基礎情報編

証言者 001 ≪ 借りていかれた女

 


『他者との関係を通して自己というアイデンティティは現実化される』── ロナルド・ディヴィッド・レイン



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■ 練馬春陽高校2年3組の生徒

  鏑木かぶらぎ ゆい ── Said





 昨夏に別れた元カレは、鏑木唯の私物たちをいまだに借りたままでいる。ブルーレイやライトノベルやハンガーやマフラーのことだが、趣味に合わなかったのか漫画だけは被害ゼロ。


(格闘技系の漫画が好きだった)


 面と向かって正々堂々と戦わず、容赦なく闇討ちを仕掛けてみたり、遠慮なく武器を使ってみたりするような非人道的な格闘技漫画が。一方の鏑木はというと、その手のアウトローな世界を冒険することもなく、ごくごく平均的な少女漫画が専門。この絶望的な畑違いに対し、しかし彼女は、いつもかも彼の趣味に耳を傾けている側だった。


(内容はチンプンカンプンだった)


 趣味にない情報や知識を拝聴する日々。彼の、熱心に語る子供っぽさこそ愛して止まなかったが、耳たぶにぶらさがるタコは無慈悲にも重たかった。たまにはこちらの琴線に触れる話題で熱くなってほしいと思ったこともあるが、ついぞ叶わず、とうとう寝耳に水の別れを浴びせかけられた。


 もう永遠にしないであろう土下座のような懇願で追いすがった。人目も憚らずに泣き喚き、迷子の2歳児のようなヒアリング不能の擬音を並べた。この時の鏑木の胸を満たしていたのは、彼の趣味に合わせたいとする真摯しんしな改宗心だけだった。


『なんか合わないから』


 今にして思えば、よくもそんな戯れ言を別れの理由にあげたものである。あれだけ鏑木の趣味にない話題を捲し立てておいて、自己満足に浸っておいて、気遣いもしないでよくもまぁ。呆れると同時に、これからは絶対に合わせるから!──大声で宣誓していたあの日の自分にも猛烈に呆れる。恥だ。恥ずかしい。


 別れて正解だったとみんなが言う。鏑木もそう思う。別れの理由を回顧するにつけ如実に思う。なのに、なぜか彼のことを忘れられない。今日もまた、廊下の端に立ち、両の肘を窓枠に乗せ、背伸びの格好で練馬の住宅地へと目を細めてしまっている。


(だって)


 鏑木の楽しんだストーリーを知っている。酔い痴れたプロットを知っている。面倒くさがりなルーティンを知っている。寒がりなフィジカルを知っている。耳を傾ける側だったのにすべてを知られている。これすなわち、借りていかれたままもう永遠に返ってこないであろう彼女の私物たちが、いまだに元カレとのリンクを司っているということ。


(あぁ。捨ててしまいたい)


 しかし永遠に捨てられない。手もとにない物をどうして捨てられよう?


 そう、鏑木のセンチメンタルも無理はない。


 しわしわしわしわ──いだ住宅地のあちこちで強炭酸の音がしている。が、喉を開かせる爽快さはなく、むしろ固唾にしてせさせるのみ。これがカフェならばクレームも通ろうが、なにしろ相手は蝉である。聞き入れられる道理もなく、茹だったまま諦めるより他に方策はない。


 3時間目と4時間目の谷間、玉響たまゆらの憩いの廊下にも遠慮なく陽は射している。油照りの形容も相応しい熾烈しれつなる熱光線である。ところが、昏倒もやむなしの夏だというのに、鏑木の背後、左右を流れる長廊下は不感症の賑わいに沸いている。夜祭の出店のよう。


 やれ数学のテストが鬼だった、やれ足が蒸れてヤバいような気がする、やれ新しいイチゴミルクは味に旨味がない──鬱憤を溜めるどころか開放的に活気づいている。誰も彼もが、練馬駅前のアルバイトから強奪したのであろう同じデザインの団扇で涼を取り、と同時に、惜しみなくカロリーを消費している。


(若いね……)


 同輩たちの活気を尻目に、年寄りじみた嘆息をくゆらせる鏑木である。それもこれもが、あの元カレのせい。3年間という恋愛期間のうちに、鏑木の寿命までもをごっそりと借りていったまま、いまだに返してくれないのだから。


