雪月花

桐生 初

第1話

深手を負った侍が1人、江戸城下にある屋敷の前に辿り着いた。

門前でパタリと倒れたその侍は、肩から多量の出血をし、生きてここまで歩いて来たのが不思議な位だった。

男は旅装していた。


「如何致した!?」


駆け寄った門番の下男が助け起こすと、男は震える手で懐から書状を出した。


「殿に…。」


もう1人、駆け寄った門番が男の顔を見て、叫ぶ様に言う。


「片桐殿ではございませんか!?」


片桐と呼ばれた男は、返事をする事もなく、下男の腕の中で、安堵して力尽きる様に事切れた。




片桐が命と引き換えの様に持って来た血塗れの書状を見た、その家の主は、汚いものでも見る様に一瞥しただけで、手にも取らない。


「殿。片桐が命を賭して持参した書状にございます。どうかご覧下さりませ。」


谷村藩1万8000石の藩主、秋元喬知は、そう言った家老を嫌そうな目で見ると、書状から目を背けた。


「そちが読め。斯様な血塗れの書状、おぞましや。触れてたまるか。」


家老は呆れ返った様子を隠そうともせず、大きな溜息を吐くと、書状を大事そうに丁寧に手に取り、読み上げた。


「国家老、小林様、横領の疑いこれあり。又、藩士の妻女、娘などを姦淫し、拒む者あらば、斬って棄てる由にて候。

何卒、殿のご英断にて、小林様に厳罰なるお沙汰を下されますよう、願い奉る。片桐隼人。」


喬知は、顔色も変えず、退屈しきりといった顔で聞いていたが、終わると、いつもの愚鈍な目で、家老を見た。


「小林の女好きは今に始まった事ではないではないか。それに小林に厳罰をと言うても、小林に腹を切らせたら、誰が国家老をやるのじゃ。

我が藩は藩士も少ないし、石高も少ない。横領だなんて、片桐の嘘ではないのか。」


「何を仰せか!片桐は嘘など吐く男ではありませぬぞ!それに、奴は命を賭して参ったのです!恐らく、小林殿の追手にやられたのでございましょう!小林殿が真実を江戸に告げに参った片桐を、亡き者にしようとした事だけで、疑いは真実と思われますが!」


喬知は、そっぽを向き、耳をほじりだした。

彼にとっては、国表がどうなろうとも、もうどうでもいい事なのだ。

彼の頭にあるのは、専ら、江戸で覚えた三味線の稽古の事だけである。


事実、彼は傍の三味線をさっきからずっとチラチラと落ち着きもなく見ている。


「片桐の妻は、大層な美形であったのう。小林に手を出され、頭に来て、ある事無い事申しておるのではないのかあ。」


「殿!ご冗談も大概になさりませ!では何故、片桐は、追手に命を狙われながら江戸表までやって来たのです!」


「追手と何故分かるのだ、平手。その方、小林とは仲が悪かったのう。この時とばかりに、小林を追い落とす気ではないのか。」


家老の平手は、拳を震わせ、真っ赤な顔で勢いよく立ち上がった。

その鬼の形相に、喬知が怯えている。


「片桐は使い手にございます!この平手の1番弟子じゃ!あやつは、山賊風情に肩口を斬られる様な腕ではござらん!問題は片桐の死に方だけではございますまい!国家老の横領着服とならば、事は一大事にございますぞ!もうようございます!平手にお任せ下され!宜しいですな!?」


