証言者 007 ≪ 走る男
■ 練馬春陽高校2年7組の生徒
『
誰に聞かせるでもなく、つまらない駄洒落を呟く鈑金工の父親を好ましく思ったことはない。内容の是非はともかく、駄洒落である以上はリスナーに届けてナンボなのだから、呟くのは気持ち悪いというものである。
しかし、
『よっこいしょういち』
蚊の鳴くような声で、あくまでもひとりごちろうとするのである。早朝に霞の欠伸を漏らすがごとく、自然体の慎ましさで。
意図不明瞭。
物心がついた頃には、すでに父親はそんな状態だった。先天的なものなのか、はたまた後天的なものなのか、今いち定かではないものの、どうやら彼の揺るぎない来歴ではあるらしい。とはいえ、だから結城拓馬の腑に落ちるのかといえばサにあらず、納得したことはなく、むしろ日ごとに不満は募るばかり。特に、思春期の盛りにある頃には忍耐するまでもない嫌悪感の塊だった。こちらはこちらで、自然体の舌打ちがこぼれるほどに。
メガネメガネと呟きながらリビングをうろうろと探し続け、やがて、実はずっと左手に握っていたことを知り、
『おっと灯台デモクラシー』
老いを恥じるでもなく呟いた時には、飲酒、喫煙に走ってくれようかと画策したほどである。要するに
通っていた中学校の期待もあって落伍者とはならずに済んだが、しかし父親に対する反感が薄まったことはない。夕方の6時前には部活動が終わるのだが、まっすぐに帰宅することはなく、小1時間、悪友たちと池袋で騒いだ後に帰路へと就く毎日。中学生として、可能な限りに父親と顔をあわせないよう努めたものである。
『当たり前田の
そう呟いては相も変わらずにいる父親だったが、ある日、彼がこんなことを呟いた。
『お山の大将、地続きでは目も当てられん』
嘆くように言った後、しかし、すぐにいつもの飄々とした表情を取り戻し、
『お山のバイショー、行けばわかるさ』
ぼそりと駄洒落を被せ、おもむろに立ちあがって入浴へと去った。なんだか、取り繕って逃げたようだった。
中学3年生の冬、スポーツ進学校である
駄洒落になっていない彼の
やむなくテメェで考えてみる。しかし、アントニオ
確かに、結城はお山の大将だった。幼い頃から運動神経に恵まれ、足が速く、身の
パル高への進学が決まった。都内でも屈指のスポーツ進学校である。女子バスケ部はもとより、他の種目についても
『お山の大将、地続きでは目も当てられん』
毛嫌いしているとはいえ、実父に誉められなかったのは癪である。むしろ否定するかのような物言いとも聞き取られ、心外で、腹が立った。あんがいにも結城の恨みは深く、ついには不貞腐れながらの入学式を迎えることとなる。
そして、この記念すべき日の朝にも父親は、
『苦境を越えてまだ秘境、妻の
やはり誰に聞かせるでもなく、縁起の悪そうな駄洒落を呟きながら離れの工場へと向かっていった。中卒で手に職をつけてより32年間、無遅刻無欠勤で走り続けてようやく手に入れた、彼の、独立のお山へと。
☆
走る。
かれこれ20分間、延々と走り続けている。緩急を入れつつも、えげつないスピードを、リズムを、ハッタリを保ち続けている。ゆえに、そろそろジョグを挟んでおきたいところである。なぜならば心臓か肺臓が破裂してしまいそうだからである。あるいは連鎖的に両方ともパンクする可能性すらも大いにある。いずれにせよ、間もなくお亡くなりになる可能性は火を見るよりも明らかなのである。
しかし、あの少女のボールキープが解かれない限り、結城には延々と走り続けることしか術がない。
(そろそろ、どこかに、パス、しません、か?)
