちている。


 桜は『夢見草ゆめみぐさ』とも呼ばれるそうだ。確かにこれは夢のような景色かもしれない。


 コーラのフタを開けると、プシュッと小気味よい音が鳴る。

 高校生の自分にとって、花見酒なんてわからない。


「――カンパイ」


 でも、夜桜を見ながら一杯やるというのは、普段とは違うワクワクがある。

 『何か』が起きそうなそんな気分になる。

 まさかの経緯で一人暮らしになったけど、これから面白くなりそうだ。


「美味しそうね」

「えっ」


 人がいないと思っていたから、急にかけられた声に驚く。


「こんばんは」


 ベンチに座っている人がいる。

 自分と同じか、少し年上ぐらいだろうか。夜空から浮き出たような長い黒髪が印象的な少女だ。

 動きやすそうなベージュのパーカーに黒のスキニーパンツという出で立ち。

 黒髪と黒のパンツのせいで、夜から抜け出したように見えたのかもしれない。


「あなたも夜桜見物?」


 大きな瞳が、どこか楽しげに緩んでこちらを見つめてくる。

 左の目元にあるほくろのせいか、大人びた印象を受ける。


「そんな感じです」

「そ。この近くに住んでるの?」

「すぐそこに引っ越してきたんです」

「そうなんだ……へぇ」


 少女が目を細める。

 艶というのだろうか。いやらしさとは違う、ドキリとする色気が瞳に宿る。

 ソワソワする心をごまかそうとコーラをひと口飲む。

 甘みよりも辛さの方が強く感じられた。


「あなたも花見ですか?」

「うぅん、待ち合わせだったんだけど――フラレちゃったみたい」


 肩をすくめると、頭の上の桜を見上げる。


「まぁ、花見ができたから、良いのかな」


 桜を見つめるその瞳は、笑顔のようにも憂いのようにも感じられた。

 何かあったようだけど……。


「そう、ですか」


 結局、適当な相槌を打って、コーラを少し一気飲み。

 炭酸が喉から食道と直撃し、ジンジンと痺れる。


「高校生?」

「ええ、まぁ……二年です」

「そっか、私と同じね。そんなかたっ苦しい話しかたしなくていいよ」


 意外だった。年上かと思っていたけど、同い年なのか。


「私にもひと口もらえる?」

「えっ」

「コーラ。のど渇いたし」


 ベンチから立ち上がると、少女が目の前にきて見上げてくる。

 思ったよりも小柄かもしれない。


「いや、でもさ」

「あら、もしかして間接キスが気になるのかしら? けっこう純なのね」

「違うって、急に言われたらびっくりしただけ」


 図星だけど、悟られるのも悔しい。


「ひと口なんてケチなことしない。俺の部屋、すぐ近くだから一本やるよ」

「あら、ありがとう。ふふっ、なるほどなるほど」


 目を細められた。

 先程から見せる彼女の笑顔は、『笑い』以外の含みを持っているような気がした。


「女の子を連れ込む文句としては、悪くないね」

「えっ! そんなこと考えてないって」


 でも、夜遅いこの時間に女の子を部屋――しかも一人暮らし――に誘うのだから、『連れ込む』というのはあながち間違ってないかもしれない。


「ここで待っててくれれば、取ってくる」

「あはっ、ごめんなさい。お手をわずらわせてもいけないわ。私も行く」

「けど――」

「シア」

「えっ」

「私の名前。そのまま呼びつけでいいよ。あなたは?」

「えっと……日辻ひつじ一郎いちろう

「ふふっ、ひつじ……ヒツジくんなんだ」

「良いだろ、別に」


 珍しい名字だってわかってるし、こういう反応も今に始まったことじゃない。


「ええ。覚えやすくてとってもいい名字。よろしくね、ヒツジくん」


 すごく嬉しそうだ。

 名字を笑ってるというより、俺の反応に満足しているようだ。

 自分の返しがなんだか恥ずかしくなる。


「……よろしく」

「さっ、これで私たちは見ず知らずじゃなくなったでしょ。案内して」


 ベンチに置いてあった大きめの鞄を背負うと、少女――シアはウインクをした。

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