マルイヨシキ その5(おわり)
目覚めると、自宅の見慣れた天井が目の前にあった。慣れ切った寝心地の悪いベッドの上に寝転がっている。一瞬、すべてが夢だったのではないかと僅かに期待した。しかし、上半身を起こして、枕元に置かれているものを見たとき、俺は諦観とともに息を吐いた。
そこには厚手の茶封筒が置かれていて、その上には一枚のメモが貼りつけられていた。
メモに書かれていた内容はこうだ。
『マルイヨシキ様、今回は撮影にご協力いただき、誠にありがとうございました。撮影後、ご自宅の方へと運ばせていただきました。つきましては、報酬の方を同封した封筒をここに置いておきます。それから、当社の会員カードも一緒に同封させていただきます。会員カードは当社の男優様方のためのカードです。また撮影に参加したいとお考えの場合は、カードに記されている当社の電話番号にご連絡ください。撮影へのご協力はいつでも結構です。こちらから出演を強要するようなことはありません。ただし、会員になったからには、それ相応の責任感を持つようにお願いします。当社に関することを他者に話した場合は、罰としてペナルティを受けていただきます。それは罰金などの軽いものではないということをご留意ください。それでは、また。裏アダルトビデオメーカークズ箱より』
――その文章が、意外と達筆な文字で書かれていた。
もうあれこれに驚いたり、動揺したりする気力もなかった。会員カードだろうが、ペナルティだろうが、他人事のように現実味がなかった。しかし同時に、下半身に残る疼きような感触だけが、認めたくない現実感を主張していた。
封筒の中には、数えてはいないけれど五十枚ほどの一万円札が束になって入っていた。それの間に挟まるようにして、メモに書かれていた会員カードらしきものが入っていた。
簡素なデザインのそのカードには、俺の名前が記されていて、その下には『裏アダルトビデオメーカークズ箱』という社名と、見知らぬ電話番号が印刷されている。俺はそれをゴミ箱に向かって投げようとして――結局やめて、両手で強く握った。手汗がだらだらと滲みだすほど、カードの跡がくっきりと手のひらの肉に貼りつくほど、強く握った。
アマサキは行方不明のままだった。やっているのだかやっていないのだかよくわからない警察の捜査にも何の進展もないようだった。あの空き教室にも行ってみたけれど、何の変哲もないただの空き教室だった。
ゴミ箱に捨てることができなかったカードは箪笥の奥に押し込んでいたけれど、毎日一度は取り出して眺めてしまうのを繰り返していたら、気づけば財布の中に入れて持ち歩くようになっていた。ゴミ箱があれば鼻をかんだちり紙なんかと一緒に捨てようとするのだけれど、俺の手のひらは意地になっているように、カードを手放そうとしなかった。いつの間にか諦念が気持ちを占めて、ゴミ箱に捨てようとする素振りをすることもなくなった。
俺は変わらずに教師をしていたけれど、何もかもが変わってしまったようだった。俺にはもう目指すべきものがない。黒板もチョークも狭い教室も、すべてが色褪せて、薄れて、無意味に溶け出していくようだった。つまらなかった。どうでも良かった。生きる意味なんてなかったけれど、死ぬ意味も見つけられず、俺は仕方なく出勤を続けた。生徒も教職員も、誰も俺の変化になど気づかなかった。俺はただ最低限の仕事をこなした。それは傍から見れば真面目に仕事をしているように見えただろうけど、もうそれは真面目ではなかった。俺は真面目を演じることすら出来なくなった。今の俺は抜け殻だ。辛うじて自我の残った抜け殻だ。だから真似事を繰り返す。以前の真似事を、縋りつくように繰り返す――。
――あの人と再会したのは、おそらく神様というやつが最後にくれた奇跡かなんかだったのだろうと思う。俺は無神論者だけれど。
休日だった。俺は自室にいたけれど、天井が低くなっているような錯覚に圧迫され、部屋を飛び出し、特にどこに行く当てもなく適当に街中を歩いていた。ポケットの中の財布の中には、あのカードがあった。俺は自然とそこら中にあるゴミ箱に目を逸らしていた。捨てられない自分を直視するのが、すでに耐えられなかった。
ただでさえ悪い空模様がさらに悪化し、黒に近い灰色の雲が頭上を覆い隠しているのを見て、俺は踵を返そうとした。そのとき、急に向かって右側の方から声をかけられた。
「お前――もしかしてマルイか?」
