破れた心

第11話

 学校を脱出した日から、四日が経過した。

 一週間にも満たない僅かな期間ではあるが、世界的な災害だからか情報はかなり整理されてきている。

 曰く、感染方法は粘膜接触でほぼ確定していること。

 曰く、感染してJCになる確率は五人に一人であること。

 曰く、JCの外見的特徴は十三歳から十五歳程度の日本人女性、つまりは女子中学生に酷似していること。

 ほかにも、食事を一切必要としないとか、積極的に人を襲うものもいれば全く動かないものもいるだとか、個体差は大きいようだ。ただし、視覚や聴覚が弱く、運動能力は女子中学生並みであることは共通しているらしい。国が主導する対策本部も設置されたとラジオで言っていたし、JCの生態は近日中に明らかになるだろう。

 しかし、感染したにも関わらず、破裂せずに元の姿を維持しているケースは、どこにも出ていない。

 感染したことに気がついていないとか、大きな組織が意図的に隠しているとか、可能性は色々考えられるが、噂の種すら見かけないので、珍しい存在であることは確かなようだ。世界を救う特効薬にはなり得ないが、研究すればそれなりの発見はあるだろう。

 だというのに、僕は未だに杉石君達に甘えていた。

 金剛さん宅の一階奥。すっかり定位置となった物置部屋の隅で膝を抱えていると、アルミの引き戸が開かれた。逆光を受けた背の高い人影が僕を見下ろす。

「やっぱりここにいた」

 金剛さんが腰に手を当て、呆れた風に言う。

「ごはんできたよ。はやく行こう」

「……ごめん。でも、やっぱり僕は」

「ちょっと注意すればいいだけでしょ? 気にしすぎ」

 僕の唾液には感染力がある。一緒に食卓を囲むべきではないし、そもそも、真っ先に追い出すべき危険物なのだが、金剛さんの態度は変わらない。

「ほら。はやく」

 当たり前のように近づいてきて、腕を掴まれ立たされる。玻璃さんが知れば激怒しそうな振る舞いだが、金剛さんは平然としている。

 踵を返して居間に向かう彼女の背中を、とぼとぼした足取りで追う。居間に続く扉の先では、既に食卓についた杉石君が神妙な面持ちでテレビを眺めていた。

「何か良い情報あった?」

「いや、新しい情報はないな。首都圏は相変わらず荒れてるし、地方は他人事だ」

 テレビの画面には全裸の美少女の群れが往来を占拠し、地面が赤一色に塗り潰された地獄絵図を空撮した映像が流れている。アナウンサーの危機迫る実況は、世界中が同じ惨状を辿っているかのように聞こえるが、実情は違う。

 JCは世界中の主要都市に出現した。だが、それ以外の土地には出現しなかった。

 被害が都市部で収まっているのは、五人に一人という高くも低くもない確率のせいだろう。映画のゾンビと違い、噛まれた瞬間に破裂するから、潜在的な感染者というのも想像し難い。都市が崩壊した影響は少なからず出ているはずだが、ライフラインが維持され、とりあえずの命が確保されていれば、危機感は湧いてこないのかもしれない。

「なんでこの町にも出たんだろうね」

 金剛さんがなんとなしに呟く。

 この町は一応、日本の政令指定都市であるとはいえ、端の方にある小さな区画であるし、世界的に見れば取るに足らない町だ。最初は田舎の情報が後回しにされているだけだと思ったが、これまでの情報を鑑みても、JCの被害に遭っているのは主要都市に限られる。金剛さんの言うとおり、何故この町にも発生したのかは見当もつかない。

「それより、問題がある」

 だが、現状に考えを巡らせるよりも先に重要なことがあるらしい。杉石君がテレビを消して、深刻な表情で立ち上がる。

「食料が尽きそうだ」

 食べ物がない。

 それは、JCよりも余程身近な危機だった。




 レトルトの簡単な食事を終えたところで、二階から玻璃さんが降りてきた。彼女は汚物を見るような目で僕を一瞥すると、対角線上に丸椅子を引きずってきて、どっかりと腰を下ろす。

「で? なに? コイツがいるところに呼び出すってことは、よっぽど大事な用なんでしょうね」

 玻璃さんは嘲るように言って、大仰に足を組んだ。折り目のついた制服に身を包み、常に胸を張っていた彼女の姿は見る影もない。

 玻璃さんの粗野な態度に杉石君は苦い表情で眉間の皺を揉み解し、ゆっくりと口を開く。

「……話ってのは食い物のことだ。この調子でいけば、あと二、三日で底をつく」

「ハッ。それで? そんな状況でコイツに食べさせてんの? ばっかみたい。知ってる? JCってご飯食べなくても動くのよ」

「瑪瑙くんはJCじゃない」

「何言ってんの? 貴方も見たでしょ。コイツに噛まれた真珠が爆発したとこ」

「会話もできるし、意思もある。瑪瑙くんは、あんな化け物とは違う」

「へぇ。貴方にはそう見えるんだ。お人好しもここまで来ると可哀想になってくるわね。いや、お人好しは違うか。まともな人間が、あんなに他人を殴れるわけないものね。ていうことは貴方もしかして、ゲイなんじゃ──」

