生活と塩

@Muster_Bater

第1話

 「ほら、今もだ。他の課員はもちろん、最近では無機物でさえ君の行動を監視してんだ。キーボードも電話も。腕時計なんかはとくに優秀な諜報員だ。だってずっと君と一緒にいるんだから。そりゃあ、そうだよねえ」

 スライダーをドラッグして音量を上げる。ブルース・ブラザーズのサントラ。オフィスにいるからイヤホンは左耳にしかついていないが、何もないより遥かにましだ。

 「無駄だろ。それ。だってこの声にしても君が作ってるわけだし。なんていうか、頭弱いよな。うける」

 スライダーをドラッグして音量を上げる。これ以上音量を上げると聴覚に影響を及ぼす場合があります、という親切な表示。

 「そんなもんに頼るなよ。音楽は人を救わない。音楽で世界が変わったことがあったかよ」

 スライダーをドラッグして音量を上げる。パラメータは最大。確実に音が漏れている。重い汗が背中を伝うのが分かる。

 「君は弱いんだよ。そして変われない。早く席を立つべきだ」

 僕は今日も降伏し、怪訝と嫌悪の目で僕を見つめる課員達をあとに、多目的トイレへと向かった。

            

                  ☆


 状況が変わり始めたのは今から約3か月前のことだ。

 4月。忌々しい萌芽の季節。

 春は一流の詐欺師だ。「世界には残酷なことなど一つだってない」、そんな表情をして無差別に萌芽を促進する。花は素敵に咲き乱れ、蝶は幸福に舞い踊る。生は美しい———人々の間にもそんな風が吹く。

 しかし、そんなものは欺瞞だと僕は考えている。早晩花は車に踏みつぶされ、蝶はカマキリに生きたまま貪られる。今際の際、彼らはこう思うだろう。「なぜ生まれたのか」と。しかしその時に春はいない。生の理由も、意義も、内訳も、なんにも告げずにいなくなる。責任を取らず、そんなものは自分で探せという。たちの悪い政治家のようで、僕は春が大嫌いだ。

 そして、僕があれを見つけたのも、同じ春のことだった。

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