有無を言わせぬ平手の剣幕に、喬知も震えながら頷いた。




貴時は文机に肘をつき、居室から見える、江戸城内の庭を見ていた。


「いつもと変わらぬ庭だが、よく飽きもせずに見ておるな。」


貴時の背中から、初老の侍が声を掛けた。

貴時は別段驚きもせず、少し微笑んで答える。

彼が驚かないのは、上司である、桐生吉継が廊下を歩いて、貴時の居室に音も気配も無く入って来たのを、感じ取っていたからだ。


「いつもと変わらぬ様に見えて、毎日違うのですよ。木々の葉も日々を追うごとに減り、その為、池に映る景色もまた変わる。

空の色も違います。無限の組み合わせが存在している。全く同じ景色の日はありません。」


「ふん。相変わらず、坊主の様な事を言う。貴時、谷村藩江戸藩邸で気になる事があった。」


貴時は上座に座した上司である桐生に向き直り、居住まいを正した。


「若い侍が血塗れで門前に到着し、事切れた。書状を手にしていた様だ。」


「書状の内容は?」


「分からぬ。江戸家老の平手は、ワシと道場仲間。それと無く聞いてはみたが、何せ、ワシの仕事がな。」


2人は打ち合わせることもなく、苦笑しあった。


「仕方がないので、御庭番を谷村藩へ行かせてみた所、合わん。」


「あー、何が合わないのです。収支ですか。」


「ほれ。言わんでも分かっておるのだから良いではないか。

左様。農民が年貢で納めたと申す取れ高と、申告して来る取れ高が合わん。調べてみた所、小林が国家老になってから、徐々に徐々に、取れ高の申告が少なくなってきておる。

そして、御庭番はもう1つ掴んで参った。」


「はい。」


「片桐の妻女と申すは、頗る美形だったそうで、国家老に差し出せと迫られた。片桐は妻女を連れて、出奔したらしい。そして、もう1つ。

谷村藩ではしょっ中、女の無残な死体が川から上がるそうだ。美形ばかりのな。」


「ーその美形ばかりの死体も、国家老小林が関与している。片桐と申す輩は、妻女を守る為に出奔した。そうお考えですか。」


「うむ。片桐は勘定方だったそうだ。」


「なるほど。その上、横領の事実も掴んでいるので、江戸に居る藩主に知れたらえらい事とばかりに、追手を差し向け、片桐と妻女を殺害という訳ですか。」


「うん。お主は話が早くていい。」


「そしてこの話を私にするという事は、私に谷村藩へ行けと仰る?」


「左様。」


貴時は仕方なさそうに笑った。


「3日前に秩父から帰って来たばかりですが。」


「そう言うな。お主のその人懐っこさと、直ぐに心を許させてしまうは、他の者には無い、この仕事にはうってつけの特性じゃ。ちょいと行って来てくれ。」


「饅頭買いに行って来いと同じ口調で仰るのは、やめて頂けませんか。」


「朝飯前であろうて。上様の推挙という事で書状はこちらで用意する。明日発て。」


貴時は平伏し、請け負った。




貴時の仕事は、江戸幕府内の、奥祐筆と呼ばれる、今でいう、公安か内閣調査室の様な物である。


御庭番と呼ばれる忍者を、 スパイとして調査に当たらせたり、貴時の様な者を潜入させて、調べ上げたりする。

幕府に害を成さないか、あればその芽を摘んでおく。


各藩に恐れられる立場にあり、現代でも、その仕事や調査内容は明らかになっていない。


つまり、現存する記述が無いのである。


それだけ、秘密裏の組織であり、その全貌も、恐らくは、当時の幕臣にも知られて居なかったであろうと思われる。




貴時は奥祐筆の中でも、トップクラスのスパイだった。

しかし、その彼が帰るのは、深川にある芸者置屋である。


「あら、旦那。またこっちに帰って来ちまったんですか。」


貴時が暖簾を潜って入るなり、丁度支度の終わった芸妓を見送ろうとしていた女将に、そう言われた。


「いいじゃねえかよ。」


「よかありませんよ。立派なお役人だってのに、こんな所を定宿にしちまって。今日だって、お宅からみえましたよ?。帰って来る様に言伝を頼むって。」


「どうせ親父の金が無くなったんだろ。」


そう言いながら懐に手を入れた貴時は、ズッシリと重い紫色の絹の包みを女将に渡した。


「宿代だ。」


「こんなに要りませんよ。」


「残りは酒代にしてくれ。」


「旦那!」


2階へ上がろうとする貴時に、女将が背中から声を掛ける。


「今日、お見えになったのは、お袋様ですよ!」


階段を昇る貴時の足がピタリと止まった。

その普段とは異なる様子に気づかない、出る間際の芸妓が頬を染めて、貴時に声を掛ける。


「旦那、行ってきます。」


