第8話

 ガラスに張り付く少女には僕以外、誰も気が付いていない。

 目前に迫る脅威。すぐに皆に知らせるべきだが、先程の議論が行動を迷わせる。

 真珠君と玻璃さんの犠牲。この結論に、僕は納得していない。

 彼等は間違いなく僕より能力の高い人達で、そんな彼等を差し置いて僕が優先されたのは、抗体があるかもしれない、という仮定によるものだ。僕がJCに対抗する材料になるか、それとも無価値な木偶のままかは、未だはっきりしていない。

 杉石君は義に厚く、僕を切り捨てることに罪悪感を覚えているようだが、僕一人が実験台になるのが一番合理的だ。

 だから、杉石君を傷付けず、かつ、誰も被害を被らない最良の選択は、僕が勝手にJCにキスすることだ。体育の先生が破裂した状況を鑑みるに、爆散はしても肉片は飛び散らない。ガラスが割れるほどの衝撃はないので、安全に観察できるはずだ。

 音を殺して立ち上がり、壁伝いに入り口に向かう。

 皆の視線は苦々しく言葉を紡ぐ玻璃さんに集中していて、僕が動いたことに気づく者はいない。唯一、手を繋いだままの少女が引っ付いてきているが、意図を察したか、もしくは新しい遊びと勘違いしているのか、僕を真似たそろりとした足取りである。くすくすと声を出さずに笑っているので、おそらくは後者だろう。

 狭い店内なので、あっという間に入り口に辿り着く。自動ドアが開けば流石に気付かれるので、ここからはスピード勝負だ。ガラスに張り付いたまま、じっと僕を見つめている少女の唇に狙いを定める。

「……じゃあ、行ってくるわ」

 今しかない。

 玻璃さんの宣言と同時に、開きかけた自動ドアの隙間を割って外へ飛び出す。僕の足は遅いが、高々十数メートルの距離ならば追い付かれる心配はない。後ろで響く杉石君の制止の声を振り切り、少女に肉薄する。

 突如走り出した僕に少女は驚いたように目を丸くする。しかし、感情があるかは疑わしい。人に取り入るための模倣であるかもしれず、ならばやはり人類の敵なのだ。

 キスの作法も知らないが、関係ない。どこに手を置けばいいかなんてまったく分からないけれど、正しさよりも勢いに任せ、少女の肩を掴んで引き寄せる。

「ふむっ」

 唇が触れ、声にならない漏れ出た吐息が内頬を伝って鼓膜を震わせる。少女の白い指先が僕の胸元を力なく摘む。

 やっていることは強姦魔と何ら変わりない。背後から僕に抱きついて無遠慮に腹を撫で摩る少女とは違う、か細い反応。突然の出来事に怯える彼女に、固めたはずの決意がまたしても揺らぐ。

 舌を入れてでも美少女の唾液を摂取しなければ独断専行した意味がないと、頭では理解している。けれど、唇は自然に離れ、残ったのは気まずい沈黙だった。

 少女の潤んだ視線を感じる。強引にキスはできても目は合わせられず、僕は俯くことしかできない。いっそ罵倒してくれれば楽なのに、と考えてしまうのは虐げられることに慣れた故の甘えだろうか。

 肌着を摘む指に力が込もる。恐る恐る視線を戻すと、目を瞑った少女が唇を突き出していた。

 これは、ひょっとして、僕からのキスを待っているのだろうか。

 酷い自惚れであるが、先程まで大人しくしていた後ろの彼女がぐいぐいと背中を押すので、求められているのではないかと脳が勘違いしている。極度の緊張と現実離れした状況のせいで、微かに揺れる少女の唇を見ていると、そんな幸せな錯覚を起こしてしまう。

 死に向かうのとは相反する覚悟を決めながら、少女に顔を寄せる。体はかちこちに強張っているが、睫毛を伏せたその顔はやはり美しい。触れることすら戸惑われる完璧な黄金比が恥じらいながらも僕を待っている。

 そっと唇を合わせる。触れるだけのそれは、先とは違い離れない。体の芯に燻る熱が交わるような感覚に、少女の力んだ指先がふわりと緩んだ。

 広げた手のひらがぺたりと胸板に張り付く。自然と距離が近くなり、互いの体温がよりはっきりと感じられる。

 舌を差し出したのはほとんど同時だ。ちょうど真ん中で舌先がちょこんと触れて一瞬体が驚いたが、二、三と繰り返すうちに快感へ変わり、気づけば一心不乱で絡み合っていた。

 意識が深く、深く潜っていく。実験のことなぞ、とうに忘れていた。少女がひたすらに愛おしく、それ以外の思考も感情も、僕の中から消えていた。

「んー!」

 拗ねた甘える声がして、体が急に引っ張られる。温い体温に浸かって蕩けた脳が僅かに冷静さを取り戻し、何事かと振り返ってみればワイシャツを羽織らせた少女が頬を膨らませていた。

 容姿はそっくりなのだが、身振りが違うだけで随分と幼く見える。除け者にされていたことに怒っているのか、少女は力一杯に抱きついてきて、支えきれなかった僕は思わず尻餅をついてしまった。

 アスファルトの上で跳ねたのは僕の尻だけで少女に怪我はない。痺れる痛みに悶えながら熱烈な抱擁に応えていると、頭上から先程までキスを交わしていた少女の心配そうな視線が突き刺さる。

「大丈夫だよ」

 愛想笑いを浮かべて振った手は普段と何ら変わらない、見慣れたものである。

 なまっちょろい青白い手。

 どうやら僕は、本当に破裂しないらしい。世界の危機に際して初めて、自分に価値が生まれた。それが喜ばしいことかは、まだ分からない。

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