コンノアヤミ その6
私は昔からろくでなしだった――と言いたいところだけれど、正直なところ大してろくでなしのようにも振る舞えなかった。ずっとろくでなしぶってはいたけれど、本物のろくでなしからすれば、白々しい三文芝居でしかなかっただろう。それでも私は善人とかお人好しとか、そう呼ばれる類の、道徳や宗教で正しいとされる人間にはなりたくなかった。アダムやイブのような馬鹿にはなりたくなかった。神様みたいに偉くなれるわけがないし、蛇みたいに狡猾になれるわけもないことは何となくわかっていたけれど、せめて中ぐらいの、揉み手で媚びへつらっているような、小悪党のような人間でありたかった。
だから私は中学時代にクラスで起こったいじめに積極的に加担した。加担した、といっても、主犯格の子にへこへこし、いじめられっ子がいじめられているのを遠巻きに笑いながら眺めているだけだったけれど、少なくともそのポジションにいることで、ろくでなしの小悪党として振る舞えた。それには非常に満足感があった。自分が善人ではないと思えた。
私が特に好きだったのは、トイレでのいじめを見ることだった。クラスの何人かがいじめられっ子を押さえつけて、主犯格の命令のままに便器の中に顔を突っ込む、それをトイレ個室の外から眺めるのが堪らなかった。いじめられっ子はじたばたの手足を振り回してもがきながら、ぶくぶくと小汚い音を立てた。波打つ便器の中の水からぼこぼこと水泡が湧き出して、破裂した。そのたびに、大便と芳香剤が混じり合った匂いがぷんと流れてきた。それを嗅ぐと、私は途轍もない幸福感と酩酊感を得た。あれはどんなシンナーや覚せい剤よりも強力なものだっただろうと、未だに思う。シンナーも覚せい剤も吸ったことはないが。
しかし、そのいじめはあまり長続きせず、開始されてから三か月ほどで、いじめられっ子の自殺という幕引きを遂げた。その際に遺書が残されていたようで、いじめのことがバレた。その結果、般若の形相になった両親に、何度も平手打ちで殴られながら怒涛の如く叱られた。何発か拳や蹴りもあったような気がする。私は全身を痣だらけにして背を丸めながら、情けなく「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き叫ぶようにして謝った。そのときは演技もへったくれもなくて、蛇のことも頭から吹っ飛んでいた。しばらくは心底から抱いた恐怖のせいで、その姿すら思い浮かべることはなかった。
それ以来、私はめっきり大人しかった。あれだけ悪びれようとしていたというのに、取り巻き役をやるのも億劫になっていた。両親は毎日三度ほど私に聖書の文言を読み聞かせた。私はうんざりしたけれども、両親のその赤らんだ眼光を見ると、反抗なんてできるはずもなかった。かといって、教えられるがままに善行をするというのは癪で、必死にあらゆることで無関心な第三者でいようと徹した。バスや列車の席を老人や妊婦に譲ることはなかったし、迷子で泣いている子どもがいても目の前を素通りした。点字ブロックの上に平気で自転車を停めたし、こっそりゴミの類を道路の隅へとポイ捨てした。そういった、悪事ともいえないような小さな悪行を積み重ねていくことは、私の密かな楽しみであり、救いだった。
数年後、遠方の大学に入学が決まった私は、無事両親のいる家から脱出することができた。その大学は普通に評判の良いところだったから、私の大学進学に対して両親が何かしらのケチをつけることはなく、むしろようやく自身らの娘に独り立ちの兆しが見えてきたことに満足しているようだった。だから、大学の学費の工面と仕送りの打診には苦労しなかった。
私は一人暮らしを始め、大学に通い始めた。一人暮らしというのはもっと開放感のあるものかと思っていたけれど、気分的には大して変わらなかった。しかし、少なくともあの聖書朗読装置こと両親がいないことに関しては、私を幾分か楽な気持ちにさせていた。
大学生になって一人暮らしを始めた暁には、またろくでなしとして振る舞おうと、最初から決めていた。だから色んなサークルの勧誘を受けたときも、注意深く情報を調査し、最もろくでもなさそうなサークルに入った。それが心霊研究会だった。