振り返った貴時はいつも通り、ニヒルに微笑んでいた。


「ああ、行っといで。」


そして貴時は女将を見た。


「お袋も金の無心か。」


「いいえ。帰って来て欲しいんだと、涙ながらに…。」


しかし、貴時の表情はどんどん無くなって行く。

女将はそれ以上言わない方がいい事を悟った。


貴時は不機嫌になると、無表情になるのだ。


「女将、明日からまた暫く留守にするぜ。」


「あら、やだ。またお役目ですか。」


「ああ。」


「それじゃ、綺蝶に早く帰って来る様に使いを出しましょう。」


「座敷は今日もいっぱいだろ。この家の稼ぎ頭だ。ほっとけ。」


貴時はそれだけ言って、階段を駆け上がりながら背中で言った。


「酒。樽でな。」


女将は深い溜息を吐きながら、心配そうな顔で貴時の背中を見送った。




貴時の部屋の襖を開けた、世にも美しい芸妓は、畳の上に転がる3つもの酒樽を見て、顔をしかめた。


「またこんなにお飲みになっちゃって…。」


酒樽を片付けながら言うが、貴時は窓の縁に座り、月を見ているだけだ。


「なんか嫌な事でもあったんですか~?」


「無えよ。」


「お袋様の話だけでもお嫌なんですか。」


貴時は無表情に綺蝶を振り返った。


「うるせえ。」


「はいはい。またお出掛けですって?いつお帰りになるんです。」


「知らねえ。」


「どこ行かれるんですか。」


「言えるか、バカ。」


「バカとはなんですよ!人が心配してるってえのに!」


「お役目なんだよ。言える訳ねえだろ。」


「だったらそう言えばいいでしょう!?バカとはなんです!バカとは!」


貴時は地団駄踏みそうに怒る綺蝶を見ると、笑い出した。


「いい女が台無しだぜ。それ位にしとけ。」


「ああ~、嫌な人!折角、お座敷早く切り上げて来たってのにさ!」


貴時は微笑んだまま、また月を見上げた。

綺蝶も隣に来て、窓から覗き込む様にして、月を見た。


「今日は新月ですねえ…。」


細い月が夜空に煌々と光っている。


「満月よかいいけどな。」


「ーそういや、満月がお嫌いね。」


「いい思い出が無えからな。」


恐らく、それは今日訪ねて来た、母親に繋がっている事を、綺蝶は薄っすらと気付いていた。


その母親は大層な美形ではあるが、同様に凛として、鬼気迫る様な迫力を持ちつつ、寂しげで悲しげな目をし、そして整った顔立ちの貴時とは似ていない。


血の繋がっていない、継母だというのだけは、人伝に聞いた事がある。


貴時を虐めたのかどうかは定かでは無いが、貴時の性格から察するに、虐められて黙っている性質でもないし、避けるタイプでもない。


恐らく、そんな仕打ちに遭ったら、黙って耐えたり、家から逃げ出しはしないだろう。


綺蝶がそんな事を考えながら、貴時を見ていると、貴時は突然、ニッと笑った。


「酒。」


「飲み過ぎですよ!もういけません!」




その頃、谷村藩江戸家老の平手は、2人の若侍を前に、唸り通していた。


「居らぬか…。その方達しか…。」


さっきからこの台詞を繰り返して言っては唸っている。

随分と失礼ではあるが、それも然りではあるので、2人も反論出来ない。


彼らは、江戸詰めではあるが、ほんの1年前までは国元に居た。


平手は国元の内情を探るスパイを探していたのだが、江戸詰めの家臣達は、どれもこれも給金程度にお勤めをすればいいという者ばかり。


かといって、国元に残して来た家臣は、平手が知っている人間でも、国家老についている可能性もあり、危険だ。


となると、国元の内情も知り、給金並みの事しかしないというイマドキの家臣ではないとなると、この2人しか居なかった。


この2人、仕事はよくこなし、創意工夫も見受けられ、やる気に関しては、平手も高く評価している。


しかしながら、ものすごく頭が切れるという訳でもない。

剣術の腕が優れているという訳でもない。

そして2人の仕事は、出納関係でも無い。


2人の仕事は、調理である。


つまりコックだ。


スパイをさせる人選としては、かなり無理がある。

それで平手は悩んでいるし、2人も戸惑っているのだが、平手は、やけになったのか、腹をくくったのか、いきなり自分の膝を叩いて言い放った。


「隠密に、そなた達に、国家老小林の素行調査及び、横領の証拠集めを命じる!」


命じられた2人は、真っ青になって顔を見合わせた後、泣き崩れるかの様に平伏した。




「真吾…。俺たちに、そんな大役が務まるのか…。」


