ラグノアは革命前夜にケーキを食らう
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第1話 墜ちた竜騎兵
全身が怠かった。頭の後ろに枕が敷かれている感覚。鳥の声。頬を撫でる風。誰かが忙しく動き回る気配。心地よいが同時に、本能が激しい違和感を主張してもいる。
重いまぶたを無理やり開く。木組みで、ところどころ苔むした天井だ。湿った土と、パンの焼ける匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。
午後だろうか、柔らかい光が顔に差し込んでいて温かい。俺は得られた情報をゆっくりと統合し、知らないベッドで知らない天井を見ているらしいことに気づいた。
右側には木枠の窓。内と外を仕切るものは簡素な布だけだ。
首だけ動かして左側を見る。ベッドのそばには小さなスツール。視線を滑らせると、木の床の上に木製の棚や壺が並ぶ。本や農具らしきもの、衣服など、生活用品のようなものが綺麗に保管されている。香草だろうか、天井からは草の束が5つほどぶら下がっている。農家の納屋にしては小綺麗で、住居にしては野性的だ。
どうも俺は妙なところにいるようだ。土の匂いのする場所で寝起きした経験なんて、士官学校の合宿くらいだ。訓練生の頃の夢でも見ているのだろうか。
それなら、首から下の感覚がないことも納得できる。
薄手の毛布がかけられていて、自分の身体がどうなっているのかは見えない。だが、胸板の膨らみからひとまず身体があることだけはわかる。首だけ動かす方が難しいはずなのだが、本当に首から上しか動かない。金縛りの一種だろうか。
俺は首から下を想像で補い、強い意志で上半身を起こそうとして、
「っっっっっ!!!」
全身に鈍い痛みが走った。どこがどう、とも言い表せない。とにかく痛い。背中は1ミリもベッドから離れてはいないのだが、気持ちの上で体勢を戻し、荒くなった呼吸を戻そうと努めた。感覚はないが、胸が上下するのが見える。
前後の記憶が曖昧なままベッドで目覚める状況は、何度か経験したことがある。大方、組み手で当たり所が悪かったか、落馬か、「落竜」だろう。しかし、今のこの状態には薄気味悪さを覚える。一体俺は、
「起きた?」
冷ややかな声とともに、きい、と足元で音がした。首だけを起こすも、確認できたのは半開きのドアのみ。
「絶対安静だよ」
何か近づいてくる気配はあるのに足音がしない。一瞬の動揺ののちに、すぐ横で木が軋む音。隣のスツールに腰掛けたようだ。今度は左上から声。
「僕はエア。君は落っこちてきたんだよ」
顔を覗き込まれている。栗色の長い前髪がさらさらと顔をくすぐる。突き抜けるように白い肌、色素の薄い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳、一つ一つのパーツが精巧な人形のようだ。
「あなたは……いや、助けてくれたようで、感謝する」
俺は呆けていたが、直感的に礼を述べた。かすれてはいるが、聞き慣れた自分の声だ。エアと名乗った人物は首を傾げて微笑む。ショートヘアがきらきらと溢れる。中性的だが、15歳くらいの少年に見える。それにしても神秘的な目の色だ。
言葉を待たれている雰囲気を感じ取り、俺は不躾な視線を反省しながら目を逸らした。それに合わせてか、エアも丸めていた背中を少し伸ばす。俺は頭をわずかに動かし、少年の眉間に焦点を合わせた。叩き込まれた礼節に命じられるまま、挨拶をする。
「こんな体勢で、失礼する。私はカイル…カイル・レスウィー。王都の…竜騎兵部隊の新人だ」
俺はそこで言葉を切り、目を見開いた。忘れていた、これが任務中の事件事故だとすると、俺の乗ってきた竜はどこだ?下手をすれば懲罰房では済まされない。ひゅっ、と息を吸い、眉に力を入れてエアの瞳を覗きこんでしまった。
「エア…?私が乗ってきた竜を知らないか」
「…ああ」