心霊研究会はいわゆるヤリサーとか、そういう風に蔑まれる類のサークルだった。実際は乱交とかそんなあからさまなことはしなかったけれど、どうにも生臭い空気というか獣臭い空気というか、そのくせ下手に人間のコミュニティぶっている、吐き気のするような雰囲気があった。それはサークルの部員どもが醸し出しているものだった。胡散臭い部長のヤシロ、粗暴でつまらないマツド、まともな顔をしているだけのタニオカ、自分の欲を隠さないイケハラ、如何にも性格の悪そうなハマグチ――そして、悪人ぶろうとする、悪人に届かない私。最底辺のコミュニティだと思った。人間のコミュニティと称するのにはおこがましい、猿山みたいな――いや、こんな言い方をしたら猿に失礼だろうけれど、無理やり喩えようとするならそうとしか言えないような――そんな頭の悪い場所だった。しかし、私はそこにいることに何の不満もなかった。むしろ、そこは私が志すべき場所だった。こいつらみたいになるのだ、と私は思った。こんなやつらは心底から軽蔑するけれど、こいつらみたいに、どこまでも軽薄に、どこまでも欠けた人間に――それが私の目標だった。そしてそうなった私をあの聖書依存症の両親に見せつけてやるのだ。もうあんな風に殴る気力もなくなるほど、失望させてやるのだと。その歪んだ想いが確かに私を支えてきた。
ノドカを拾ったのは、ちょうど同じ頃だった。その日は絵に描いたような土砂降りだった。礫みたいな大粒の雨がアスファルトやら屋根やらに激しく叩きつけられ、弾けていた。ぼろぼろの赤茶けた傘を差した私は、いつものようにぶらぶらと適当に寄り道しながら、遠回りの帰路についていた。何を買うということもなく、無心で歩き回るのは私の日課だった。
ノドカは、シャッターの多いアーケード街の、狭い路地の隅にいた。それを見つけたのは、本当に偶々だった。ノドカは湿った苔だらけの壁に背中を預けて、体育座りの姿勢で身を丸めて座り込んでいた。見つけた時点では、顔は膝に埋められていて見えなかった。服装は簡素な無地のTシャツと長めのスカートだったけれど、なんだか雑巾みたいに薄汚れていた。
のろのろと私が近づいてみても、ノドカは反応を示さなかった。そういう風に固定された死体みたいだったけれど、頭が微かに揺れていた。私はノドカに声をかけた。何で声をかけたのかは自分でもよくわからない。少なくとも親切にするつもりは更々なかったし、もし助けを求めてくるようなら一目散に逃げてやろうとも思っていた。運命だとか赤い糸とかそういう陳腐なものは大嫌いだから、気紛れとか冷やかしとかそういう類の感情だったのだろう、というのが自分の中での落としどころだった。
ノドカは私の声掛けにぴくりと反応すると、顔を上げた。唇の端が赤黒く滲んでいて、眼球が真っ赤だった。お世辞にも美人とも可愛いとも言える容姿ではなかったけれど、その陰気な顔を見た途端、私の背筋に空想の虫が駆けた。酷く見覚えがある気がした。こんな醜い顔、そうそう見る機会もないだろうに。
私はそのままノドカと話した。傘をノドカの方に傾け、自分の名前を言い、大学生であるという素性を明かし、心配している素振りの台詞を吐いた。ノドカは初めのうち警戒していて無言だったが、徐々にぽつりぽつりと口を開き始めた。
どうやら同棲していた男に、家を追い出されたらしかった。元々身寄りがなく、友達もおらず、金もないため、行く当ても泊まる当てもなく途方に暮れていた、とノドカは話した。
うちに泊まりにこないか、とノドカに提案した。その言葉は、始めから考えていたようにすらすらと口から出た。たぶん、そのときから私はノドカに欲情していた。今まで男の恋人すら出来た試しはなかったけれど、この女を犯したいと思っていた。ノドカは少しだけ逡巡したあと、頷いた。藁にも縋る想いだったのだろう。私はノドカを引き連れて、一人暮らしの自宅へと帰った。