早朝に江戸を発った2人は、新宿辺りの路端で、握り飯を頬張っていた。

真吾と呼ばれた侍がのんびりと答える。


「まあ、無理だろうなあ。」


「おい!」


「だって、俺たちは、料理しかした事無いんだぜ?刀も持っちゃ居るが、抜いた事すらない。包丁しか握った事ないじゃないか。」


「だけど、お役目だろう?まあ、御庭番みたいな事が出来るとは、正直俺にも思えんが…。」


「しかし、お前は算術は得意じゃないか。」


川端真吾の隣の高杉一明は、虚ろな目になって、握り飯を咥えたまま真吾を見た。


「ーあのな…。大根を値切るのとは訳が違うだろう。我が藩は小国とは言え、出納はそれなりの額になる。」


「そうだなあ…。」


「真吾…。頼むから真面目に考えてくれないか…。」


「お前はいつも、やる前からくよくよ悩み過ぎだと思うがな。」


「お前は考えなさ過ぎだと思うがな!」


遠くから駆けて来ていた馬の蹄の音が、2人の真後ろでピタリと止まり、2人の言い合いもそこで止まった。

振り返ると、目つきの鋭い、しかし、その目はそこはかとなく寂しげで、悲しい侍が居た。


その整った顔立ちの侍は、馬に乗ったまま、2人を見下ろしている。


「な…、なんだ…。」


一明が聞くと、人懐っこそうな笑みを浮かべた。


「それ、どこで売ってる?」


「これは持参した物だが…。」


「なんだ。美味そうだから、売ってるなら、戻ってでも買おうと思ったのに。」


あまりの人懐っこい笑みに、2人の警戒心もあっという間にほぐれてしまう。


「良かったら。作りすぎてしまったから。」


真吾が握り飯を1つ差し出すと、侍は嬉しそうに貰い受け、頬張った。


「美味いな。塩加減が絶妙だ。中の佃煮も食った事無え感じだな。美味い。」


侍は早口で、べらんめえがそこかしこに見える。


褒められた事で、舌も滑らかになった一明が答えた。


「俺達が作ったんだ。あんた江戸の人だもんな。江戸の佃煮は甘く無いからな。これは国元の味なんだ。」


「おう、その通り。あんたどこの人。」


「俺たちは谷村藩の者だ。これから国元に帰る。」


「へえ~。奇遇だな。俺も谷村藩に行くんだ。」


「え…?。」


「なんか人手が足りてねえんだって?上様直々に手伝って来いって言われちまってさあ。」


一明と真吾は、ギョッとして顔を見合わせた。


「上様直々って…。あんたまさか、御庭番か…。」


侍は快活に笑い飛ばした。


「まさか。御庭番なんてのは、人目につかずに行動すんだろ?俺みてえに堂々と出て行ってどうすんだよ。

上様直々だぜ?御庭番だとしたら、隠密送り込みましたって言ってるようなもんじゃねえかい。

谷村藩の御正室は、上様の姉上様だぜ?。

ただの親切だよ。」


この人懐っこさで、快活に笑い飛ばしながら言われてしまうと、本当にそんな気がするから、不思議な物だ。


実際、谷村藩は、藩士がどんどん辞めてしまい、確かに国元では、かなり人員に事欠いている。

2人は納得してしまい、その後も雑談を交わした。




握り飯を食べ、馳走になったと礼を言い、2人と別れた貴時は、馬上から早速文を認(したた)めた。

相手は勿論、上司である桐生である。


話している最中、貴時は油断なく2人の全てを観察していた。


ーお話の江戸谷村藩邸から向かった2人は、台所侍なり。

剣術は元より、政にも暗い模様。

人を信じやすく、性根は頗る良し。

恐らくは平手様が遣わした、あちら側の隠密かと思われまするが、直ぐにも素性が明らかとなり、消されるやもしれず。貴ー




桐生は、御庭番が持って来たその文を読み、直ぐに返事を書いて持たせたが、苦笑していた。


返事には、こちらのお荷物になるようなら、貴時が2人を始末しろと書いた。


だが、貴時はそれは絶対にしない。


寧ろ、彼らが貴時の予想通り、消されそうになったら、策を用いてでも庇うだろう。


「アレは爺様に似たのだな。親父はどうしようもない男だから。」


桐生が呟くと、側で仕事をしていた若侍が顔を上げた。


「伊達様の事でございますか。」


「そうだ。貴時の爺様もワシに仕えてくれておった。矢張り、腕も立ち、人情に厚い男だった。」


「ーそう言えば、伊達様のお父上の事は存じ上げません。」


「アレは、貴時の爺様が亡くなった後、嫌だ嫌だと駄々を捏ねつつ、漸く家督を継いだものの、貴時が元服するまでの三月もの間、病気だと言い張って出仕もせず、貴時が元服すると同時に、代わりに出仕させ、自分は隠居しおった、とんでもない穀潰しじゃ。

