証言者 006 ≪ 玩ばれる男

 




■ 練馬春陽高校2年3組の生徒

  平塚ひらつか つよし ── Said





 西武池袋線『練馬駅』の南口より徒歩10分、練馬図書館の程近くに『練馬春陽ねりましゅんよう高等学校』はある。生徒総数は約1000人、1学年に8学級の普通科課程、男女共学、全日制、学年制、3学期制──システムを聞くだけならば、どこにでもありそうな公立高校である。


 創設は1940年9月8日と意外に古く、もともとは『東京府立練馬春陽中學校』という名称だったらしい。終戦直前後の社会的風潮にあっては稀有なことに、この頃からスポーツに力を入れる学校だったようで、摩頂放踵まちょうほうしょうを基礎理念に「今日をして明日をしのぎ」の校是こうぜは現代にも継承されている。よって、野球やサッカーなどの有名どころはもとより、フラッグフットボールや銃剣道などのマイナースポーツにも注力、見果てぬ未来を虎視眈々と狙っている。ちなみに、現時点で全国レベルに達している部活動は、女子バスケットボール部、柔道部、近代五種部、社交ダンス部の4部門。特に女子バスケ部はインターハイの常連である。


 練馬春陽高校。


 略して「春高」……ではない。むろん「練春」でもない。


『パル高』である。


 なぜ、そんなどこぞのファッション商業施設のようにポップな略称なのか?


 原因は、校章にある。


 普通ならば、例えば「春」の漢字を円で囲うようなデザインが採用されるだろう。あるいは、その学校を象徴する草花を象形化したデザインかも知れない。あくまでも一般論ながら、普通はそうなる。


 しかし、この高校の校章は違った。


「春」の漢字の右上に小さな丸が寄り添っているデザインなのである。いわゆる半濁点である。パ行の右上にある「○」である。


「春」の頭上に太陽がのぼっているアクティブなイメージであるらしい。なにせ「春陽」なのであるからして、ならばと、燦々と照りつける太陽をデザインモチーフに取り入れているのだという。要するに、半分だけ象形化しているわけである。


 しかし、デザイナーの意に反し、一般庶民は「半濁点」と認識してしまった。そして、彼らは積極的に発音した。


「ハル」に半濁点をつけて「パル」と。


 発祥がいつなのかは定かでないが、今やすっかりと定着している。他校生徒や本校生徒のみならず、当校にされる教諭や校長、またPTAに至るまでの人々が、さも当然のことであるかのように『パル高』と称している。もはや疑義や揶揄を思うことにすら飽いてしまったかのような普遍さで。


 さて。


 スポーツに注力するパル高だが、通学する生徒はみな、ごくごく普通の人間ばかりである。特殊な思想を持つわけでなく、特殊な個性を持つわけでもなく、インスタグラムがザワつくほどの筋肉美を誇るわけでもない。多少は鍛えられているのだろうが、マラソン大会に臨めば顎はあがるのだろうし、LINEのやり取りだけでハートが砕かれることもあるだろう。寝不足を自慢するだろうし、体重を気にするだろうし、アイドルとお近づきになりたいだろうし、便座の上げ下げ議論でヒートアップもするだろう。


 そう、世の中は個性重視の風潮ながら、パル高の生徒はみな、ごくごく普通の人間ばかりである。


 ひとりのを除いては。





     ☆





 しょりりり。


 誰もが気にしているものの、残念ながら誰もツッコミを入れられないでいる。指摘もできず、揶揄もできず、ましてや助け船を出すなど以ての外である。


 ゆえに、被害者である平塚剛はただ無言でいるしか術がない。地蔵尊のようにコチンと固まり、されるがままの状態を貫くしか術がない。仮にこれがハラスメントの一種であるのならば、しかし彼に残された最後の手段は泣き寝入りのみである。民主主義国にあるまじき残酷なエピローグのみなのである。


