満たされたいふたり

山本輔広

第1話雨の日の捨て猫地味子さん

「ひっく……ひっく……」


 アパートの玄関口でずぶ濡れになった女性が泣いていた。

体育座りすると眼鏡をずらしながら涙を拭う。

寒そうに震えると足を抱きよせる姿は、まるで捨てられた猫にも見えた。


 雨水に滴るおさげ髪、水滴残す黒ぶち眼鏡、彩を知らないような地味なスカートと地味なニット。

お隣さんの確か――地見さん。


仕事帰りだった須賀孝太郎は、お隣さんが何故このようなことになっているのか疑問に立ち尽くしていた。


「大丈夫ですか?」


 捨て猫地味子が涙をぬぐいながら、視線を合わせる。


「だ、だいじょばないです……鍵……なくしちゃって……」


 嗚咽交じりの呼吸をしながら、地味子が助けを求める視線を向ける。

孝太郎はそんな地味子を放っておけるはずもなく、体育座りしていた地味子に手を差し伸べた。


「とりあえず中入りましょう」


「はい……ひっく……」


 地味子さんの手を引いてアパートの玄関を開ける。

アパートは二重ロックになっており、玄関口と自室の玄関と二つのカギが必要である。

地味子さんはキーケースごとなくしてしまったらしく、自室に入ることが出来ない。

濡れた地味子をそのままにしておくわけにもいかず、孝太郎は仕方なしに今までほぼかかわりのなかったお隣さんを部屋へとあげることとなってしまった。


「ごめんなさい……ご迷惑ですよね」


「鍵をなくしたなら仕方ないですよ。災難でしたね」


 タオルを渡すと、地味子はまず涙をふき取る。

それでも泣き止む様子はない。拭いた瞬間には次の涙が頬を流れていく。

どうしてか――孝太郎にはそんな地味子がとても可愛く見えてしまう。

よくよく見てみれば濡れた服はボディラインにそって張り付いていて、見た目は地味だけれど男ならば見とれてしまうようなボディラインがはっきりとわかる。


「今着替え用意しますね!」


 思わず見とれてしまった視線を外すと、タンスの中から着替えを引っ張り出す。


「あ、えと、おかまいなく……」


「服ビショビショじゃないですか。風邪引いちゃいますよ」


 とりあえずタオルと着替えを引っ張り出す。

下着はどうしようかと考えたが、さすがに男物を渡すのは――どうだろうかと悩んでしまう。

かといってノーパンというのも。

一応――まだ履いてない新品のボクサーがあったので、それも一緒に脱衣所に用意する。


「あ、あの……」


「僕はいいんで、シャワー使ってください」


「いいんですか?」


「風邪引いちゃいますよ」


「あ、ありがとうございます……」


 泣きっ面が頭を垂らす。

ぽたぽたとおさげから雫が垂れると、地味子さんはまた申し訳なさそうにしている。


 少しして、浴室からはシャワーを浴びる音が聞こえてきた。

濡れていたスーツから着替えた孝太郎は、自室に女性が――ましてやシャワーを浴びているなど考えていると胸の鼓動が高鳴ってしまう。

けれど、間違いなど絶対に犯さない。

そう、これはただお隣さんがカギをなくしたから一時的に家に入れただけ。

これからどうなるかなんてことはない。

きっと管理人さんに言えばすぐにでも部屋を開けてくれることだろう。


「そうだ……管理人さんに言えばよかった」


 いきなり家にあげるのではなく、先に管理人さんに言えばよかったと後悔する。

しかし、時刻はもう22時を回っている。管理業務はまだやっているか思い出してみるが、確かこの時間はもう閉まっていた気がする。


 シャワーの音が止んでいた。


「あ、ありがとうございました……」


 ドキリとしてしまう。

当然のことだが、メンズサイズの衣類は地味子さんには大きすぎた。

だぼだぼのTシャツ、だぼだぼの短パン。

頬が赤くなっているのはシャワーを浴びたせいなのか、それとも。

 伏し目がちに床に女の子座りすると、地味子さんは恥ずかしそうにしている。


