ボンバーマン

 閉鎖された空間に放り込まれたキャラクターたちが、爆弾を武器に、生き残りを賭けた殺し合いを繰り広げる。そんな状況設定だけ聞くと、陰惨極まりないデスゲームとしか思えない。なのにゲームはあくまでポップだ。かわいくすらある。それが以前から不思議だった。この乖離はなんなのだろう。

 全体を俯瞰するような、見下ろし型の視点は、明らかにゲーム的なので、その距離感が殺し合いをかわいくするのだろうか。爆殺なんて、現実で考えるならとても悲惨な有り様だと思うが、このゲームでは爆風で消し炭になるキャラクターさえかわいい。

 シリーズが進むと、ルーイと呼ばれる、カンガルーに似た動物まで出てくる。特殊な能力を持ったお助け動物だ。色によってそれぞれ違った能力を発揮するが(グリーンはダッシュ、ピンクはジャンプ、などなど)、やっぱりたまらなくかわいらしい。殺し合いに動物を利用するなど、なおさら陰惨なはずなのに、ゲームはそんなことを微塵も感じさせない。古代ローマの剣闘士試合でも、前座で野獣狩りをやっていたそうなので、殺し合いに動物は付き物なのかもしれない。それにしてもルーイはかわいい。巻き添えに爆殺されるのはしのびない。

 「みそボン」というシステムもあった。「みそボン」とは「みそっかすボンバー」の略だ。改めて考えるとひどい名称である。死んだキャラクターがステージの周りに現れ、そこから爆弾を投擲することができる。ドッジボールの外野みたいなポジションだ。見事、爆殺することができれば、晴れて生き返ることができる。これではまるっきり怨霊ではないか。殺し合いを活性化するための恐ろしいシステムだ。なのにゲームはあくまでポップでかわいらしい。不思議だ。すごく不思議だ。

 もちろんゲームとしてとても面白く、多人数でわいわいやるのに向いているので、自分もずいぶん友達とやった。ひたすら爆殺し、爆殺された。たとえば「グランド・セフト・オート」シリーズというゲームは、犯罪者である主人公を操り、車を盗んだり、道ばたを行き交う人々を撃ち殺したりとやりたい放題で、倫理的にどうなのかといつも物議を醸してしまうのだが、暴力を暴力と認識しやすくはある。現実では非難される行いを白昼堂々やっているという、後ろめたさを楽しんでいるところもある。「ボンバーマン」だってやってることは相当なものだが、後ろめたさはまったくない。それって、ある意味もっと危険なのではないか。どちらも笑えるほど明るいのは共通しているけど。

 ゲームに慣れてしまえば、仮想世界でいくら殺し合いをやろうとも、倫理的な問題なんて考えないし、取り沙汰することすらバカバカしく感じるけど、ゲームの悪影響というのが本当にあるなら、どんなものなのか知りたいとは思う。日常的に仮想世界で殺し合いをするのは、精神にどんな影響を与えているのだろうか。それでゲームを非難したいわけではないけど、純粋に好奇心から知りたいと思う。

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