(どうせ今頃、さも自分の物であるかのように得意ぶって別の女にひけらかしてるんだ)


 初恋の人とかいうロマンチックな間柄ではないものの、しかし彼女にとっては初めてつきあった同中学校の彼。だから、個人情報を小出しにするような駆け引きのノウハウなどあるはずもなく、すべてを呆気なくさらけ出してしまった。いや、実際には彼のほうがさらけ出したのであり、鏑木は促されるままに応じただけ。つきあって間もなくにキスをし、その1ケ月後には初H。味わう余地もないほど硬いキス、そして警察を呼びたくなるほど痛いHだったけれど、しかしそれもすぐに笑い種となるほどの頻度で応じ続けた。さらけ出す彼に、さらけ出し続けた。


(あのコンドームの数々、どこでどうやって手に入れたんだろ?)


 どうせ親の箪笥たんす預金をくすねて購入費用に充てたのだろう。中学生の財布がよもや週4の交渉資金に足るとも思えないし。


(週4ってハイペースなのかな?)


 などとも考えてみる。もちろん学校行事の有無によって交渉頻度は増減したし、鏑木の生理現象によりもした。ただ、苦痛を感じるような頻度ではなかったと思う。


(週4を3年間……計626回!?)


 実にセンチメンタルな乗算かけざんである。


 男子バスケ部に鍛えられた柔軟な大胸筋や腹直筋、上腕二頭筋に抱かれる日々を思い出し、今や別の女を抱いているのかと想像したとたんに怖気おぞけがした。借りていかれたまま彼の私物となり、あまつさえ別の女との性交渉に役立てられているのであろう鏑木唯という女が気持ち悪かった。元カレの参考基準として存在する、まるで人形トルソーのような鏑木唯が。


(あたしはここにいる。もう彼のところにはいないはずなのに)


 窓枠に置かれる両腕が勝手に強張った。すると、どの神経が連動したのか背伸びのふくらはぎまで強張り、こむら返りを予感。自然とミストの汗が湧く。図らずも涼を得る。


(あたし、ずっと彼の中で生き続けるのかな。経験という名目で借りていかれたまま、あたかも彼の私物であるかのように改竄かいざんされたまま、ずっとここには返ってこないのかな?)


 固唾の溜め息を反吐もどす。背伸びの踵をおろすと、ぐるり、廊下のほうを振り向いた。それから、お尻を壁にもたれさせる。


 お尻がひんやり。右の踵もひんやり。


 長廊下の右手にまなざしを向ける。鏑木のマザーベースである2年3組を手前にし、4組、5組、6組──門扉が次第に小さくなっていく。それぞれの教室の前では男女が溌剌はつらつとして入り乱れ、ほんのわずかな憩いの時間をたっぷりと満喫している。戯れる彼らの姿がワックスで磨かれたプラスチックタイルにも映りこみ、その盛況ぶりはやはり祝日の浅草寺にも引けを取らない。


 そんな中、ひとり、異様ながいた。


 6組の門前、業務用ワックスをもってしても映らせられないほど俊敏なステップワークで、それはそれは小柄な少女が、スカイブルーのスリッパを一心不乱にサッカードリブルしているのである。


 と、やにわに彼女は、こちらへとスリッパを蹴り出した。それはキラーパスのスピードで滑走し、間に立っているロングヘアの女学生、そのわずか20㎝の股間を颯爽とくぐり抜けた。


「ぬお!」


 黒髪を躍動させて発作的に仰け反る女学生。しかし振り返る暇も与えられず、あっという間に左の脇を通過パスされる。彼女はきっと、存在感の漲溢みなぎるカカオ豆の香りを嗅いだことだろう。


「なんだぁ。詩帆しほさんかぁ」


 しかしカカオ豆の少女は非礼を詫びない。それどころか、すでに次なる股抜きを目論んでいる。スリッパを軽く蹴り出すと、ドリブルを3回、そして、28点の数学テスト用紙を友人に掲げながら「夭逝ようせいするとこでした」と謎の自慢をしているセミロングヘアの女学生を目掛け、再びのキラーパス。


「ぬお!」


 2連続股抜き、達成の瞬間である。


 しかし、やはり少女は満足しない。一瞬にして女学生を通過し、


「なんだぁ。詩帆さんかぁ」


 さらなる獲物を貪欲にロックオン。相方を失って孤独なスリッパを巧みにトラップ。


 その勇ましい様子を眺めながら、


(いいかげん)