 剣山の視線を四方から浴びている。しかも、これらのまなざしのおよそ99%が憧憬しょうけいや羨望なのであるからして、いよいよ泣き寝入りも確定である。


 平塚は、とうに進退きわまっている。


 しょりりり。


 なにしろ、なにも言わずに、


 しょりりり。


 彼の類い稀なるマルコメ頭を、背後から、それはそれは愛しそうに、少女が撫で続けているのである。


 いや、確かに少女の思惑もわからないでもない。なにしろ、平塚のマルコメはパル高随一のマルコメなのである。この頭の感触にあやかりたい人間性の持ち主ぐらい、探せばいることだろう。地蔵尊に向けるような信仰心がある可能性も否定はできない。また、平塚自身に自覚はないのだが、彼はわりと女子人気が高かったりもする。やはり、そのマルコメを撫でてイチャイチャしてみたいという憧れを募らせている者も、事実として存在するのである。


 しかし、どうやら「そこは空気を読もう」ということになっている。平塚は野球部の副キャプテンなのだし、いわゆる硬派と呼ぶにはだいぶ頼りないものの、その誠実で穏和な人柄は学年間で認められるところであるらしい。つまり、平塚剛という男子は、なんというか、軽々しく頭を撫でていい男子ではないらしい。もちろん彼に自覚はないが、場の雰囲気として、いつの間にやらそういう暗黙の了解が構築されているのである。


 しょりりり。


 撫でている。なにも言わず、黙したまま、少女はこのマルコメの感触を楽しんでいる。


 きっと、勇気という代物ではないのだろう。


(天然なんだろうな)


 平塚はそう解釈している。だからこそ拒否できないでもいる。前門といわず後門といわず、虎と狼をかけあわせたような謎の神獣キマイラにいきなり寝込みを懐かれたようなものである。ちっぽけな人間ごときが、神獣リヴァイアサンを相手に抵抗できる道理は皆無である。何事もなく飽きてくれることを、不動心を言い聞かせながら祈祷するばかりである。


 天然とは、そういうものである。


 しょりりり。


 優しく──である。心の底から楽しんでいるリズムなのである。


(まいった)


 60分間の昼休みはまだまだ終わらない。弁当を食べはじめた直後に起きた悲劇はまだ15分しか経っていない。もしもこのテスカトリポカが飽きなければ、残り3/4時間もこの状態であると充分に認めねばなるまい。そして、そうなる確率は今日中にダークマターの謎が解明される確率よりは遥かにクリアなはずである。


 無限地獄と形容するに相応しい。


 4人姉弟の長男にして末っ子の平塚である。つまり自分の上に3人の姉がいるわけだが、ともかくも、まったく女性を知らないわけではない。女性とオツキアイをしたことがないというだけのことであり、どんな生き物なのかと観察する環境は太平洋ほどに広く、また深い。よって、女性への人見知りのような苦手意識はあるものの、彼女たちからの衝動的な攻撃に対する覚悟ぐらいはできている。


 風呂あがり、視野に入っただけで弟を蹴り、視界から排除しようとする姉たちである。あるいは「邪魔」の2文字を口にし、遠慮なくマルコメの後頭部をはたく姉たちである。叩いてもらうためにバリカンを入れているわけではない。野球部の同胞たちと悲喜を分かちあうために入れている。尊ばれても不思議ではないこの頭を、しかし彼女たちは容赦なく叩く。人としていかがなものか?──首を傾げる日だってある。そして、それが女性という生き物なのだと解釈してもいる。普遍的な物事が嫌いで、変化を好み、変身願望が強く、つまり慣れることに臆病で、持続に対しては忍耐が先に立ち、心の底には常に破壊衝動を隠し持っている生き物なのだと。


 女性にとってのカワイイとは、男性のそれとは明確に異なり、生活習慣に息づくものの全般を指す。男性にとっては常に「特別なもの」だが、女性にとってはあくまでも「気に入ったもの」に過ぎない。なにしろ「気」の容量はギガバイトを遥かに凌駕するのであり、その中に入らせるわけなのだから、結果、特別な観念ではないということになるのである。