「いい加減にして」

 金剛さんが静かに、けれどよく通る声で言った。

「くだらない言い争いがしたいなら、今すぐ出て行って」

 僕達がこの家で安全に過ごせているのは、金剛さんの好意に過ぎない。家主の言葉には玻璃さんも逆らえず、悔しそうな顔で口を噤む。

「……話を戻すぞ。どこかで食料を調達する必要があるが、外の状況が分からない。都会ならテレビで幾らでも中継してるが、ここは田舎だからな。窓から覗ける範囲が精一杯だ」

 窓から見える景色は平静そのものだ。しかし、あくまでも見える範囲であり、道を一つずらせば大量のJCが闊歩する危険地帯である可能性も否定できない。

「車があれば良いんだが……金剛の両親はまだ連絡がつかないのか?」

「うん。多分、ダメだったんだと思う」

 金剛さんは淡々と言うが、受け止めるにはあまりにも重い言葉だ。

 それに、金剛さんだけではない。杉石君も玻璃さんも、JC出現から今日まで、誰とも連絡がついていない。状況を確認する余裕ができた分、近しい者を失った苦しみは相当なものだろう。家族から縁を切られ、友人もいない僕には想像に余りあるが。

 暗い空気を誤魔化そうと、杉石君は咳払いして務めて明るい声を出す。

「なら、歩きで行くしかないな。金剛、近場で何処か知らないか?」

「コンビニはもう取り尽くされてそう。歩いて三十分くらいかかるけど、ショッピングモールはどうかな。食べ物の売り場、結構広いし、他に必要な物も見つかると思う」

 金剛さんがスマートフォンのマップアプリで示した場所は、過去に僕も行ったことがある店舗だった。食品や日用品だけでなく、雑貨や服飾店も入った複合施設で、生活の大半は賄える。ゾンビ映画では暴徒がショッピングモールを牛耳り弱者を虐げるのがお決まりの流れだが、火の手の一つも上がらない閑静な住宅街を見るに、そこまで心配しなくても大丈夫だろう。

「それじゃあ誰が行くか、だが」

「僕が行く」

 被せ気味に手を挙げる。普段は置物のように喋らない奴が唐突に主張したためか、杉石君達は目を丸くする。

 しかし、僕個人としては、前々から考えていたことだった。

 玻璃さんと杉石君の間にあるぴりぴりした空気は、全部僕が原因だ。危険な病原菌を持つ感染者が同じ屋根の下に住んでいるのだから、緊張するのは当然だろう。過度なストレスが二人の関係を壊し、僕が話題に挙がるだけで簡単に弾けてしまう。

 これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。今までだって充分に迷惑をかけてきたが、ここが最後のチャンスだ。

「駄目だ。危険すぎる」

 案の定、杉石君に否定されたが、引き下がるつもりはない。震える喉で空気を吸い込む。

「JCに怯えずに外を歩けるのは僕だけだ。僕一人で行くべきだと思う」

「真珠みたいな奴がいたらどうするつもりだ。危険はJCだけじゃないんだぞ」

「襲われたとしても、JCのところに逃げ込めばやり過ごせるはずだ。身を守る力はないけど、皆んなよりも逃げ道は多い」

「四人分の食料を抱えて、か? ムリに決まってる」

「それなら、途中に中継地点を作ればいい。そうすれば、量が合っても運べるでしょ? でも、道中の安全を確保するのは僕の役割だ。杉石君にも、金剛さんにも、玻璃さんにだって任せられない」

 杉石君は情に囚われてしまっているが、誰が考えても、一番死ぬ可能性が低い僕が適任だ。要領の悪い男に食料調達という重要な仕事を任せるのは気が引けるだろうが、限られた人員の中では仕方がない。

 それに、僕にとってもメリットがある。

 僕はもう、この家に戻るつもりはない。ありったけの食料を中継地点に残し、そのまま国の研究機関に出向くつもりだ。そうすることで不破の原因は除かれ、僕は世界に貢献できる。一人で勝手に姿を眩ませれば杉石君が自責の念に悩むこともない。

 最良の選択。杉石君は険しい顔をしていたが、今までにない僕の頑なな態度に説得は無駄と判断したのだろう、深く息を吐いて固く瞑った目蓋をゆっくりと開く。

「……分かった。ただし、条件がある」

「な、なに?」

「一人はダメだ。俺も一緒に行く」

「い、いや、それじゃあ何も──」

 何も変わらない。折角の体質を活かせず、杉石君を無為に危険に晒すだけだ。

 しかし、僕の反論は金剛さんの声に掻き消された。

「うん。わたしもそうした方がいいと思う。瑪瑙くん、また自分だけ犠牲になろうとか考えてそうだし」

 淡々と、心のうちを言い当てられた。嗚咽は噛み殺せたが、こめかみに冷や汗が滲む。動揺を悟られる前に、たった一人の頼みの綱に縋る。

「は、玻璃さんは反対ですよね。杉石君はここに残るべきだと思いますよね」

「……別に。私は食料が手に入るならどっちでもいいわ」

 出会った当初の積極性は失われてしまった。興味がなさそうに爪を弄り、目線すら寄越さない。

「よし、決まったな。準備しようか」

 杉石君が微笑みかけてくる。爽やかな彼の表情に、僕は涙を堪えて笑い返すしかなかった。

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