エアは一瞬だけ口を引き結び不自然に片端を吊り上げた。何かまずいことを言っただろうか。
「最初こそカイル、君みたいだったけど無事。ここの魚が気に入ったみたい」
にこやかに、小首を傾げつつ少年は言葉を繋げた。
「よかった…相棒なんだ…ありがとう」
俺は目を閉じて長く息を吐いた。首に冷や汗が伝うのを感じる。だがひとまずは安心だ。エアは顔を正面に向け、目を細める。
「君の様子が気になるようだから、たまにそこの窓から覗かせてる…今頃はちょうど寝てる時間かな。起きたって知ったら騒がしくなると思う」
「気難しい奴なんだが、よく世話をしてくれてるんだな…それにしても良い風が入ってくる」
「この時間の特等席だぜ。ここで昼寝をするわけ」
ふふん、とエアは得意げに足を組み替えた。これまた簡素な茶色のハーフパンツだ。様々な色のシミが付いていて生活感が窺えるが、芸術的とも見えなくもない。
「私が占拠してしまっていて申し訳ないな」
「いや?怪我人はいい空気に触れるものだよ」
見本のような微笑みが返ってきた。言葉使いが軽いわりに相変わらず声は冷たいので、ますます人形のようだ。それよりも怪我人?俺を怪我人と呼んだのか?
「ん?なあに??」
不思議そうに問い返された。つい口走ってしまったようだ。
俺は怪我をしている、そして彼はその介抱をしてくれた?では首から下の感覚がない理由も知っているのだろうか。
不意に、訓練中の「落竜」で下半身付随となり、早々に脱落した同期の顔を思い出してしまった。そうだ、不可逆な事態の可能性もある。自分の身体がどうなっているか聞くのが怖い。
俺はしばらく言葉を発せずにいた。その間、エアはカーテンが陽の光に透けて揺れるのを眺めていた。また言葉を待たせてしまっている。どうせなら早めに確認してしまおう。俺は意を決して少年の瞳を見た。
「聞いても良いだろうか」
「どうぞ」
少年は腕組みを解き、両手を膝の上に置いた。
「私の身体はどうなっている?」
エアの顔から微笑みが消えた。
「まず、ここがどこか説明をしましょう」
琥珀色が宙を見据える。
「ここは、世間の皆さんが言うところの、『魔の森』ど真ん中です」
「魔のもっ….!!っ……」
俺は動揺のあまり声を荒らげてしまい、その反動で咳き込んだ。手で口を覆いたくなるも叶わない。相変わらず胸が上下するのだけ見える。
「思い出した?近くですごい音がしたなーと思って見に行ったら、翼のついたトカゲと人がぼろ切れになってるんだもの」
エアは淡々と無表情で話していたが、
「全体的に裂傷があって、右半身は骨も折れてる。まず中指薬指小指、手首、肋骨はたぶん何本か。肩は脱臼で済んでる。両足首は捻挫。あと打撲が多数。そのまま寝てれば治るようにしてあるから、動かさないように気をつけてね」
立石に水である。不規則に手で指し示しながら、遊んでいるような声色だ。聞く限りだと、重症ではあるが何とかなる部類。エアが本当のことを言っている保証はないが、言い切り方だけ医者めいていて安心感があった。彼なりの確信があるのだろう。
しかし動かさないように、とは言われたが動かない。それどころか感覚もない。その旨を問う。するとエアはあっ、と目を丸くして、
「寝返りなんかを打たれると困るから、痛み止めもかねてベッドに固定してたんだ」
固定…?ベルト等で縛りつけられている様子もないが。俺はぽかんとしてしまった。
「ごめんごめん」
エアが笑い、指をぱちんと鳴らす。すると、左腕の感覚が戻った。全くわからない。今度は頭と腕だけの存在になったかのようだ。
「左腕は無事だもんね、居心地悪かったでしょ」
俺は夢中で毛布を跳ね除け、自分が五体満足であることを確認する。上半身は包帯まみれで、わずかな隙間から青黒い内出血が覗く。右腕は添木の上に布を巻き、関節を固定したようだ。指先に至るまで真っ直ぐに、厚く白い布が巻かれている。胴体を触ると、自分の厚い身体に乗った包帯の凹凸が感じ取れた。助かった。俺は胸を撫で下ろした。