 女性の「カワイイ!」は、要約すれば「私のフォルダに入れてもよい」という意味。つまるところ、憎たらしい弟もまた、単に明言しないだけで、充分にカワイイフォルダへとおさめられている。ハローキティや海賊版のトトロが描かれるマグカップと同じフォルダへとおさめられ、遊ばれ、いずれもてあそばれるようになる。習慣になることを嫌い、変化を求めるがゆえに、時に蹴り、叩くという破壊措置へと──へとスライドさせるわけである。


 とある女性芸術家が曰く、


『カワイイほどいじめたくなるのが女』


 物心がつきはじめるあたりまでは、ずいぶんと姉たちに可愛がってもらった。弟がほしいと母親にせがんだほどの姉たちであり、納得の溺愛だった。しかし、


『慣れるまでが花』


 平塚はそうも思う。あわせて痛感している。


 女性について、理解はできないが、解釈はできる。そして覚悟もできている。


 が、


(可愛がられていると踏んでもいいのかな)


 この少女の基準まではわからない。フォルダの属性がわからない。覚悟の方向性が定まらない。


 眼球だけを動かし、ぐるりとクラスの半分を見渡す。見るか見ないかのギリギリのまなざしをすべての級友が注いでいると認めた。しかし、なにしろ相手はラーである。女子たちでさえも、あの河田映美かわたえみ椎名未森しいなみもりでさえも「そこは管轄外よ」と決めこんでいる。慎んでいる。わきまえている。誰も平塚の味方になろうとはせず、同時に、放置するという方法で味方になろうとしている。


 要らぬ斟酌しんしゃく


 いや、もしや、この少女のアクションを堪能しているだけなのかも知れない。平塚を出汁にして、少女の、めんこいアクションを。


(ありうる)


 しょりりり。


 背後からの急襲ではあったが、弁当の匂いをすべて撲殺するほどのカカオの香りが鼻孔をくすぐり、相手が何者なのかはすぐにわかった。わかったはいいが、振り返るタイミングを完全に逸してしまったがゆえに状態がさっぱりわからない。マルコメの感触を楽しんでいることは間違いないようなのだが……。


(こまった)


 2年生へと進学し、初めて同じクラスを恵まれてから数ケ月、しかし不思議と接点の持ちようがなかった少女である。片や野球部、片や永遠のサッカー部。諸説あるものの、野球を絶望的なまでに敵視しているのだともいわれている。今まで接点が持たれなかったのももしや少女の敵視ゆえにか?──そう推理されていたわけである。それなのに、接点を飛び越えての、いきなりのお触りタイムなのである。


 もしや、気に入られたのだろうか?


 数ケ月も経ったこのタイミングで?


 しかも、いきなり触れてくるもの?


(物事には順序があるわけで)


 あの理不尽な姉たちでさえ、ちゃんと順序は追ったものである。順序を追い、自然ななりゆきで玩ぶようになっていった。理不尽ながらも、不自然な点は見当たらなかった。


(それとも、罠だろうか)


 野球をおとしめるための罠か?


 サッカーを繁栄させるための儀式か?


 密教か? ブードゥーか? はたまたフリーメイソンか?


(フリーメイソンは、ない)


 しかし、罠である可能性までは捨てきれない。


 なにせ、平塚は、この少女のことをなにも知らない。接点がなかったのだから知る由もない。


 巷説だけで彩られている、謎のカリスマ。


 天然はブラフなのか? トラップなのか?


 しょりりり。


(……よし)


 ようやく決意を固める。この状態をキープしたまま5時間目を迎えるわけにはいかない。そんな精神力はない。真意の見えない呪縛など解いてしまいたい。なにより、早くお弁当を食べたい。


 かれこれ15分間、右手のはしは中空に停まったままである。箸の先端、カニかまもパサパサに乾いている。


 平塚は、全国高校野球、甲子園大会の決勝戦ほどに気持ちを高めると、


「ん。ううん」


 ふたつ、せき払いをし、そしてついに、


詩帆しほさ」

「ことわるッ!」


 しょりりり。


 なるほど、ごくごく普通の人間ばかりである。





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