風呂を貸し、よく洗濯された服もやり、インスタントではあったが温かい飯も食わせた。その頃には、ノドカは私への警戒を解いた様子で、すっかり油断し切った顔で、にこにこと微笑んでいた。ありがとう、と言われた。そんな感謝の言葉を述べられるのは、記憶にある限りでは初めてのことだったが、むず痒いというより、酷く苛立たしい気持ちになった。これではダメだと思った。こんなのはただの親切だと。
だから――というわけでもないけれど、その晩、私は自分の内なる本能に従い、ノドカを犯した。ノドカは力が弱く、それに疲れ切っていたようだから、容易にベッドの上に押さえつけることができた。最初はそれなりに激しく抵抗してきたが、首を絞めながら数発殴ると、大人しくなった。それから私は思うがままにノドカの身体を弄った。
その晩は、私の人生の中でも一、二を争うほど満ち足りたものだった。
翌日、てっきりノドカは私を恐れてすぐにでも飛び出していくものと思っていたが、結局私の元に残った。どういう考えかは知らないが、ノドカは私といることを選択した。
ノドカが良いというのなら、私が遠慮する道理はなかった。身の回りの家事なんかは基本的に押し付け、思い出したようにセックスした。たまに虫の居所が悪い日にはストレス解消のサンドバックとして殴った。セックスでも暴力でも、ノドカは抵抗しなかった。ただ怯えたり嫌がったりするような素振りはし、ときおり意味不明な懇願の言葉をつぶやいたりもしたけれど、それは私の性的興奮を煽るだけだった。ノドカを犯しているとき、または殴っているとき、私は正真正銘のろくでなしに――クズになれていると実感できた。それはともすれば誇らしさすら抱く感情で、堪らずに夢中になった。ノドカを加虐しているときの私は、私が思う理想の私だった。こうなりたいと昔から思っていた私だった。外では――あのサークルの中でさえ思うように再現できない私だった。本当の自分ではなかったけれど、本当の自分なんて捨て去って手に入れたかった自分だった。その感覚と快楽を、私は貪った。だからノドカの身体や顔にはほぼ常に傷や痣が絶えなかった。それでもノドカは私から離れていかなかった。嫌がりつつも私に犯され、殴られた。ノドカが私のことをどう思い、なぜここから離れないのかは、私にはさっぱりわからなかったし、どうでも良かった。どんな理由があるにせよ、ノドカは私に虐げられることを是としたのだ。それは同意だ。無理やりなセックスも暴力も、同意の上での行為なのだ。――そう内心で言い訳するほど、はっきりと詭弁だとわかるほど、私は自己嫌悪に似た愉悦を味わった。至上の喜びだった。
――まさか、私だってこんな喜びがいつまでも続くなんて思っていなかった。けれど、それがこの今の喜びを味わわない理由にはならなかった。せめて終わりが来るときまで、この甘美な日々を食い散らかしていたかった。あの薄汚くうるさいサークルの中で、しみったれた女の隣で、ろくでなしの雌猿である夢を見ていたかった。
さっと情景が歪んだ。がらがらと崩れ落ちる音がして、私はあの山中の開けた場所に立っていた。中央には大木。あの撮影の三人はいない。サークルの連中もいない。あの子はいる。あの少女はいる。あのやけにふわふわひらひらした、幼稚な服装の。何も変わらず、大木に縛られて項垂れている。私は近づいていく。下半身が徐々に熱くなる。微弱な電流が走るように、指先が微かに疼く。そっと、そっと少女の胸元に手を伸ばして――そのとき少女は顔を上げる。少女と目が合う。少女の瞳がよく見える。あの日本人離れした蒼い瞳がよく見える。そこに私の姿が映っている。曇った鏡みたいに不明瞭に映っている。髪を振り乱した、山姥みたいな、そういう類の妖怪みたいな、醜い私が映っている。ああ、それで私は、私は――そのまま少女の胸に、触れた。
そこで目が醒めた。押入れの中はまだ夜なのか朝なのかわからないほど暗かった。襖をそそっと小さく開けると、少し離れたところで、ノドカが床にタオルケット一枚を敷いた上で静かに寝息を立てていた。薄いカーテンから、白んだ光が通過して差し込まれている。
私は襖を締め直すと、それに背を向けるように寝転がり、また目を閉じた。どこかの名も知らない鳥の鳴き声が少しだけ聞こえた。
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