第8話 王女アリシア

 

 バチリ、と。

 薪が爆ぜて、音が鳴った。

 暖炉で、炎が赤く燃えている。

 春先であるにもかかわらずくべられた火によって、部屋には暖気がうずまいていた。

 南方のウディール地方に住む職人たちが何年も掛けてようやく完成させるふかふかのじゅうたんに、天蓋つきのベッド。きらめくガラス細工に彩られたシャンデリアと、意匠の凝らされた座椅子。

 壁に掛けられた絵画は、人間の背丈よりも大きい。高名な画家によるものだろう。彩色も鮮やかな絵だった。翼を持ち、火を吐き出す巨大なトカゲと、神から授けられたという大きな槍と盾とを持って戦う勇者が描かれている。


 フェルビナク王国の第一王女、アリシア・フェルビナクの寝室である。


(困ったわ……)


 天蓋付きのベッドの上で、アリシアはうずくまっていた。


 寒気がする。吐き気もだ。

 困ったというのは、体調不良の話ではない。


 今日の昼に、実の父である国王オズワルドから言い渡されたからだ。

 魔王と同盟を組むために、婚姻の申し出を承諾することに決めたと。

 国を守るため、魔王とアリシアは政略結婚することが決まったと。

 婚約者の魔王は、見ず知らずの相手だ。一度も会ったことがない。

 魔王ヘクセンナハトは、彼女が産まれた日にふらりと王宮へ訪れた。

 魔王曰く、二十年以内にこの国が滅んでしまうという。

 それを防ぐことができるのは彼だけであり、救う代償としてアリシアとの婚姻を要求した。

 アリシアは魔王の顔を知らないし、魔王が王宮に出向いたのも、彼女が産まれた日の一度きりだという。


『この国は、嫌いだ』


 去り際に、魔王はそう呟いていたという。

 得体の知れない相手だった。

 銀色にきらめく全身鎧コンバットスーツを身に着けて、がしゃがしゃと軋んだ音を立てて動いたという。

 噂によれば、その中身は人間ではないらしい。人の形はしているが、誰も真の姿を見た者はいないという。

 そんな相手と、いよいよ結婚することになる。


 そのこと自体は、どうでもいいのだ。


(困ったわ……)


 三日後には王宮を出立し、騎士団に守られながら魔の山アーヴァインへ向かうという。

 嫌な気分がぬぐえない。追い詰められていた。目の前の現実に対するストレスが、アリシアに寒気を感じさせ、吐き気を伴う不調を招いていた。

 嫌だ、と思う。

 魔王と結婚させられることが、ではない。

 自分の許嫁が魔王であることは、幼い頃から聞かされていた。物心ついた頃からこれまでの間に、人外の名前も知らぬおぞましい者とつがいになることへの覚悟は済ませている。

 最悪の場合、死ぬだけだ。

 そこは、どうでもいい。

 自分が誰と結婚するかどうかなんてどうでもいいし、相手が人間であるのかどうかもさして興味はない。というよりも考えても仕方がない。魔王からの一方的で強引な求婚は、自分が産まれた頃にされたわけで、そのせいで幼い頃から花嫁修業をさせられてきた。

 あれこれ希望を抱こうとしたり悩んだりした時期もあったが、今さら蒸し返してもどうにもならない。だからすでに諦めている。


 それよりも何よりも、しなければならないことがある。

 その、しなければならないことを、できない。できそうもない。

 それが、たまらなく嫌だった。


(お金を返さなきゃ……)


 このままでは、泥棒や、詐欺師と同じになってしまう。

 しかしどうしろというのか。アリシアは、返済すべき相手の名前を知らない。

 聖誕祭の夜に一度会ったきりで、どこに住んでいるのかもわからない。

 さらに言えば、もう十年近くも昔の話なのだ。今さら探して見つけ出すなんて、できるわけがない。

 長銃を背負った少年だった。

 黒い瞳、黒い髪。ほんの少しだけ先が尖った耳。普通の大人の人よりも、さらに背は高かったように思う。筋肉がついてがっしりとした体型。

 長銃に向かって、ぶつぶつと話しかけていた気がする。そういう意味では危ない人だ。

 都市に住んではいないのだろう。辺境のなまりがありありとわかる喋り方だった。

 その少年を、アリシアは探している。

 魔物が跋扈ばっこするこの危険な世の中で、生きていてくれたのならば、今は二十を超えているはずだ。

 会いたかった。

 会って、お礼を言いたかった。借りていたお金を返したかった。

 はぁ、とアリシアはため息をついた。


(どうしたらよいのでしょうか?)


