地獄の35丁目 帰ってきた日常、新たな非日常

 火曜日の朝、俺は会社用に設定している目覚ましと共に起床し、寝ぼけながらトイレに立ち、気が付いた。


「元に戻ってる!!!」


 うれしさのあまり手に引っかけるところだった。もう、レーティングの関係から詳しくは語るまいが、になること凡そ二日間。正直元に戻らなかったら生きていく術を失うところだった。大げさではなくそれぐらいに思っている。


 マンドラゴラの副作用の副作用か、体の調子は万全だ。体中の毒気が抜けたようなスーパーデトックス効果。うまく成分を分離できれば死ぬまで金に困らないような大儲けができそうだ。さて、妄想もそこそこに洗面所へ向かい、顔を洗って大急ぎでトースターに食パンを放り込む。同時に湯を沸かし、お椀にインスタントスープの粉を振りまいた後はテレビの電源をONだ。天気は……晴れ。いいね。俺の心の中みたいじゃないか。


 せわしないモーニングルーティーン(笑)を終え、久しぶりに窓から外を見る。うん、地獄と違ってなんと清々しい朝か!


 隣のベルはまだ家に居るだろうか。鉢合わせしないように示し合わせて、俺が少し早めに出るようにしているのだが。


********************

【ベル】


キ:今日はすっかり元に戻ったので出社します! もう出ちゃいましたか?


ベ:まだです。では、時間を少しずらしますので駅に着いたあたりで連絡を下さい。


キ:了解です!

********************


 うむ。日常が戻ってきたのだ! 会社に行くのも何やら久しぶりのような気がする。肌着とワイシャツに腕を通し、スラックスを履いて安物のベルトとネクタイを装着したら立派なサラリーマンの出来上がりだ!


「さて、行くか……」


 出来るだけ意味深に呟いてみた。特に意味はない。


 最寄りの駅から電車に揺られること40分。そこからさらに10分程歩くことで俺の勤め先に着く。地獄の瘴気とはまた違った排気ガスのむせかえるような香り。ああ、四日ぶりだというのに何もかも皆懐かしい……。


「安楽君、もう出社して平気なの?」


 この透き通るような甘い声、イメージとしてはそう、かき氷だな。かき氷の広瀬さん!


「ええ! 幸い大したことありませんでした! ご心配とご迷惑をお掛けいたしました!」

「迷惑しか掛けてないんだよなぁ、安楽君!」


 ゲッ! 阿久津! 眩暈がするような吐き気を催すねちっこい声。イメージとしては土曜日の新宿の明け方みたいな人間だ。


「おはようございます……。阿久津さん」

、早急に頼むよ。安楽クン」

「善処いたします」


 その言葉を聞き終わらないうちに阿久津はまたすぐにどこかへ出かけて行ったようだ。


「何しに来たんですかね。あの人」

「ま、これが私達の今の日常ってやつよね」


 ああ、そうか。帰ってきたんだ。日常に。


「キーチローさん、おはようございます」

「あ、ベルさん。おはようございます!」

「もう大丈夫なんですか?」

「ええ! もう全然平気です!」

「それは、何よりです。さあ、仕事を始めましょう」


 久しぶりの業務、と言っても休んだのは一日だけだがそれなりに伝票などはたまっていた。今日はさっさと仕事を終わらせて帰ろう。色々ボックス内の打ち合わせもしたいし。


 という訳で、あっという間に終業の時間がやってきた。やはり決算期以外は大したこともない。余計な手間阿久津さえなければこれが本当の日常だ。


 ベルはさっさと帰っていく。俺も30分ぐらいしたら出ていくか。


「じゃあ、私帰るね! 安楽君!」

「はい、お疲れ様でーす!」

「俺も今日は久しぶりの合コンだから帰る!」

「お、それは頑張ってください! 滝沢さん!」

「おう! 行ってくるぜ!」


 滝沢パイセンは親指を立てて消えていった。その後、俺も30分程雑務をこなし、退勤した。後はアルカディア・ボックスに行って地獄編の総括だな。新しい人も近々入ってくるし。


 俺は、退勤ボタンを押して帰路へ着いた。ところが、家に着く直前。もう家まで後5分というところで異変に見舞われてしまった。


 ――どう見てもあのおじさん、浮いている。


 ――ていうかどう見ても黒いオーラが見える。


 うん。これは、あれだ。本来なら回れ右をして人通りの多いところへ逃げ込む案件だ。


「余り、驚かれないようですね」


 見た目は紳士、中身は悪魔があろうことか話しかけてきた。


「やはり、あなたが安楽 喜一郎さんですね?」

「すいません、あなたはどちら様でしょうか」

「申し遅れ魔した。ワタクシ、コンフリー=コンラッドと申し魔す。お察しの通り、悪魔でござい魔す」


 堂々とした自己紹介だ。正体を隠す気はないという事か?


「ご、ご用件は?」

「あなたが地獄で入手したマンドラゴラ。あれを少し分けていただきたい」

「なるほど、そういう事でしたらうちのオーナーに……」

「お宅のオーナーとは少し相容れない立場におり魔して」

「そういう事は隠しません? 凄い勢いで不信感が募ってるんですが」

「それも隠しておいた方が良いことですな。私から一言だけ申し上げ魔すと、私はです。の」


 どうも、力づくのようだ。困った。こちらは連絡がとれないとただの魔力値が高い一般人だというのに。そして、もっとまずいのは彼が望むものを持っていないという事だ。マンドラゴラなら最悪差し出せば済むが、持っていないとわかったら


「どなたか、ご病気で? それとも滋養強壮の方ですか?」

「あまり話し合っている時間はないようです」


 執事のような恰好のおじさんは後ろで組んでいた両手をほどき、拝むようなポーズをとったかと思うと少しずつ両手を引き離していった。手と手の間にはあまり想像したくない展開が詰め込まれた球体が発生していた。


「あ、家に帰ればあったかなー……と」

「…………」


 もう、話聞いてもらえないんですかね。これって、ジ・エンドの場面ですかね!?


「待ちなさい!」


 声の方向へ振り返ると、そこには女神が立っていた。いや、悪魔か。


「うちの従業員にどういうつもりですか? コンフリー」


 ベル……!! 地獄に悪魔とはこのことだ! どのことだ!?


「ベルさん! お知り合いで!?」

「この男は先代魔王の配下、コンフリー=コンラッド!」

「自己紹介は済ませておき魔した。ふふふ」

「今すぐ立ち去りなさい! さもなくば私とデボラ様が相手をいたします!」

「おお、怖い。厄介なのが来る前に立ち去り魔しょう、ごきげんよう」


 おじさんは手を胸に当てると最敬礼をして目の前から姿を消した。


「あ、ありがとうございます。ベルさん!」

「いえ、デボラ様の名前を出さねばこちらは全滅だったでしょう」


 ベルの額から汗が噴き出している。


 たぶん、俺はカブタンと出会って以来、最大のピンチだったらしい……。

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