男の半生

ジュン

第1話太郎

「あ」

太郎は気づいた。

「そうか!」

美しい記憶はすぐに失われてしまうけれど、逆に苦しい記憶は永く続くものだということに。太郎は深呼吸した後、柔和な表情でさらにこう続けた。

「自分の生い立ちをよく知らない。それで、自分の未来は無論、他の人たちのことなどわかるわけがない」

太郎は、自分が自分の過去と訣別するために、どうしたらよいのか考えた。太郎は玄関に向かう。そして、踵の潰れた黒い革靴を履く。そうして太郎は外へ出る。夏の陽射しが、酷い暑さを生む。太郎はアスファルトの道を歩く。歩きながら考える。

「哲学書を読んだって人間のことなどわかりゃしない。そうだ、僕は哲学書を書くことをしたいものだ。私的な哲学者になるために」


太郎は始めに「痛み」というものを考えた。

「痛みとは、正しい歴史認識の証だ」

太郎は確信した。痛みのもたらす覚醒というものが、いかような人間であっても、歴史を正直に観ようとする強い意志の表れであると。けれども、太郎には疑問があった。歴史が暗黒の時代であった場合、僕はどうやってその歴史を取り返せるのだろうかと。

太郎は、歴史とは、その傾向として「間違えやすい」ものだと考えている。


さて、太郎にとって痛みの起源とは、母のまなざしであった。母のまなざしは、赤ん坊にとって「すべて」だ。だから、母のまなざしを失う、とは、「すべて」の起源が消失することを意味する。つまり、太郎は未だ存在しえないということになる。

「悲しいなあ」

太郎は、涙を流さずにそう言った。

「悲しいけれど」

太郎は、歴史家として、自身の失わせられた歴史の史実、その主体としての存在を、絶対に快復したいと願う。太郎は言う。

「真実は最も大事だ。しかし、事実を知らなければ、決して真実には至らない」

事実とは、事象の集合だが、真実は単なる集合とは異なる。真実は「超事実」であり、かつ「否事実」ではないからだ。

太郎の痩せこけた頬を強い陽射しが照りつける。まるで、いつか、どこかで観た絵画のような光景だ。


さて、太郎は安アパートに帰ると、その日はそのまま飯も食わずに布団にごろんと転がった。太郎は天井を見ながら思った。

「今日は気分がいい」

なぜ、そう思ったか。太郎は、ようやく発見したからだ。自分の本来の有り様というものと、現実の有り様が、全然違ってしまっているのだけれど、そのことを直視する勇気をもてた喜びというものを。


今日は渡辺先生に会う日だ。渡辺先生は太郎の主治医だ。太郎は心療内科に通院している。

「急がなきゃ」

渡辺クリニックに行く途中、必ず書店に立ち寄る。太郎は本が好きだ。今日も、最近堂書店に寄った。太郎はいつも本ではなく「本棚」を見る。本棚の上の方にその棚の書籍のジャンルが書いてある。そこを見る。それがおもしろいのだ、という。


「この本、おもしろそうだなあ」

一冊の文庫を手に取った。

『ネクタイの縛り方』(ハチャメチャンスキー, 封酔社)

「買おう!」

太郎が本を購入するのは久々だ。


渡辺クリニックの待合室で、今さっき買った本を読む。太郎は普通、人前では本を読まない。けれども、渡辺クリニックでは読む。落ち着くことができるから。


「太郎さん、どうぞ」

先生に呼ばれる。

「こんにちは」

「こんにちは」

先生はいつも同じことをきく。

「どうですか。調子は」

「ええ、まあ、あまり変わらないです……」


「ありがとうございました」

小さい声でお礼を言って、僕は診察室を出た。


渡辺先生は知っているか。実は、僕は先生が思っている以上に重篤な病状であるということを。病んでいるのは僕の心ではなく、歴史の始め、まだ、ことばも知らない、先史時代の僕の真実だということを。いや、真実は病気から独立している。しかし、真実は隠匿されている。そうである以上、真実に近づく術を知らない者は、一般に、「心が病む」などと表現されている。間違えてはいけないのは、心の病は状態であって、その人の存在自体ではない。表象にすぎない。


太郎はモノを書くとはどういうことかを考えた。それで、さっそく椅子に座り机に向かった。ノートとボールペンを用意する。それで「書くことを書く」ということをやってみた。

「モノを書くことを一言で言えば……」

太郎は考えた。

「絵を描くことに近いのかもしれない」

太郎は思う。絵を描くことが、本当は自由であるようにモノを書くことも本質は同じで「大体」自由なのではないか。

「大意が伝わればそれでいい」

太郎はずっと前に、モノを書くことは、内容より形式の方が重要だと考えていた。形式美という言葉があるとおり、美しい様式、あるいは「統一された文体」というものが内容より大事だと思っていた。だが、今は違う。

「大切なのは内容だ」

僕は、形式というのは一種の強迫であって、自分を拘束するものだと思う。

「本当に自由でありたい!」

太郎は続けて言う。

「モノを書くことも、本当に自由でありたい!」

太郎は、美しいものの内部に、醜悪な態度が隠されていることが多々あるものだ、ということに「半ば」気がついていた。ようやく、確かさをもってそれを理解できるに至った経緯は、今日まで書くことを試みてきた結果だった。

「次回のタイトルは『人間不養生起源論』だ」


さて、なぜ人はモノを書く、また本を読むのか。太郎は「太陽がまぶしかったから」だ、などという。まぶしいから下を向くために書いたり読んだりする、などという。

太郎は疑問に思った。コーテーションマークとダブルコーテーションマークの決定的な違いはなにか。用法ではなく、記号としての根元的な違いはなにかと問う。

「たいした違いなんてない」

太郎は、美しくないことの意義は「本当に美しい」ということではないかと考えている。


今日は、痛みの話を渡辺先生に伝えて、そのことをノートにまとめてみた。その作業が終わったので、太郎は喫茶店に行った。


「いつものでいいですか」

「いつものでいいです」


「はい、どうぞ」

「ありがとう」

太郎はコーヒーが好きだ。コーヒーとはなにかときけば、人生そのものさ!と答える。太郎は喫茶メルビルを利用して五年になる。太郎は、ある店員、名もまだ知らないので、仮に花子さんとしておく。彼女に恋している。彼は、花子さんのどこに惹かれるのか。それは、美しい愚かさ、つまり愚直さである。

「あの人は魔性の女だ」

なぜそう感じるのか。なぜなら……それは太郎にもわからない。なぜか、そう感じるのだ。だからこそ「あの人は魔性の女だ」と思うのだった。

「花子さんには彼氏がいるのかなあ」

花子さんは太郎に恋することの痛みを与え、花子さんは渡辺先生より強力な医者であって、それから、花子さんは書いては破って捨てた恋文の当人である。

太郎は勇気を出してアプローチした。


「あの」

「はい」

「今度、食事に行きませんか」

「…………」

「よかったら、なんだけど」

「はい」

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