2.母の依頼(注:気分の悪い話です)

 あたしが消したい親との記憶。

 それは『虐待』の記憶。


 小さい頃から両親の仲が良くないことだけは何となく感じていた。

 父が母に対して手を上げているのを見ていたし、母は泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」とひたすら繰り返していた。

 そんな両親の姿をずっと見ていた。

 両親と会話が出来るようになると、いつの間にか父の対象にあたしも入るようになった。

 来る日も来る日も父にぶたれた。気付けば母もあたしに同じことをするようになった。

 泣いても叫んでも誰も助けてくれない。

 このまま死んでしまうのだろうか。何度もそう思った。

 けれど、思っていたよりも体は頑丈に出来ていた。

 幸い、食事はきちんと与えられていたため、見かけだけはすくすくと育った。

 学校へ行くことも出来た。そこで反撃することを覚えた。

 その時の感動は今でも忘れない。

 両親は絶対の存在だという、あたしの中の根底を覆されたのだ。

 その日から少しずつ反撃をするようになった。

 まずは母に対して。

 子供の頃はやはり体の大きさが圧倒的に小さく、反撃をしてもやられる方が大きかった。

 体が大きくなるにつれて、徐々にあたしの方が強くなっていった。

 その頃には母はあたしに対してぶったりすることは減ってきていた。その代わり、母は寝込むことが多くなった。

 さすがに寝込む母には父は手を上げなかった。

 父の対象はあたしだけになった。

 このままではあたしは壊れてしまうかもしれないと恐怖を覚え、痣だらけになった体で毎日必死に抵抗した。

 ある日、どんっと父の体を思いきり突き飛ばしたら父が蹲まったまましばらく動かなくなったので、家から逃げた。

 母はすでに目が覚めなくなっていた。


 逃げて逃げて逃げて逃げて、気付けば知らない街に来ていた。

 何も持たずに家から出たため、どうやって生きていけば良いか分からなかった。

 その時にあたしを拾ってくれた男の人が、今、お腹にいる子の父親だ。

 その人があたしに『愛』を教えてくれた。

 痣だらけのあたしを見て、もう我慢しなくていい、帰る場所が無いなら一緒に暮らせばいい、他にもたくさん言われた。

 今まで一度も、誰からも言われたことの無い優しい言葉だった。

 思わず涙が溢れた。それは久々に流す涙だった。

 その日から彼があたしの親であり、友であり、同居人であり、彼氏であった。

 だから、彼との子供が出来るのは自然の流れであった。全くおかしくない。

 しかし、子供が出来たと彼に言ったら少しだけ変な顔をされた。あたしはとてもとても嬉しかったから、彼のその些細な変化には気付かなかった。

 あたしは少しずつお腹が大きくなっていくのがとても嬉しくて幸せだった。

 少しだけ不満があるとすれば、子供が少しずつ目に見えて育つのが分かるにつれて、彼の態度がよそよそしくなってきたことくらい。

 でもそれは、これまでは毎日のようにあたしに触れていたのに、子供が出来たから触れられなくなって拗ねているからだと思っていた。

 子供を産んだら、彼とはまた前のような関係に戻れると思っていた。

 とうとう臨月を迎えた頃。その頃には彼はあたしとの家に帰ることが少なくなっていた。一緒に暮らそうって言ったのは彼の方だったのに。

 思うように動かせない体にイライラが募っていた。

 彼にどうしても会いたくなって、いつもはあたしが不在の時を狙って帰るのを知っていたから、不在と見せかけて家に隠れていた。ちょっぴり驚かせようと思ったのもある。

 けれど、逆に驚かされたのはあたしだった。

 帰ってきた彼はあたしじゃない女性を連れていた。

 目の前が真っ暗になった。思わず彼の前に歩み出て、わめき散らしていた。

 すると彼は「うるせえんだよ。邪魔」と言ってあたしを蹴りあげた。

 あたしは痛みでその場にしゃがみこみ、動けなかった。足元には水が溢れていた。破水したのだろうか。

 それを見て慌てた女性が救急車を呼ぶだけ呼んで逃げるように家から出ていった。一緒に彼も出ていった。

 救急車の中で痛みと戦いながらいつの間にか意識を失い、次に目が覚めた時には体が軽くなっていた。

 お腹を触ると、ぱんぱんに大きかったお腹が今は跡形もなくぺちゃんこになっていた。


「え…あたしの子…」


 狼狽した。体がうまく動かせないからとにかく叫んだ。白い部屋の中で出せる限りの大声で叫んだ。

 すると、パタパタと扉の向こうから足音が聞こえる。

 バタンと扉が開くと同時に赤ちゃんの泣き声が部屋に響く。


「あ…」

