第2話 身分は奴隷です 改稿

「ああ…いつもの天井だ…」

 

見慣れた木目の板張りの天井に、俺は深い溜息を漏らす。

まだ夜明け前だが、起床の合図の前に目覚める習慣が、身体に染み付いていた。


——あの不思議な空間は、夢ではなかった


いや、まだ夢の続きなのかもしれない…。

そんな期待をしてしまう程、現実は残酷だ。


あの日、まだ夢の中だと信じていた頃。

背丈の低い目線に戸惑いながら、あてもなく草原を歩いていた時の事だ。


非現実的な真紅の半月を見上げながら、夢の中の冒険に胸を踊らせていた。


やがて、街道に辿り着くと、その先には小さな城壁に囲まれた街が見えたのだ。

門の前には衛兵がいたが、子供の姿に怪訝な表情を浮かべるものの、構わず進む俺に何も言うことはなかった。


石畳の敷かれた道をしばらく歩くと、西洋の石造りの建物が立ち並ぶ、美しい街並みだった。


月夜に照らされ、立ち並ぶ店先からは威勢の良い客引きの声や、酒を酌み交わす人々の声が飛び交う、賑やかな光景。


だが、


——聞きなれない発音に首を傾げる。


——見た事もない文字に眉をひそめる。


——これは夢なのか?


夜風が肌を撫でる度に、言いようのない不安に襲われた。

聞いた事もない言葉で話しかけられる度に、頭が混乱した。


瞳に映る色彩、肌に触れる感触、耳に残る喧騒…その全てが現実感に満ち溢れていたのだ。


——これは本当に夢なのか?


それから先は、絶望の日々だった。

道端で物乞いのような真似もした。

食べ物を盗んでは、意味のわからない言葉で怒鳴られた事もある。


だが、誰一人として、手を差し伸べてくれる者はいなかった。


いや、言葉がわからないのだ。

そんな俺はやがて、相応しい場所へと堕ちていく。


——貧民街だ


そして、そんな場所のありふれた日常の一つ…人さらいに捕まってしまったのだ。

 

縄で手足を縛られ、荷物の様に運ばれていく。

このままどこに連れて行かれるのかもわからなかったが、不思議と抵抗する気にはならなかった。


…もう全てに疲れていたのだ。


「……」


あれから半年、今こうして天井を眺めている。


床には申し訳程度の布団が敷かれており、お世辞にも清潔とは言えない場所だ。


周囲を見渡せば、大部屋には同じような年齢の子達が、身を寄せ合うように寝ていた。


つまり答えは簡単だ。

ここは、奴隷商人の館なのだ。


俺は人さらいに売られたのか、今は奴隷として生きているのだ。


だが、あんな場所に比べれば天と地ほどの差だ。

少なくとも飯にはありつけるし、屋根のある場所で眠る事ができるのだから。


そして、言葉も文字もわからなかった俺は、教育を受ける事が出来た。

知力20に振ったおかけだろうか、短期間で生活に必要な言葉と文字は、学習済みだ。


「…こんなクソみたいな夢で、終わってたまるかよ」


右手を掲げる。

手の甲には、青白く輝く模様が刻まれていた。

同じように首元にも…。


魔法で刻まれた奴隷の証だ。


——奴隷紋


そんな呼び名がついていた。


俺は、その得体の知れない紋様を見つめる。

どのような制約が、かけられているのかわからない。

魔法なんてものは、初めて見たのだ。


「…試すには、情報が足りないな」


…賭けるのは自分の命なのだ。


カン!!カン!!カン!!


金属を叩きつける音が部屋に鳴り響く。

起床の合図だ。


奴隷の朝は早い。

身支度を済ませると、井戸から水を汲み、顔を洗う。

次に掃除だ。


その後は、質素な朝食を手早く済ませ、各自の課題訓練に駆り出される。

この館には様々な子供達がいるが、その扱いは同じようなものだ。


俺の場合は、まず言葉を覚えさせられた。

何かを指差されては、ひたすら発音を聴き取り、それが何かを覚えていくのだ。

物覚えの良い頭に、感謝したものだ。


そして、今は剣術訓練を受けている。

…といっても、木剣を振る基礎訓練からだ。


故郷の誰かがこの環境を聞けば、奴隷?と首を傾げるかもしれない。


答えは簡単だ。


——ここは出荷前の教育施設なのだ


商品価値を落とすような暴力はないが、従順になる為の加減された暴力はある。

俺のように言葉が理解できない者はいないが、言葉が拙いものは、俺と同じように教育を受けた。

 

そして、覚えの悪いものは出荷された。

…おそらく、言葉が必要ない場所だろう。


——だから、俺は誰とも話さない


商品だと思わなければ…物だと思わなければ、無駄に聡い頭が、余計な事を考えてしまうのだ。


そう思っていたのに…。


「夕ご飯はなにかなー?クロくんは今日、料理当番?」


スカイブルーの髪を揺らしながら、俺の横で木剣を振る少女は、屈託のない笑顔でそう尋ねてくる。


「ボク強くなりたいからさ。クロくんが当番なら、すこーし量増やして欲しいんだよねー」


歳は13だと言っていた気がする。

名前は覚えていない。


…いや、覚えないようにしていた。


「あ、バレないようにね!」

「…見れば、バレるに決まってるだろ」


肩にかかる程度の短い髪を揺らしながら、ずっと話しかけてきていた青髪の少女。

過去を振り返って無視していたのに、あまりにしつこいから、答えてしまったのだ。


「クロくんみたいに、隅で食べればバレないよー」

「…なぜ、それを…」


思わず口を滑らせてしまった。


「だって、クロくん、いつも一人でコソコソしてるんだもん」

「コソコソって…」

「んんー、クロくんって、ほんと女の子みたいだよね?」


驚きのあまり振り返った俺に向けらたのは、無邪気な笑顔。

こんな場所には似つかわしくない、無垢なる表情だ。


——眩しいな


「クロくんって気軽に呼ぶな、俺には…」


俺には…。


「名前、思い出したの?」

「…いや」


俺には、この世界で名前がなかった。

ただ黒髪黒目だから、彼女は俺をクロと呼んでいる。


「無駄話してると、教官にぶっとばされるぞ」


奴隷商人から雇われている教官が、こちらを見ているのだ。


「続きは部屋でだね!」


教官の視線に彼女も気づき、また黙々と素振りに戻った。


…ああ、夢の前の俺も、こういう相手に弱いんだった。


必要ならコミュニケーションは人並みに取れるが、距離を詰めるのが苦手だった。

だから、掛け値無しで距離を詰めてくる相手が苦手であり、好きだったな。


そんな彼女の横顔を見る。

商品としてではなく、人として見てしまった気がした。


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