ログ:御倶離毘(2)


「紗也様だぁ、綺麗……」

 村の子ども達が口々に言うさまを生前の紗也はどう聞いただろうか。十字架に打ち付けられた少女の肉体はもともと白かった肌がさらに血の気を失い、宵闇の空を背に異形じみて際立っていた。篝火と松明に照らされる彼女の顔には悲喜もなく静寂とも呼べる神秘さすらある。

「見てくだせぇ! 紗也様がいよいよ御柱に掲げられますけん! オイはこの瞬間を目ん玉かっぽじって焼き付けっど」

「しゃーしかあんた! ちょっとは神妙にしんしゃい!」

 吾作が指さす御柱に紗也を掲げた十字架が組み合わされた。根元にいた男達が一斉に綱を引き下ろすと十字架が御柱の頂上へ高々と突き上がった。紗也が遥か見上げる所まで行ってしまった。村人達は興奮して大歓声を上げる。感極まり声を上げて泣き出す者さえあった。

 だが御柱の前に鉄平が立つと水を打ったかのように辺りは静まり返った。鉄平は、広場に群がった村人たちを見下ろす位置からこちらに顔を見せている。篝火に照らされる表情は心の読めない、きわめて恐ろしく洗練された無表情だった。背後には紗也と似た宗教的装飾をまとった女たちが居並んでいる。いずれも彼女らの眼下に立ち込める人いきれとは別世界にいるような気配を放っている。そういう風に、エリサには見えた。

「祈祷」

 鉄平が発したのは一言のみ。それだけで村人達は一様に手を組み虚空に向けて瞑目した。吾作とソヨカも同様の姿勢をとる。吾作に囁かれてゲイツも真似をするが半目を開けてエリサと視線を交わし、手だけを組んで人々の様子をうかがう。

「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」

 鉄平が祝詞マスカと呼ばれる詠唱をした。呻くような声を追って広場に溜まる群衆も唱え始める。

「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」

 理解できない言葉の羅列。呻くような低い声で呪術の類に似た詠唱を周りが天空に諳んじている。なんとも不気味な光景である。詠唱は繰り返される。発声法も独特であり遠くにいながらでも言葉が明瞭に届いている。村人が導師の祝詞に後掛けする度、大勢から発せられる波長の揃った呻き声で頭上の空気が重く震える。

 鉄平の背後に立つ女たちが、口からまた別の音を出した。

「!」

 その時である。エリサは己の目を疑った。いや、ゲイツも信じられないと言う顔をしている。御柱に打ち留められていた紗也の死体が動いた。気のせいではない。確かにエリサは、あの手に生えた小さな指がまっすぐに伸びたのを目撃した。

「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」

 だのに、群衆は祈祷の詠唱を止めない。果たして彼らは気づいているのか。今お前たちの目の前で起こっている異変を。……いや違う、そうじゃない。彼らにとってこれは異変などではないのだろう。その証拠に、周囲の彼らの顔を見れば分かってしまう。瞼の下で詠唱する彼らの瞳が喜ばしい色を宿していると。

 村を揺らす呻き声が高まってくる。徐々に死体が顔を上げだした。

「そんな、まさか……」

 背中から悪寒が込み上げる。この世で最も嫌悪する何かに首筋を舐められたような最悪の不快感が全身を駆けずり回る。思わずゲイツの袖をつかんだ。

「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」

 人々の言霊が叫びのような沸き方をして十字架の下の女たちが奇声を発した。

 閃光が視界を奪い去る。暗雲に満ちた空がしたたかに青白い亀裂を大地に落とした。

 雷が鳴った。

 爆音が轟きわたり、熱風が人波を撫でつける。物が焦げたような煙たさが鼻を衝く。

 目が光を取り戻すと御柱が燃えていた。

「……奇跡だ」

 誰かの呟く声。

「奇跡だ、奇跡だ、奇跡が起きたぞ! 朋然ノ巫女様が空の神と誓いを結ばれた!」

 誰かが叫んだ瞬間アオキ村に息衝く人々は熱狂に咆哮した。集落を絶叫が包む。雷が落ちた十字架は形を崩すことなく燃え盛っていた。耳をつんざく金切声。すべての視線が空に浮かぶ少女の姿へ。炎の中で焼けていく紗也の死体。炎上する柱を囲んでは村人達が踊り出した。

 ――なんだ、なんなんだ、これは。

 エリサはあまりもの異様さに胃から込み上げるものを両手で押さえた。

 狂ってる。やはり、この村は狂っている。

 何かに縋らねばならないほどの精神性。鉄平の言う通りだった。

「おやめなさい」

 その時二百を超す人の絶叫がただちに止んだ。

 炎の中で喋る者がいる。

「皆よ、尊厳を忘りょったか」

 ─―紗、也……?

 いや違う。自分が知る声じゃない。

「紗良様だ、紗良様だっ」

 年嵩な男が悲鳴のような声を上げた。

「皆の者ォッ、紗良様が地上に再臨なさったァッ!」

 場の空気が燃え上がるように沸騰した。

(あれが、先代の朋然ノ巫女・紗良……?)

自分わえのちも世は変わらぬな。然れど貴方達そもじらの役目を負う心は努々ゆめゆめ変えぬよう励めよぅ」

 紗良は鷹揚おうように喋る。村人は次々と平伏して頭上から降りかかる言葉を聞いている。まさか本当に人々の呪詛が紗良の命を呼び戻したのか。

「此れは、天上より得た紗良の御言葉みことばぞ。皆に賜う」

 焼ける紗也から言葉が続く。人々の平伏は強き者に撫で伏されたような形である。

「我が名は、紗良。朋ぜ」

 砕けた。

 御柱が砕け散った。燃え上がる御柱が突然砕け散った。

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