びしょうじょ・ぱんでみっく!

カシノ

よい便り

第1話

 手垢だらけの窓ガラスの向こうで何の生き物かも分からない甲高い鳴き声が聞こえる。蒸し暑い熱気が肌にじっとりとした汗を浮き立たせ、上履きのゴムがべたついたタイル地の床に貼り付く。

 夏の男子トイレはとにかく不快だ。淀んだ空気が篭りやすい構造は呼吸する度に肺が汚れるような気がする。小窓から覗く鮮やかな景色は堆積した汚物を浮き彫りにして、漂う臭気に頭痛を起こしそうになる。

 長居する場所ではない。排泄は生物である以上避けられない行為であり、社会で生きるにはトイレを利用せざるを得ないのだが、用がなければ近寄りたくない。

 だから、用を足す以外にこの場所を訪れる人種は限られる。非行のために人目を嫌う、所謂不良と呼ばれる人々は最たる例だ。この学校はそれなりに偏差値が高く、暴行や窃盗などといった大それた悪事は行われていないが、それでも学年に数人、派手な見た目の生徒はいる。彼らは日々の不満を発散できる場所を探していて、それは居心地の悪さよりも優先すべきことなのだろう。

 そして、彼らに虐げられる者もまた、この場に立ち入ることになる。その意思に関わらず。

「いっきまーす!」

「うおっ! 万年青おもとくんヤベェ!」

 陽気な掛け声と共に青色のバケツが投げつけられ、吐き出された水が壁となってぶつかる。バケツ一杯の水はそれなりの質量があり、鼻の奥から血の味が流れた。

「超びしょ濡れじゃん」

「メノくん、だいじょうぶかぁ?」

 同じクラスの真珠しんじゅ万年青おもと君が腹を抱えて笑いながら僕の顔を覗き込む。当然、慮っているわけではない。目の奥には言外の威圧が潜んでいる。

 助けを求めることは許さない。そう念押ししている。

 そも、僕に親しい友人はおらず、教師からは成績不良者として疎まれているので誰かを頼る選択肢は元からない。この行為が明るみに出たとしても問題になる可能性は低いが、しかし彼らは毎度の如く口固めを繰り返す。

 不良でありながら有名大学への進学を目指す真珠君達にとって、自身の世間体を脅かす芽はどれほど小さくとも摘み取っておきたいのだろう。だが、退屈な日常にちょっとした刺激は欲しい。その点、味方のいない僕は手軽な憂さ晴らしにうってつけだ。

 曖昧な笑いで場を濁すと顔面に靴裏が押し当てられた。湿気を含んだゴムの底は生暖かく、臭気も合わさって胃液が込み上げる。喉を焼く酸の味を堪えるのは慣れたものだ。吐き出さないよう慎重に嚥下する。

「次なんだっけ」

「古文」

「はぁ? だりー。ハゲ先マジで死ねや」

「あ、俺今日当てられるわ。口語訳してねぇし」

「じゃあもう戻んべ。おい、メノ。オメェは服乾いてから来いよ」

 真珠君を先頭に三人の不良生徒達がトイレを後にする。

 一先ずは終わりのようだ。直接的な暴力がなかったことに安堵していると、取り巻きの一人が何かを思い出したように声を上げる。

「メノくん、プレゼント!」

 活発な掛け声のすぐあとに頭頂部に強い衝撃が走る。バケツを頭に思い切り被せられた。

 へたり込むバケツ頭は無様で笑えるらしく、騒がしい嘲笑がプラスチックの中で反響する。

 バケツを脱ぐことも億劫で、次第に遠くなる笑い声を聞きながらぼんやりと思惟に耽る。

 僕には何の取り柄もない。体育ではいつも足手まといで、勉強にはついていけず、空気も読めないから折角話を振られてもへらへら笑うことしかできない。

 いてもいなくてもどうでもいい、ではない。いるだけで空気を悪くするのが僕という存在だ。無能と不快を自覚していることが唯一の救いだろうか。

 そこまで考えてようやく、都合のいい自己弁護を始めていることに気がつき、鼻で笑う。

 欠陥を認めながらそれに甘んじていることが何よりの罪だというのに。身の程を知るだけで満足し、痛みを受け入れることで許されたつもりでいる。

 早く死ぬべきだ。

 死ぬ勇気もないくせに、もう何度目にもなる結論に辿り着き、いよいよ馬鹿らしくなった僕は熱気に満ちたバケツの中で固く目を瞑った。




 清潔なシーツの手触りの中で目を覚ます。僕は知らぬ間に保健室にいた。

 射し込む陽光が眩しい。三階窓際に位置するこの保健室は見晴らしが良く、学校の玄関前や閑散とした住宅街が一望できる。取り立てて珍しいものはないが、真昼間にぼんやりと眺める風景はどこか特別に映る。

