第83話 僕と彼女とヤクソクゴト

「お母さんは、すでに亡くなっているんです」


 悲しげな笑みを前に僕は頭を思いっきり殴られた感覚に襲われた。

 母親の死を彼女ははっきりと口にした。僕には到底考えられない、その言動を彼女はなんとはなしにやってのけた。いや、この言い方だと語弊ごへいがあるか。

 親の死を口にするのはいつだってためらうだろうに。それをすらりと教えてくれたのだ。


「え?」


 ああ、きっと今の僕は間抜けな顔をしているだろうな。


雄馬ゆうまくんは、お母さんもお父さんも亡くなられているんでしたよね……。私も少しだけその気持ちがわかる、かもしれません」

「……うん」

「あの日雄馬くんのおうちの前で初めて聞いた時、私は涙が止まりませんでした。お母さんがいなくなって泣いた時のことを思い出したんです」

「……うん」

「その辛さを雄馬くんにもさせてしまったのではないかととても後悔しました。人の触れてほしくないことに踏み込みすぎるのは私のダメなところです」


 つらつらと智恵ともえは秘めた想いを吐露する。伏し目がちな表情は、やはり母親を思い出しているのだろうか。ベッドのシーツがしわで歪むのが見えた。


「ご両親がいないことを話す雄馬くんはとても辛そうでした。だからこそ、私はそこに触れないようにしてきたつもりです。誰だって隠したいことがあるのはわかっていますから」

「じゃあ……」

「はい」


 どうして智恵は今、すんなりと言えたんだろうか。そう言いかけて僕の口が止まった。これは、聞いてもいいのか。智恵だってお母さんのことを触れてほしくないんじゃないのか。だけど、この流れで止めることはできなかった。


「どうして……智恵は言えたの?」

「お母さんの事ですか」

「……うん」


 目が合う。いつもはキラキラと光るくらい大きく開かれた真っ黒な瞳が、今は細く横に薄められ、その端に僅かに涙をため込んでいた。薄紅の唇が小さく開く。


「私だけ隠したままなのもアンフェアですから」


 そう告げた。やはり隠したかったことか。

 それでも言えたのは、前に僕に聞いたことへの罪悪感からなのか。つまり彼女もまた僕にだけしか言えていない、ということだ。

 その事実になぜか僕は安心してしまった。そりゃそうだ。親の死を進んで公言したがる奴なんてどこにもいないだろう。当たり前の事なのに、彼女もまた自分と同じだということに安堵してしまった。


「そっか」

「はい」

「「……」」


 二人して沈黙する。当然と言えば当然だが、あまり話していて盛り上がる話でもない。双方が隠したいことを話題にするのはよくないな。

 僕は今どんな表情をしているだろうか。彼女に同情でもしているのだろうか。わからない。どんな顔をすればいいのだろうか。


「雄馬くん」

「ん?」


 呼びかけられて顔を上げる。そこにはさっきまでの悲しげな笑みはなかった。いつものようににっこりと笑った智恵が座っていた。口元に人差し指を立てて、


「このことは内緒ですからね……?」


 可愛らしく片目をつぶる。なるほど、教えた代わりに。断る理由もない。共犯者になるのならば、僕は喜んで手を取ろう。

 僕は小指を彼女へと向けた。その意図を理解したのか、智恵はベッドから下りて僕の目の前に正座した。立てていた右手を僕に近づける。細くて柔らかい小指がきゅっと握ってきた。


「約束ですよ」

「うん」


 ぎゅっと握られた小指が縦に二回揺れてほどけた。

 なんだかすごく名残惜しい気がして、その指をじっと眺めてしまう。それが彼女に伝わってしまったのか、なぜか智恵がどもりながら、


「も、もういっかい、し、します……?」

「え? いや、えっ……」

「い、嫌だったら別に……」

「い! 嫌じゃないよ……じゃあ」


 お互いに再び近づける。なぜかさっきよりもドキドキして、小指が震えた。指切りなんて些細な行為のはずなのに、智恵とやることが特別な気がしてその意味を考えてしまいそうになる。

 今度は長く結ばれた。絡める時間が長いことで、智恵の指の形がはっきりと伝わってくる。僕とは違って細くて長い。やたらとすべすべしていて、保湿クリームでも使っているんだろうか。

 互いに離すタイミングがつかめずに、長いこと結ばれたままになる。体感で一時間位こうしていたんじゃないかって気づいたのは、少し経ってからだった。


「あの……」

「ん?」


 声に反応するように、指から彼女の顔へと視線を向ける。


「……っ!」


 頬が赤く染まった智恵の顔がやたらと近くにあった。

 いや、そうだ。さっきベッドから下りていたじゃないか。こんな近くにずっといたのか! 二人の顔が近くて、智恵の顔が僕の視界を支配する。魅了する瞳も、染まった頬も、耳にかかった濡羽色のさらさらとした髪も、薄紅の唇も……。

 その距離が近くて、呼吸の音すら聞こえてきそうで……。


「ゆ、ゆうまくん……」


 そんな吐息交じりの声が耳にダイレクトに響く。僕もつられて名前を呼んでしまいようになる。僕らの距離が一層近くなりそうな気がして――。


「しつれーいおじょー! 夕飯の準備ができたので報告にきやしたー」


 コンコンと強めのノックと共に典次てんじさんの声が割って入った。

 その音にびっくりした僕たちは勢いよく離散する。智恵はベッドの上に飛び乗ったのに対し、勢い余った僕は勉強机の角に頭を強打してしまった。

 くっ……めっちゃ、いたい……。

 というか、典次さん呼びに来るなんて言ってなかったのに! なぜ来た……まさかタイミングを見計らって? いやいやそれは考えすぎか。


「い、今行きます! 先に準備しててください!」


 上ずった声で智恵が反応する。「へーい」という適当な返事を残して典次さんが去っていく足音が聞こえる。


「はあ、はあ……」

「ふぅ……」


 互いに乱れた呼吸を整え、同時に言葉を交わす。


「「ご飯、行きますか」」


 やけに疲れた笑いが漏れた。

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