訳の分からぬ大陸の壺や、使えもせぬ刀剣に大枚叩き、貴時の母親が亡くなったら、初七日も終わらぬ内に後妻を迎えた。稀代の大馬鹿者じゃ。」


桐生は、貴時の父が余程嫌いらしく、憎々しげにそう言った。


「では、伊達様は、15の時からこの仕事を…。」


「そうじゃ。抜きん出て、その時から才があったわ。剣術もあの通りの腕だしのう。」


今度はご機嫌な顔になる。

桐生は、貴時の父親の様でもあった。




貴時は手厚い歓迎を受けたが、それは表向きの対面を繕う為だけのものであった。


主君の正室が、将軍の姉である、そして、貴時が将軍直々の命を受けて来ているという、ただそれだけの理由である。


台所侍の一明達が思った様に、彼らもまた、貴時を隠密だと信じて疑わない。


居並ぶ国家老とその家臣の、剥き出しの敵意に晒されながら、貴時は全く動じる事無く、人を魅了するいつもの笑顔を浮かべた。


「歓迎、痛み入りますが、どうか上様からの使いというのはお忘れ下さい。一家臣として扱って頂きたい。厚遇は不要です。」


国家老は、脂ぎった、いやらしい顔を歪ませる様にして笑った。


「期待しておりますぞ。宜しくお頼み申す。お蓉の方様がお会いしたいと申されている。直ぐに参られよ。」


早々に貴時を広間から追い出した国家老は、直ぐに側近を呼び寄せて言った。


「どうでもいい仕事を大量にあやつに回せ。

忙しくさせて、余計な事を掴ませぬ様に致せ。

お蓉の方様は、上様の姉君とはいえ、1番格下の側室のお腹じゃ。

いくら待遇に困られたとはいえ、当藩などの小藩に参られたのが何よりの証拠じゃ。

上様とお蓉の方様は不仲という話もある。

助けなど寄越す筈がない。あやつは絶対に隠密じゃ。」


「はっ。」




貴時は、正室、お蓉の方に謁見していた。


「よう参られました。」


貴時の方はお蓉の方は知っているが、お蓉の方の方は、貴時を知らない。


貴時は滅多に表には出ない仕事だし、出来たら将軍以外に顔は知られていない方が都合がいい。


将軍に直に拝謁は可能だが、逆に城内での顔見知りを作る事は極力避けている。


お蓉の方が貴時を知らないのも道理である。


「そなたの様な眉目秀麗なおのこが、江戸城におるとはのう。」


「勘定方の奥の方に居りますので、奥にはお邪魔致しませんから。」


「勘定方ののう…。」


お蓉の方の目が変わったのを、貴時は見逃さなかった。


「はい。」


しかし、お蓉の方は、直ぐに微笑んで、元の顔に戻った。


「そうですか。我が藩も、殿や国家老の横暴や執政のせいか、随分と人が減った様です。よろしくお頼み申しますよ。」




貴時は、国家老の側近の1人である、柳井という男の家に住まわされた。


屋敷としては立派で、形の上では、厚遇されているが、体のいい監視である事は直ぐに分かる。


貴時は、そんな事を考えているとは露ほども見せず、機嫌良さげに過ごし、縁側でキセルをふかしながら庭を見ていた。


お蓉の方と将軍の不仲は、割と有名な話だ。


ただ、理由に関しては、奥祐筆しか知らない。


その理由とは、隠密裏に貴時らが処理したクーデターであった。


お蓉の方は、当時、気が触れたのではないかと思える構想を打ち出した。


女将軍の誕生である。


女性の身分が低かった当時としては、有り得ない計画で、お世継ぎと決まっていた今の将軍も、その当時の将軍も一笑に伏すつもりだったが、お蓉の方は本気だった。


後押ししてくれる重臣や、譜代大名、御三家などまで巻き込み、足固めをし、お世継ぎの命を狙った。


事件は奥祐筆の手で計画段階で防がれたものの、お蓉の方の処遇については意見が割れた。