「あ、やっと起きた?」

 仕切りのカーテンを開いたのは、保健室の先生だ。いかにも面倒臭そうに話しかけてきた彼女の手には僕の生徒手帳が摘まれている。内ポケットの膨らみが失われていることを今更になって気がつく。

「えーっと。これ、なんて読むの?」

「二年の瑪瑙めのう菖蒲しょうぶです」

「あっそう。授業始まってるけどどうする?」

「すいません。できれば休ませてほしいです」

「ま、どっちでもいいけど。次の授業までには出て行ってね」

 先生はそれきり僕への興味を失い、生徒手帳をベッドの上に放ると保健室を後にした。

 誰が僕を運んだのか、聞くのを忘れてしまったが、追い掛ける必要はない。苦労して助けた相手がこれほど陰気でつまらない奴だと知れば、無駄な時間を割いてしまったと後悔させてしまいかねない。善行を気分の良いもので済ませるためにも、会いに行かない方がいいだろう。

 授業が終わるまであと三十分ほどある。仮眠をとるには丁度いい時間だが、ついさっきまで眠っていたせいで目が冴えて仕方がない。特にやることもないので、再び窓の外に目を向ける。

 日中で風はなく、通学路の脇に植えられた街路樹が身じろぎせずに立ち並ぶ様子は時間が止まったような静けさがある。鳥の囀りさえもなく、聞こえるものと言えば檄を飛ばす教師の怒声とチョークを黒板に書き付ける音くらいのものか。暑気に負けない熱情は生徒達にとっては迷惑なだけで、想いが伝わることはないのだろうが、その鬱陶しさこそが日常を象徴するような安心感がある。

 僕がいなくても世界は続く。どこまでも、いつも通りに続いていく。

 当たり前のことを当たり前に受け入れながら、どこか見捨てられたような気持ちになる。

 思い上がりも甚だしい。結局僕は悟った風を装っているだけで、その実、何も諦められていない。自分に価値があるのではないか、という希望的観測を捨て切れない。だから今、窓から飛び降りて命を終わらせられずにいるのだと視線を地面に向け──

「え」

 目を疑った。

 全裸の少女が歩いている。下着も靴も何も身につけず、文字通り全裸で、体を隠す素振りもなく、堂々と歩いている。

 思春期を拗らせて幻覚を見たのかと思ったが、俄かに騒ぎ出した校内の生徒達を察するに彼女は現実の存在であるらしい。

 薬物中毒者だろうか。もしくは、精神異常者か。なんにせよ、正気の沙汰ではない。

 だが、見るからに狂った行いにも関わらず、少女を怖れる気持ちは微塵も湧いてこない。

 少女は可愛かった。美少女と称していい。視力はいい方ではないので顔つきははっきりと見えないが、動きに合わせて靡く黒髪と透き通るような白い肌はそれだけで美しい。華奢な身体はふとした弾みで折れてしまいそうな儚さがあったが、女性的な丸みを帯びていて、遠目に見る分にも柔らかさが想像できた。

 あんなに綺麗で可愛らしい子が狂気に支配されているはずがない。きっと、理由があるのだろう。

 根拠のない外見だけでの俗な判断だが、そう思ってしまった。少女を止めにきたのであろう、玄関から飛び出した教師が若干前屈みであるのもよく理解できた。

 二学年の保健体育を担当する先生だ。生徒指導も兼任する彼は厳しさ故、生徒からはあまり好かれていないが、真面目な人柄は日々の挨拶から読み取れる。前屈みではあるものの静止を呼びかける声は心配の色が強く、下心は感じない。

 しかし、先生がいくら声を張り上げて呼びかけても少女は止まらない。歩調を変えず平然と先生に迫る。大声にまるで動じない様子に流石の先生もたじろぐ。

 傍観している生徒から心ない野次が飛ぶ。大人しい校風だから野次が連鎖するようなことはないが、それでも先生に何かを決意させたらしい。迷いを捨てた彼は胸を張り、仁王立ちで少女の前に立ち塞がる。筋肉質な体は大きく、背筋を正すだけで印象は随分変わる。貧相な体つきの僕は素直に憧れる。

 だから、美少女が先生に抱きついたことにそれほど驚きはなかった。彼女は漢らしい男性が好みで、先生が抱きつきたくなるほど魅力的に見えたのだと自然と解釈できた。

 そういう、しばらくは持ちきりになるだろうけれど、あくまで現実の中の非日常の範疇で、大半の人にとって、もちろん僕にとっても対岸の出来事

 では済まなかった。

 少女の腕が先生の背中に回り切った瞬間、先生が破裂した。水風船が割れるみたいな喧しい音と共に赤々しい液体が放射状に散る。血液と呼ぶには粘性がなく水っぽいそれは、しかし血溜まりと呼ぶべき水溜まりを残し、衝撃の中心には間近で余波を受けたにも関わらずまったくの五体満足である美少女がいた。

 美少女が増えた。

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