そういえば、魔法をかけられるのはこれが初めてではない。組み手で靭帯を切りかけた時だ。控えていた中年の療術士は額を汗まみれにして何かを唱えながら、脚に手をかざして応急処置をしてくれた。一方この少年は、指先ひとつで俺の痛覚…自由さえ思うがままだ。この若さでこの練度?真っ当な人間ならあり得ない。ほっとしたのも束の間だった、呼吸が荒くなる。冷静さを欠こうとしている。
エアはそんな俺を見てか、また楽しげに笑う。無機質な美。状況と感情表現の不和。俺の感じ取ってきた些細な違和感はここで決定的なものとなった。怖い。左の指先が震えだした。だが、問わなければならない。
「首から下の感覚がなかったのは、あなたが魔法を?」
「そう、痛いよりマシでしょ?抵抗するとかえって酷いよ」
エアは俺に毛布を掛け直す。半逆光の中で、彼の華奢な体つきが際立った。伏された目に被さる長いまつ毛。教会のステンドグラスが強烈に想起させられた。天使よりも天使らしい。俺は信仰が薄いタチだが、教会通いに熱心な者から見ればこの光景は宗教画だろう。
だが、隣から発せられるこの圧。エアという少年は、この可憐なガワの内に、一体何を飼っているのか。違和感に押しつぶされそうだ。返答一つ間違えるだけで、命が握り潰される気さえする。口の中が乾いていく。暑くもないのに、眉が受け止め損ねた汗が目に入る。
人の形に騙されるな。本能が叫んでいる。
俺は、怪異の棲むという「魔の森」を、上空から測量するために送り出されたのだ。立ち入る者の多くが還らない。生還者も発狂しているので様子がわからない、人を喰らう森の伝説。正直、半信半疑だった。しかし、皆、こうして捕らえられ、戻らないのだとしたら?死角には人骨が積み上がってるんじゃないのか?
部隊は俺含めて5人。森の上に差し掛かり、陣形を変えようとしたところで、不意に濃霧に囲まれた。隣の仲間の姿も確認できないほどで、必死に呼びかけた瞬間までは覚えている。
「どうして…」
疑問と恐怖が混じり合い、口から溢れた。
「ん?」
少年は左右対象な微笑みを浮かべ、耳を傾けるそぶりをした。俺はまたギョッとしたが、表に出さないよう努めた。生きて帰りたい。泣きたいやら笑いたいやら、気持ちに収拾がつかなくなってきた。上着の内ポケットに折り畳んでいたはずの、弟が描いた俺の似顔絵。沈黙に耐えられなくなり、思いつく限りの質問を投げた。
「あなたは…ここに住んでる?」
「うん」
「人間が住める環境ではないと、聞いているんだが」
「そうかも」
「どうして助けてくれた?」
「まだ生きてたから」
「私を…どうするつもりだ?」
「考え中」
「他の仲間を見なかったか」
「見てない」
「あなたは何者なんだ?」
「ずっと前からここに住んでる、エアだよ」
鈴を転がすような声。こてん。少年はまた小首を傾げてにっこりした。陽の中でなお鈍く光る琥珀色に怖気がする。視覚、聴覚が目の前の存在に呆けている。だがそれ以外の感覚は脳に悲鳴を送っていた。俺は、彼に生殺与奪を握られているらしい。その事実に耐えられない。
先ほど無理やり起き上がろうとした時、全身に痛みが走った。魔術の類か知らないが、気力で抗えるのではないか?今では左腕も使える。痛みに構わず、力でねじ伏せればこんな少年、
「やめた方がいいよ」
冷たいものに視界が覆われた。
「さっきから汗がすごいんだもん」
エアは、布巾で丁寧に俺の顔と首を拭うと、最初から持ち込んでいたらしい足元の水桶に浸けて硬く絞り直し、折りたたんでまた額に乗せてくれた。
「…冷たいな」
「気持ちいいでしょ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
俺は毒気を抜かれてしまった。殺そうだなんて、とんでもない。懸命に少年の好ましい部分のみを捉えようとした。これだけ丁寧に世話をしてくれているんだ、余計な考えを挟むべきではない。とにかく身体を治すんだ、と己を奮い立たせてみる。
ん、彼は何をしてるんだ?