「僕もシャワー浴びてきますね。あ、後俺がシャワー浴びたら管理人さんのところ行ってみますよ。

もしかしたら鍵開けてくれるかもしれないし」


「あ、そ、そうですね! わ、忘れてました……」


 普段とは違う日常にどぎまぎしてしまう。

というか、孝太郎にとってお隣さんと話すことなど、引っ越してきて一月経つが今までなかったことである。

変な緊張感に包まれながら、孝太郎は脱衣所へと足を運んだ。


 脱衣所にあったものに、思わず目が釘付けになってしまった。

籠の中に入っていたのは、真っ赤なブラジャーと真っ赤なパンツである。

レース可愛らしく、花柄がいかにも女の子だと主張するようなセクシーな下着セット。

見た目は――地味であるのに、下着はこんな可愛いものをつけているのかと、孝太郎は目が覚める思いだ。


 これ以上見てはいけないと、服を脱ぐとさっさとシャワーを浴びる。

地味子さんより少し長めにシャワーを浴びると、孝太郎は部屋へと戻った。


「じゃぁ、僕管理人さんのところ行ってきますから、少し待っててください」


「あ、わ、私も一緒に……」


「いや、いいですよ。僕行ってきますから」


「ですが……」


 ノーブラの女子を一緒に歩かせるわけにも行かない。

孝太郎は地味子のことをその場にいるように言い聞かせると、一人一階の管理人室へと出向いた。

 結果からいえば、管理人業務はすでに終わっていた。

朝は8時からやっているということなので、今日はもう地味子は部屋へと戻ることが出来ない。

残念な結果を持ち帰り、孝太郎は部屋に戻ると地味子にその旨を説明した。


「朝じゃないと駄目なんですね……」


 ため息をつく地味子。


「僕明日休みだから、管理人さんに行っておきますよ」


「あ、私も明日は休みなので……私行きます」


 だから、あなたノーブラでしょう。とは言えず、孝太郎はとりあえずその場は納得することにした。

明日になったらまた孝太郎が行くといえばいい。


 しかしながら、ほぼ話をしたことのないお隣さんと一晩過ごすことになってしまった。

どう話を繋げばいいのか迷いながら、孝太郎はとりあえず何故泣いていたのかを尋ねた。


「実は……今日は嫌なことばっかりあったんです」


 切々と語り始める地味子。

その目には泣き止んだ涙がまた浮かび上がってしまっている。


「朝から災難ばっかりで……折り畳みの傘は壊れちゃうし、会社では上司に怒られるし。

帰ろうと思ったらキーケースは無くすし、スマホは落として割れちゃうし、車に水ぶっかけられちゃうし」


 随分と不幸を引き寄せる人なんだなと思い、孝太郎も地味子に同情してしまう。

目からは一日の不幸分の涙が流れると、また嗚咽が漏れてくる。


「大変でしたね……」


「はい。それに、お隣さんにはご迷惑かけちゃうし。私本当にダメダメな人間で」


「そんなことないですよ。誰にだって辛い事が重なるときはあります。

そういうときは飲んで忘れることですよ。丁度お酒買ってきてるんで、一緒に飲みませんか?」


「でも……」


「大変なときは飲んで愚痴って忘れましょう。それともお酒苦手でした?」


「いえ……むしろ大好きで……」


「なら飲みましょう。本数ならあるんで好きなだけ飲んでください」


 やっと地味子に笑顔が戻った。

といっても申し訳なさ半分、嬉しさ半分というほどだが、笑ってくれるとなんだか可愛らしく思えてしまう。


 プシュッと嬉しい音が響いて、ビールのプルタブを開く。


「そういえば、名前伺ってなかったですね。確か、地見さんでしたっけ?」


「はい、地見香澄っていいます。香るに水が澄むの澄で香澄です」


「僕は」


「須賀孝太郎さんですよね?」


「あ、そうです。よく知ってましたね」


「え、あ、あの! ほら先月越してらっしゃったじゃないですか! そ、そのときに名前を!」


 やたら慌てながら地味子さん――香澄は両手を振って否定するようなしぐさをしている。