女にしては、とてつもない野心家であるお蓉の方は、生かしておかぬ方が良いのではないかという桐生の進言に、その時、お世継ぎから将軍となった将軍は、首を縦に振らなかった。


「兄弟殺しは出来ぬ。」


それは優しさや情から言っているのではなく、ただ単に、評判を気にしての事であったが、将軍の命とあらば仕方が無い。


桐生は不安を残しながらも、お蓉の方の支援者らと離れた小藩の、暗愚の主君で有名な谷村藩に輿入れさせた。


貴時はその一件が、今回の件と無関係には思えなかった。


国家老の悪事とは別に、お蓉の方も動いている。


勘定方の採算が合わない事に関して何かしているのは、今日の拝謁で薄っすら分かったが、収支を誤魔化しているのは、国家老という話だ。


それに国家老とお蓉の方の仲も良くは無いと、御庭番からの報告であった。


国家老は、身分だけ高く、金のかかるお蓉の方を露骨に邪魔にしているという話だ。


協力して悪事を働いているというのは、考え難い。


考え事をしながらそのまま縁側に居ると、誰かがこの二間続きの離れに近づいて来る気配がした。


ー主の足音だな。


矢張り、入って来たのは、主の柳井だった。


「まだ庭をご覧に?江戸から来られた方には、秋と雖も、夜になれば冬の寒さに感じられるのでは。」


貴時は屈託なく笑った。


「そうですね。しかし、いいお庭です。」


「そうですか…。有難うございます。庭がお好きなのですか。城内の庭もよくご覧になっておいででしたが。」


「庭には、作り手の心映えが表れます。それを見るのが楽しいのです。」


「ーこの庭を作った者は、どの様な心映えなのでしょうか…。」


そう聞いた柳井は、少し不安そうに見えた。


その様子から、近親者或いは柳井が設計者なのだと気付いた貴時は、柳井に微笑みかけた後、また庭を見ながら答える。


「とても優しい、気遣いの方の様だ。

池に映る木々まで計算に入れ、この部屋を使う者を楽しませる。

その木々も季節毎に、花や葉の色の変化が楽しめるものばかり。

水面が1つの絵になっている。

だから、この部屋でなくても、どこからでも季節と風景が楽しめる。

他の木々は、手入れの簡単なものばかり。手入れをする人間の事も考えている。」


柳井は嬉しそうに笑った。


「実は、この庭は、亡くなった父が庭師に細かく指示をして作り上げたのです。」


「そうですか。穏やかなお人柄だったのですね。」


「はい。先代の国家老で、ご隠居様とも、なんでも相談の上、政務を行っておりました。」


確かに谷村藩は代替わりして、国家老が小林になるまでは、問題は起こしていないし、先先代の治世もかなり良かったはずだった。


柳井という、この男。


父親が国家老である事からも、谷村藩では名門の家系だろう。


もしかしたら、小林には嫌々付き従っているのかもしれないという疑念が、貴時の脳裏に浮かんだ。


監視役として、貴時を押し付けられたのも、そんな様子から、小林には冷遇されているのかもしれなかった。


ー落とし所を見誤らなければ、かなりいい協力者になるかもしれんな…。


先ずは慎重に柳井の真意を見定める為、貴時はそれ以上は何も言わなかった。


「酒をお持ち致しました。」


機嫌良くなった柳井が盆の上の酒を掲げて見せると、貴時は嬉しそうにニヤリと笑った。


「それは有難い。」


その顔がなんとも無邪気で、屈託がないものだから、柳井の顔も心も自然と綻んだ。

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