 腰の左右に手を当て、


(人のスリッパを)


 鏑木、長い長い溜め息。


(勝手に借りていかないでほしいんですけど)


 ひとりサッカーはまだ終わらない。今度は窓側の壁にぶつけられるスカイブルー、すぐにはばきに跳ね返され、それはくるくると歯車を模倣しながら、校内随一のツインテールを誇る女学生の股間をくぐり抜けた。プロも顔負けの、ビリヤードの股抜きである。


「ぬお!」


 どいつもこいつも同じリアクションである。


「なんだぁ。詩帆さんかぁ」


 相も変わらず無言のままにツインテールの脇を擦り抜けるカカオ豆。そして左の足先でスリッパを捕らえんとする、まさにその時、


「詩帆さん」


 不憫なソールをむずと踏み、彼女の前に立ちはだかったのは鏑木だった。


「これ、あたしのスリッパなんですけど」


 そう、今朝から無かった。登校後、靴棚を開けた時にはすでに片方しかなく、次の瞬間には犯人ホシも特定できていた。憶測だが正確な推理であり、やはり的中だった。


 鏑木の登場に、毎度の真犯人であるこの少女、身体をぴたりと静止させてしばし目を丸めていたものだが、しかし再び重心を低くすると、


「……知っている」


 ぼそりと呟き、彼女の右足に獰猛どうもうな視線を刺した。不敵な笑みさえも浮かべている。


 たちまちのうちに静まり返る長廊下。今し方までじゃれあっていたはずの誰もが固唾を飲んでこちらを注視している。なぜか羨望の色を瞳に浮かべる者までいる。


 なぎの荒野に、一陣のこがらし


「返してもらいますからね?」


 努めて冷静に宣言し、紺色の靴下だけとなっている右足にスリッパを履かんとする、次の瞬間、


「しゃッ!」


 待ってましたと言わんばかりの咆哮ほうこうをあげる少女。そして右足を目掛けて超特急のタックル。鏑木も負けじとたいを入れ替え、背中を向けてガードをつくる。どんッ、功夫クンフーのある圧力とともに少女のお腹がお尻に張りつく。その勢いで危うく弾け飛ばされそうになるも、鏑木、さらに腰を落として耐える。カカオ豆のサニーな香りを一身に浴びながら、己のスリッパを死守する。


「いい加減に返してよ、もう!」


 湧出する汗が大願を帯びると、


「ならばあたしを乗り越えろ!」


 愉悦の右足が獲物をかすめる。


 お互いのスリッパの底、スポンジ製なので摩擦係数は低いはずなのだが、なぜかバスケットシューズのような締まった音が散発。もはや試合ではない。立派な立ち合い。


「いいぞ唯!」


 なるほど、この曲者も認めるフットワークである。仲間とのストバスに興じる元カレに憧れ、なんとなくはじめたバスケットボール、それがいつの間にやら本気になってすでに4年目となり、小柄なポイントガードも板につき、今では特待生クラスの先輩方を押さえて主将さえも担っているのだから。少なくとも、あの頃の得意ぶった厚顔の彼なんかよりは遥かに上手いはず。


 憧れが実を結び、間もなくインターハイを迎える。誰がどう借りても返しきれないような、選ばれし者だけが見られる世界を。


「やはり唯はひと味もふた味も違うな!」


「何味でもいいからもう返してよおッ!」


 しかし、それでもまだ鏑木は、返してほしいと切望している。ブルーレイもライトノベルもハンガーも、ふたりをひとつに結んだ茜色のマフラーも、幸せで幸せで死にそうだった鏑木唯という人間も、なにもかも。


 だって、


(だって、だって、だって……!)


 経験といえば聞こえはいいが、踏み台にされているかと思うと泣きたくなる。


 どうせいつか別れると悟って手放したつもりはない。あげたつもりもない。捧げたつもりもない。踏み台だと嘆く今、だから「貸し」と思っている。貸しであるのならば、いつか必ずや返ってくると信じられるのだから。


「もう返してッ!」


 そう、鏑木はずっと、


「ホントにもう詩帆さん、あの、ホントに……」


 を彼の手で返してもらえる日を、ずっとずっとずっと、心待ちにしている。





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