 問いに答える者はなく、解決策も思い浮かばない。もう、どうにもならない。

 その人を探してもらうように、兵隊さん達に何度も頼んだりもした。けれどもこれまで見つからなかった。いや。それ以前の話だ。アリシアもさすがに勘づいていた。

 恩人を見つけて欲しいというお願いは聞き流されて、探すことすらされていないということを。


「はぁ……」


 ため息が口から漏れた。

 絶望感に、寒気がする。

 怒りに、吐き気がする。

 怒りは、ふがいない自分に対してのものだ。

 見ず知らずの男から、彼女はお金を借りていた。

 銅貨三枚の借りだが、出世払いの約束で利息を足して、銀貨三枚にして返す約束になっている。

 ところが、返すべき相手が分からない。

 どこに住んでいるのかはおろか、名前も知らないし、今となっては生きているか死んでいるのかも定かではない。十年近くも昔の出来事なのだ。彼女は五歳の子供であったし、相手の人もまだ少年と呼べるくらいの年齢だった。


「姫様、よろしいですか?」


 感傷を打ち消すように、ドア越しにしわがれた女の声がかけられた。

 聞き覚えのある声だ。アリシアが苦手な人の声だ。


「どうぞ」


 気乗りはしなかったが、追い返す理由もない。

 ドアが開かれた。そこには王国の重鎮、ギルド統括局長のクレアが立っていた。


「どうかしたのですか、こんな夜更けに」


 齢五十を超えた老齢の眼鏡女性に、アリシアは尋ねた。

 クレアは、国内のギルド長達からは死神と恐れられているとの評判らしい。まあ……、分かる。アリシアにとっては政治と経済を教えてくれる教師だ。

 苦手な相手だった。

 彼女は、言われたことを覚えればいいだけの他の者と違って、アリシアに何故そう考えたのかまで答えさせる。時には答えの決まっていない問題を出してくる。だから苦手だった。


「夜分恐れ入ります。人払いをお願いしたいのですが」


 護衛に控えている女近衛兵達にちらりと視線を送り、クレア。

 近衛たちは、顔に警戒の色を浮かべている。


 クレアの後ろに、見知らぬ男がいるからだろう。

 雨風でうす汚れた紺色のフード付きマントに、皮革製の頑丈そうな長ズボン。牛皮製の半長靴。一目で貴族ではないと分かるいでたちだ。王宮で見かける兵や侍従とも違う。騎士ならばもっと、洗練された武装をしている。


 身にまとう空気に、視線に、普通の人間と一線を画する凄みがあった。

 背中に長銃をかついでいる。


「構い、ません、が……?」


 クレアの様子、それに得体の知れない男の存在に違和感を覚えつつ、アリシアは近衛に目線で退出を促す。顔を見合わせた後、近衛たちはしぶしぶ従った。


「ありがとうございます」

「…………」


 クレアが礼を述べながら、男は長銃を背負ったまま無言で部屋に入ってきた。

 アリシアは、おそるおそる彼の顔を見る。

 目が合った。

 黒い瞳の輝きが、たまらなく綺麗だった。


 まさか、と思う。


 その男は、聖誕祭で出会ったあの少年と、よく似た面影をしていた。

 鼓動が早鐘を打つのを感じた。銃身のほとんどが木でできた、時代遅れの長銃。烏の羽根のように完全な漆黒の髪と瞳の色。まさか、この男の人は……。


 得体の知れない男が、後ろ手でドアを閉めた。


「そ、そちらの方は……?」


 喋ってすぐ、アリシアは自覚した。自分の声が震えていることを。動揺している。心臓の音が早いだけではない。変な汗が出てきている。


「私が最も信用する傭兵です。姫様の護衛役として雇いました。名前はハル・ベルナデッド」

「…………」


 黙したまま、ハルはアリシアに向かい小さく頭を下げた。


(辺境出身の方ね)


 その仕草だけで、アリシアは看過した。辺境の人間。彼女が知らない世界に住んでいる人間。

 フードに隠れて、顔の全てを見ることができない。

 耳を見たかった。あの少年ならば、少しだけ尖っているはずだ。

 いや。声を聴くだけでもいい。

 もしも彼に、人を呼ぶ言い方に独特の訛りがあるのなら……聖誕祭の時に助けてくれた、あの少年かもしれない。


(クレアさん、私のために探してくれていたのかしら……?)


 想い人の捜索を、彼女に頼んだことはなかった。探し人がいることを彼女に喋った覚えもない。長官としての業務で忙しい人に、余計な手を煩わせるのがはばかられたからだ。

 けれども、探してくれたのなら、ありがたい。

 期待に、胸の鼓動が高まる。


「姫様?」

「い、いえ、何でもありません」


 クレアの反応に、アリシアはとっさに心中を誤魔化した。

 自分のためにあの人を探してくれたわけではないらしい。そうみてとったから。

 ならば、余計な思い出話をする必要はない。


「護衛とはどういう意味でしょうか? 道中は、バックス公爵配下の騎士団の方々に警護していただくと伺っておりますが」

「ええ。その通りです。事情を口頭で説明しますと長くなりますのでこちらを。すぐにお読みください」

「分かりました」


 訳が分からぬままに、アリシアはそう答えた。

 受け取った手紙を広げてみる。

 そこには、文字が一行だけ。


『たけつれせらやか、むりまきかちねおそくしせ』


「…………?」


 十と、数秒の間に。


「っ!?」


 アリシアの顔が青ざめた。

 とっさに出そうになる声をこらえ、息を呑む。


「お返しします。これはわたくしが持っていても仕方がありませんから」


 上ずった声で、アリシアはその手紙をクレアに返した。


「ええ。詳細は追って連絡させていただきます。本日はこれで」


 手紙を受け取り、普段と変わらぬていで、クレアはきびすを返す。言葉を出さぬまま、ハルも彼女の後ろについて部屋を後にした。


 アリシアは呆然と立ち尽くして、二人の去ったドアを見つめていた。

 わけが分からなかった。

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