俺の葛藤なんてそしらぬ顔で、小刀を取り出し、拳大の見慣れぬ果物を剥きだした。そんなものまで持ち込んでいたのか。甘い匂いが窓の外へ流れていく。
「…ここに住んでるのはあなただけなのか?」
「あと1人いるよ、ほら、ちょうど」
エアは俺の足元から数歩分のところにあるドアをくっ、と顎でさした。
「エア、今日の夕ご飯なんだけど」
ぎい。柔らかく落ち着いた声とともにドアが開いた。
俺は首だけ起こしてドアの方向を見る。長めのスカートを履いている。黒髪で小柄。声で判断するに少女だ。
「お客さん起きたんですね!調子はどうですか?エアに無神経なこと言われてないですか?」
嬉しくて仕方がない様子で、少女はてくてくとベッドに近づいてくる。エアの横に中腰で並び、顔を覗き込んできた。
至近距離で人の顔を覗き込む挙動は似ているが、それ以外での2人の共通点が見当たらない。少年よりも年上に見える。17、8歳か。頬が上気している。前髪をまっすぐに切りそろえた、肩につかない程度のショートヘアだ。確か数年前に王都で流行っていた気がする。
そしてやけに端正で、気品のある顔立ち。それなりの装いをすれば、いけすかない貴族の御息女と並んでも引けを取らないのではないか。
エアに比べると、この少女は俺にとって圧倒的に理解しやすい特徴ばかりを具えていた。その事実と、少女の穏やかな雰囲気のおかげで俺はやや緊張から解放されたようだ。
「お兄さんお名前は?」
「寝たままの非礼をお詫びします、カイルです。美しいお嬢さん、何とお呼びすれば?」
左手しか動かせないというのに、田舎娘に社交辞令がすらすらと出てくる図太さ。心の中で苦笑した。
「あ、ごめんなさい!ラグノアです、カイル…さん?」
「いや呼び捨ててもらって構わないよ、竜ごと落ちる竜騎兵なんてね」
俺は手癖で笑顔を作る。少女は耳まで赤くして、飛び上がった。実際に飛んではいない。曲げていた両膝を一気に伸ばしたようだ。踵を返してドアに向けて大きく一歩。そこで身体を硬直させ、両手を胸のあたりで緩く重ね、振り向く。
「あたしも…!ラグノアって呼んでくれていいですから!!」
目を伏せたまま、俺の方向に向かって声を張り上げる。呆気に取られているうちに、少女はスタスタ、バタンと小屋を出て行った。
「おいラグナ!!」
愛称だろうか、エアはドアの向こうに呼びかけた。こんな快活な発声ができたのか。眉を上げ、悪戯っぽい顔をしている。
「今日は鹿にしよう!!お客さんも目を覚ましたし!」
「うるさい!!ばか!!!!」
少女の切実な声が周囲一帯の静寂を破る。鳥がバサバサと飛び立つ音が聞こえてきた。
「慣れたものですねえ」
エアは、得体の知れない果物のひと欠片を差し出し、ニヤッと笑う。目の前にいるのはもはや人形ではない。いかにも公園で走り回っていそうな、年相応の少年の笑みだ。
俺は左手で受け取り、やけくそで口に放り込んだ。異界のものを食べると戻れなくなる。寝物語に聞かされたフレーズが思い出された。
「これ、桃みたいで美味いな。紫色だけど」
「食べたね?三日三晩下痢をするよ」
「えっ」
「口説き文句は知ってるのにね」
エアは屈託なく笑い、櫛形に切り出したものを美味しそうに食した。
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