「無事に産まれましたよ」


 涙が溢れた。

 あたしが望んだ子供。彼は居なくなったけれど、あたしが大事に愛情を持って育ててみせる。

 真っ赤な顔で大きな泣き声をあげる女の子をあたしはぎゅっと抱き締めた。


 それからは大変だった。

 何といっても子育てなんて初めてのことだ。助けてくれる人もいない。

 あたしは記憶にある限りのあたしなりの接し方で大事な子供を育てることにした。

 だけど、子供は泣くばかりで何を言いたいのか分からないし、彼が拾ってくれたからあたしは一人で暮らすことが初めてだった。

 少しずつあたしの心が蝕まれていった。

 いつしかあたしはあたしの両親と同じように、あたしの子供に手を上げるようになった。

 決して手を上げたかったわけじゃない。

 あたしはただ、子供を愛したかっただけだ。

 けれど、愛し方が分からなかった。

 もどかしい気持ちが暴力となって溢れ出てしまったのだ。

 感情のままに手を上げて、冷静になると子供をぎゅっと抱き締めて「ごめんね、ごめんね」と謝る日々。


 ある日、面白い噂話を聞いた。

 望む記憶を消してくれる店があるらしい。

 そんなこと出来るわけない、と最初は全く信じていなかった。

 だけど、どんどんと蝕まれていく心が耐えきれずに壊れてしまう気がして、最後の悪足掻きと思いその店に足を運んだ。


 そこには驚くほど綺麗な顔をした少年が店主をしている紅茶の店だった。

 妙に女性らしい体つきをした店員もいた気がするが、女性の顔はあまり覚えていない。ただ、人形みたいな女だなと思ったことは覚えている。

 そしてあたしはあたしの望む記憶を消してもらった。

 これでようやくあたしなりの愛し方をしてあげられる。


◇◇◇


 ふと気付けば紅茶専門店の店内にある喫茶の椅子に座っていた。あたしの子供がいない。

 大事な大事な愛しい我が子。慌ててきょろきょろと子供を探す。

 どうしよう、と思ったところにガチャリと扉の音が聞こえた。

 そちらの方を向くと、店員に手を繋がれて楽しそうに話している子供の姿。


「どこに行ってたの!」


 思わず叫んでしまった。

 子供はビクンッと体を震わせて店員の手をぎゅっと握り締めた。あたしはそのことにひどく苛つくのを感じた。


「申し訳ありません」


 あたしが口を開く前に店員が謝ってきた。どうやら子供を手洗い場に連れて行っただけのようだ。


「あ…早とちりして…ごめんなさい」

「いいえ、とんでもございません」


 店員はそう言って子供をあたしの側まで連れてきてくれた。

 あたしがぎゅっと力強く手を繋ぐと少しだけ子供が震えている気がするのは気のせいだろうか。

 あたしに怯えている?こんなに貴方のことを愛しているのに。ますます心が苛ついていくのを感じる。


 その後紅茶の注文を聞かれたけれど、人形のような笑い方をする店員が不気味に見えて、怖くなって逃げるように帰って来た。

 その日からあたしの子供は変わった。ちっとも笑わなくなった。あたしの記憶の中の子供はにこにこと笑っている。


「笑いなさいよ!こんなに愛してあげているのに」


 バシッと部屋に音が響く。

 子供は何も言わずグッと唇を噛み締めて、ただひたすら叩かれる時間が終わるのを暗い瞳のままで耐えている。

 これがあたしの愛し方。これしかあたしは愛し方を知らない。

 あたしの身体中にある彼に愛された痣と同じ痣が出来ていく子供を見て、あたしはたくさんの愛情が証になっていくのを嬉しそうに眺めていた。


◇◇◇


 モネは親子を見送ってから、長い袖に隠された自分の痣を無意識に擦っていた。

 もう痛くはない。いや、そもそも痛みを感じたことはない。

 だけど、あの女の子の身体中にあったあの痣を見た時には何だか心が揺れた。どれもこれも古くからあるような痣。繋いだ手も、強く強く握りしめられて痣になっていた。

 その小さな手をモネは優しくきゅっと握ったら、女の子は年頃らしい笑顔で答えてくれた。


 女の子のことを考えていたら、カチャリと奥の扉が開いて、珍しく店主が店内を覗いてくる。


「ご注文されませんでした」

「気にしなくていいよ。儲からないのはいつものことだから」

「大丈夫なのでしょうか」

「………」


 モネの不安そうな声にフィンは少しだけ驚いた。いまだに閉まった扉の向こうを悲しそうに眺めるモネを見てこう言った。


「記憶は消えても刻まれた事実は消えないよ」


 それは誰に、何に対しての言葉だったのか。

 モネは思わずぎゅっと自らの体を抱き締めた。

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