地獄の26丁目 油断大敵

 油断とは、油を断つことではないらしい。


 昔々あるところの王が、ある家臣に油の鉢を持たせて宮殿の中を歩かせ、決してこぼすなと命じ、もし一滴でも油をこぼせば罰として生命を断つと脅したことが語源になっている様だ(諸説あり)。


 唐突にこんな話をしたのには理由わけがある。只今、絶賛上映中の走馬灯に対して俺は成す術を持っていないからだ。


 地獄に来てまで油断する輩を救うすべはさすがに魔王様も持ち合わせてはいなかったらしい。崖から足を滑らせてあっという間に視界から消えた。下手をすると気づいていない可能性すらある。


 ダママは一応助けようと首を伸ばしてくれたが、牙や唾液に含まれた毒を思い出して思いとどまったようだ。一歩遅かったが。遠ざかるダママの鳴き声。


 ケルベロスの牙がかすり、手のひらは毒を受けた状態。神経毒か? 致死性の毒だっただろうか。そして、現状なおも落下中。いつの間にこんなに上ったかと思ったが、地獄は下り坂なのだ。そもそもスタート地点が最高点で後は中心に向かって下るのみ。


 さて、地獄で死ぬと結局スタートに戻るのだろうか。今後は亡者として魔王様につき従うことになるのだろうか。それじゃまるで弱くてニューゲームじゃないか。まだ現世でやりたいことがたくさん、たくさんあった……。


 やがて、そんな思考も終わりを迎える。着地、というか単純に定められた地への激突。幸いにして、魔王様の防護魔法が最悪の事態だけは避けてくれたようだが、衝撃で脳震盪のうしんとうをおこ……し……




 ――そして、ここはどこだ! なぜ裸なのだ! ベッドに寝ていた……のか?


「目が覚めたようだね」


 素っ裸なのも忘れて俺は声の方へ振り返ってしまった。


「ど、どちら様で……?」


 男はラベンダーのような髪色に丸いメガネをかけていて理知的な顔立ちをしていた。男が言うのもなんだがイケメンだと思う。


「では、まず自己紹介といこう。こういう時は先に名乗るのも大事なことだと思うよ」


 どうしよう。相手の素性もわからないのに名乗っていいものだろうか。魔王様の庇護があるとはいえ、相手は地獄の住人だ。魔王様に敵対する存在もいるかもしれない。


「どうしたんだい? 警戒しているのかい? 命の恩人に対して?」

「何で素っ裸なんですかね?」


 俺は真面目な顔をして問うたが、そっと前の粗末な魔獣を隠した。


「君の衣服は強力な防護魔法に包まれていてね。治療の必要が有るか無いかを調べるのに邪魔だったので剥ぎ取りました。のキミには非常に興味をそそられますが、ではないですね」


「……っ! 助けて……頂いて……ありがとうございます」

「宜しい。私は『おはようございます』、『いただきます』、『ごちそうさま』、『ありがとう』、『ごめんなさい』という簡単な呪文すら詠唱出来ないものを軽蔑します」


 なぜだろう、柔らかい雰囲気の中においても不思議なぐらいの威圧感を感じる。これではまるで……。


「では、ご褒美に名乗ってあげましょう。私の名はキャラウェイ=カミングス。地獄の探究者にして探求者。または追究者にして追求者、あるいは追及者」

「えっ……!? 今なんと!?」

「追及者」

「いや、あなたが追及者だろうが救急車だろうがどっちでもいいんです! お名前は!?」


「お、微妙に失礼な奴ですね。キャラウェイですが?」

「あなたがキャラウェイ=カミングスさんですか!?」

「生者に聞きなじみのある名前とは思えませんが……?」


 そりゃそうだ。俺だって、さっき確認したところだ。魔王様ですらちょっと怪しい。


「『地獄生物大全』の作者の!?」

「ほう! ますますもって興味深い! あなたはそれをどこで?」


 言ってしまっていいのかな。とりあえず探りを入れてみるか。


「その質問にお答えするためには確認しておきたいことが」

「なんでしょう?」


「魔王、デボラ=ディアボロスはご存じですか?」

「あなた、とても生者とは思えないワードがポンポン飛び出してきますね。結論から言うと知ってます」

「どのようなご関係で?」

「関係あると言えばあるし……。全く関係ないと言えばないですね」


 ほぼノーヒントだ。どうしよう。……と思っていたら目の前が急に明るくなりだした。これは広瀬さんちでのアレと同じ……。嫌な事思い出した。


「キーチロー! 探したぞ!」

「おや、デボラさん! ……とケルベロス?」


「ん? お、お主……いや、あなたは……!!」


 魔王様があなたっていったいどちら様?


「道理でキーチローの気配になかなか辿り着けなかったわけだ……。我の庭である地獄でこんなことが出来る者など限られておるからな」

「我の庭とはまた」

「はっはっは! 今はもう我の庭ですよ! 先々代魔王、バラン=ディアボロス様!」


 え、先々代、魔王!? 俺はまたとんでもない地雷原を歩かされていたわけか?


「ということはデボラ様のおじいちゃん!?」

「ディアボロスの名は名跡の様なものだ。バラン様と我の間に一切の血のつながりはない! しかし驚きましたな! あなたがキャラウェイ=カミングスだったとは!」


「隠居してから暇でね。まあ、『地獄生物大全』の大半は現役の間に書き上げたものだけど。ペンネームみたいなものさ」


「ちょうどよかった。我々はあなたを探していたのです!」

「ちょうどよかった。私もこの生者についての謎が解けてきたところです!」

「ちょうどよかった! 着るものを探していたところなんです!」


 二人に睨まれたがこちらだって恥ずかしい思いをひた隠して会話に参加していたんだ。もう我慢の限界だ!




「――という訳で魔物の図鑑の作者を探しておったわけです。そこへきてこの粗忽者が足を踏み外して文字通り奈落へ……」


「あ! 粗忽者で思い出した! この子、毒を受けているんでした!」

「え、解毒は……?」

「あいにく、マンドラゴラを切らしてまして。申し訳ないけど後24時間ほどで亡者の仲間入りですね」


 おいおいおいおい! 何を朗らかに大切なことをすっ飛ばしてるんだ! 魔王様って代々そういう人なのか!? 結構話し込んでから思い出しやがって!!


「じゃあ、みんなで散歩がてらマンドラゴラ探しに出かけますか! 最近、マンドラゴラもめっきり見なくなりましてねぇ……」

「おお、では我々の目的とも重なりますな!」


 こっちは24時間以内にマンドラゴラ見つけないと、もう一回門をくぐる羽目になるんですよ! 日曜日のせめて夕方までには一回帰りたいんですけど!


「は、早くしないと俺の命が……! なんでそんな呑気に!」


 そこまで言って気が付いたが、別にこの人たちにとって俺が生きていようが死んでいようが関係ないのだ。何なら死んでいた方が扱いやすいまである。



「とは言え、今の時間から森に出かけるのは危険すぎます。出発は明日の朝、ということにしましょう」

「今、大体人間界で言うところの17時か。確かに危険だな。夜は魔物が活性化するし、何より迷ってしまっては元も子もない」


「そんな悠長なことで大丈夫ですか!?」


「案ずるな! 数は減っているだろうが、きっとあるさ!」

「そうそう、だから十分休んでから行きましょう! 『死の森』へ!」


 俺は少しだけ死を覚悟した。

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