「そうでしたか。じゃぁ今日は地見さんに乾杯しましょう」


「私に――ですか?」


「はい。これを呑んだら今日の不幸は終わりです。明日からはきっと素敵な一日になりますよ」


「素敵な一日に――、えへへ、もうなってる気がしますけど……」


「?」


「なんでもありません。じゃぁ、私の不幸にかんぱーい」


「かんぱーい」


 カチンと澄んだ音を鳴らし、二人の喉をビールが通り過ぎていく。

お酒は大好きといいながら、香澄は酒に強いわけではないようですぐにでも顔を赤くしている。

ありあわせのつまみをやりながら、香澄はグイグイと空き缶を増やしていく。

次第にグデングデンになると、地味子はニヤニヤとしながら愚痴を吐き出しはじめた。


「上司がねぇ~、私は声が小さいし、オドオドしてるから新入社員にも舐められるっていうんですよぉ~」


「大変ですね。お仕事はなにをしているんですか?」


「営業ですよぉ~、ヒック。でも、最近はお得意さん周りばっかりで。あぁ~」


「大丈夫ですか?」


 たぶん大丈夫じゃないけれど一応聞いてみる。

赤くなった顔はニヤニヤしながらベッドのへりによりかかっている。


「らいじょうぶですよー。れも、孝太郎さんがおうち入れてくれて香澄うれちい」


「はは、僕じゃなくてもきっと助けてくれましたよ」


「孝太郎さんが助けれくれたから嬉しいんですぅ~」


 どういう意味だろうと深読みしてしまう。

孝太郎だから、というのは聞き捨てならないワードである。

しかし――、そのワードにドキリとするが孝太郎はぐっとこらえる。


「香澄さん酔ってますね」


「酔ってまぁしゅ♡」


「はは……眠たくなったらベッド使ってください。俺床で寝るんで」


「や!」


「えぇ……」


「お姫様抱っこして寝るまでいいこいいこして! じゃないと香澄寝ない!」


 あぁ、この人は酔うと甘えん坊&面倒くさい人になるんだなと察する。


「さすがにそれは……」


「早く! 孝太郎さん! はーやーくー!」


 もう夜中の0時を回っている。さすがにあまり騒がれても近隣のご迷惑になると、孝太郎は仕方なく香澄をお姫様抱っこするとベッドへと寝かしつけた。

酔いの回った香澄は横にされると、目を閉じる。

しかし、言ったようにいいこいいこはされたいようで、シャツの袖を掴むといいこいいこをするまで離さなかった。


「明日朝になったら管理人さんのとこ行きますね」


「あい……」


「今日はもう休みましょう。一日大変でしたね」


「あのね……」


 香澄が孝太郎の手を握る。


「孝太郎さん引っ越してきたときね、香澄ね、かっこいい人がきたなぁって思ったの」


「――」


「だからね、今日は嬉しかったの。ありがとうね、孝太郎しゃん」


 ドキリとする。

 でも――。


「香澄さんおやすみなさい。朝にはバイバイですからね」


「うん……おやしゅみなしゃい……」


 手を離し、香澄の顔を見つめる。

お隣の地味子さん。見た目はぱっとしないが――孝太郎にはストライクゾーンど真ん中の女性であった。

本当は引っ越ししてきたときから可愛いなと思っていた。

お隣さんが可愛くて嬉しいなと孝太郎も思っていた。


 でも。


(もう僕は恋愛をしないって決めたんだ――)


 そう決めていたから、これ以上のことはもう出来ない。

朝になったらすぐに管理人のところへ行って、それで香澄とは終わり。


「おやすみなさい、お隣さん。明日にはバイバイですからね」


 部屋の灯りを消して、孝太郎も床に横になる。

朝になれば全て終わり、もうこれ以上接するのはよそうと考える。


 もう二度と――辛い思いはしたくないから。


 明日になれば、これっきりで終わるとそう思っていたのに。

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