こんなに走ったことはない。いや、厳密にいえば、パル高のサッカー部、レギュラーを獲得してからはこんな毎日である。つまり、2年生にあがるまではこんなに走ったことはない。こんなに走らなくてはならないものだと自戒したためしもない。
夢想だにしなかったことが起きている。
そして、結城の気管支はすでに限界に達している。先ほどから、息を吐き出すごとに胸の内側がヒュウヒュウと鳴く。まっ先にパンクするのはもしやこのへんかも知れない。
胸がハチ切れそうである。恋バナではなく、あくまでも医学的なお話である。恋患いだったらどんなによいだろうかと、しかし結城は思わない。そんなことを思っている余裕も、イメージを転嫁して癒着を図っている余裕もない。
(ま、またですか?
走る。
少女が、ずっとボールをキープしたままなのである。誰にも触れさせず、誰にも渡さないのである。そう、渡さないという部分がキモである。なにしろ、これはサッカーである。チームスポーツである。普通は、いずれ必ずやチームメイトにボールを渡すものなのである。
少女は、渡さない。延々とワンマンショーを続けている。むろん、誰にも触れさせないスキルは賞賛に値しよう。しかし、誰にも渡さないスピリッツは凄惨に値する。
(詩帆さん、この人、病気だよ)
今日に限ったお話ではない。練習だろうが練習試合だろうが、常にこの少女のボールキープ率は群を抜いている。間違いなく全国でも屈指であるといえよう。ひいては自軍のキープ率も高まるのであるからして、万々歳であるといえるのかも知れない。
いえるわけがない。
(ストイックなんだか、サディストなんだか)
とはいえ、そのふたつの言葉が少女の辞書に掲載されているのどうかは甚だ疑問である。
走る。
結城は走り続けざるを得ない。なぜならば、彼はフォワードだからである。常に最前線にいて、常に得点をあげる準備をしていなくてはならないポジションなのである。中盤がボールを持ったとあらば必然的にゴールを目指し、
フォワードは、誰よりも走るのである。尊敬されるポジションなのである。結城自身、多くのプロフェッショナルを
走りをやめるわけにはいかない。
しかしながら、少女はまだキープしている。いい加減、敵チームの不甲斐なさに苛立ってもいる。そろそろ奪えよと。こっちの都合も考えろよと。空気よめよと。彼らはみな、普段は仲のよいチームメイトばかりだが、紅白戦になったとたんのこの恨み節である。
走る。
(しかし、どうしてこの人、パス、しないだろうか?)
少女とは幾度となく目が合うのである。そのたびに奮起してみせるのだが、しかしそのたびに少女は不服そうな表情をしてボールキープをアゲインする。
わかってはいる。そう、結城にはその理由がわかってはいる。彼はまだ、少女の納得がいく座標を1度として獲得していないのである。獲得すれば間違いなく絶妙なキラーパスが流れてくるのだろうに、残念ながら、結城はまだそこにいない。
しかし、わかっているとはいえ、認めたくもない。それを認めるということは、自分の下手さを認めることになるのだから。
お山の大将のプライドが認めたがらない。認めず、同時に、わかってはいる。
ゆえに、目も当てられない現状である。
(く、く、苦境、秘境、余興……)
走る。
そろそろ自分以外の時間がゆっくりと見えはじめている。まだまだプロの足もとにもおよばない結城だが、すでにこの時点で彼は、トップアスリートの奥義ともいわれる「ゾーン」を体験していたこととなる。しかし残念ながら、少女の理不尽な重圧の憂き目に遭い、ついうっかりそのミラクルを見過ごしている。
『お山の大将、地続きでは目も当てられん』
32年間、休まずに走り続けた父親は、走り出したばかりの息子にそう言った。
世間は「上には上がある」と勝負論を匂わせるが、実際、敵を敵と認めることほど気楽な道はない。勝負して上か下かを決めればよい話なのだから。ふたつにひとつの選択肢しかないイージーな話。つまり、勝負とは楽をするための偽善である。
──などと、結城は思わない。
そんなことを思っている余裕はない。
(詩帆さん、ボク、ボク、ボク佳境……!)
走る。
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