とっさに声がした方に目を向けると、そこには一見初老くらいの年齢に見える男が立っていた。ぶかぶかと紺色のポロシャツを着て、ゴムのズボンと紐のほつれたサンダルを履いていた。頭頂部まで生え際が後退した白髪頭に、薄汚い無精ひげ。ホームレスというほどの不潔さはないけれど、隣に来たら必ず距離を置くくらいには小汚い男だった。
「――誰、ですか?」
ピンと来ずに訊ねると、男はひとり頬を緩ませた。
「そりゃわかんねえよな。――コンドウだよ」
すぐには反応できなかった。俺の脳みそは一瞬すべての動きを止めた。コンドウという名前を理解するのにも、相当の時間を要した。それほどの衝撃が、俺の中に駆け抜けた。
「コン、ドウ? コンドウ先生? 中学のときの? 本当に?」
「そうそう、見る影もないだろうけどさ」
黄ばんだ歯を覗かせて笑うその男をよくよく見てみれば、確かにコンドウ先生の面影があった。そう思うと、ますます記憶の中のコンドウ先生の姿と重なっていって、目の前の男を完全にコンドウ先生と認識できるようになった。
「コンドウ先生が、どうしてこんなところに――」
俺はどう反応するべきかとっさに判断できずに、気の抜けた声を出した。コンドウ先生は薄い白髪頭を撫でながら言った。
「ちょっと今の仕事の都合でね。こっちに引っ越してきたんだ。マルイは前々からこっちに住んでるのか?」
俺は頷いた。
「はい、その、この近くの学校で、教師をやっていて――」
「お前、教師になったのか」
俺が教師だと知ったコンドウ先生の反応は――どうもぱっとしなかった。喜んでいる風ではなかったが、残念がっている風でもなかった。ただ穏やかに笑っていた。
「――あの、少しお話しませんか? 久しぶりに会ったんですし」
そう俺は提案していた。つい口から出ていた。本当は――素直に喜ぶことはできなかった。話したくない気持ちもあった。会いたくなかったとすら思った。さっきなら間に合ったかもしれない。すぐさま別れて、会ったことも忘れてしまえば良かったかもしれない。あるいは、コンドウ先生の呼びかけを無視すれば良かったのかもしれない。それでも俺は自分から話したいと言ってしまった。俺は何を考えているのだろう。何がしたいのだろう。この人と話してどうしたいのだろう。俺は判然としないまま、コンドウ先生を見つめた。
コンドウ先生は、数秒後にゆっくり頷いた。
「いいよ、大した話はできないだろうけど」
俺とコンドウ先生は近場の喫茶店に入った。他に客のいないがらんとした店だった。
それぞれコーヒーを頼んで、来るのを待った。テーブルの上にコーヒーカップが二つ置かれ、店員が離れていくのを見届けてから、コンドウ先生が口を開いた。
「――すまなかったな」
「え?」
「本当にすまなかった」
そう言うと、コンドウ先生は頭を下げ、丸出しの額をテーブルに擦りつけた。
「ど、どうしたんですか、急に」
俺は動揺して、一瞬立ち上がりそうになった。
「俺はお前を裏切ったな、マルイ」
コンドウ先生は額をテーブルに当てたまま言葉を続けた。
「そんな、裏切ってなんて、裏切って、なんて――」
声が詰まった。脳裏に、あの空き教室での出来事が映し出されていた。
「――それを言うなら、俺だって裏切りましたよ」
「マルイが? 何を?」
コンドウ先生は飛び上がるように顔を上げた。俺はコンドウ先生の顔から目を逸らすように、コーヒーの水面に浮かぶ自分の陰気な顔を漠然と眺めた。
コンドウ先生はしばらく神妙な顔つきで俺を見つめたのち、また微笑んだ。
「言いたくないんだろ? 言わなくていい。俺だって言いたくないしさ。あのときのことは。話し相手がマルイでもさ、言えないんだよ。情けない話だよな」
自嘲気味の笑い声を上げるコンドウ先生に、俺は首を横に振った。
「いえ、構いません。正直なところ、聞きたくもありません」
俺はそこで、ようやく自分の顔に笑みが浮かんだことに気づいた。
「そうか、そうだな。当たり前だな。おっさんの色恋話なんてな」
今度は大声ではきはき笑うコンドウ先生に、もう自嘲の気配はなかった。
「コンドウ先生は、今何をなされてるんですか?」
コンドウ先生の笑い声が止む頃にそう訊いたのは、たぶん純粋な好奇心の類だっただろうと思う。コンドウ先生は何の戸惑いも示していないようだった。
「教師やめたあと、親戚やら友人やらの伝手を頼って、どうにかどうにか生き延びてたんだけどね、最近は放り出されてフリーターの真似事みたいなことしてる。先日俺の大学時代の先輩から連絡があってさ、その人、小さな会社を経営してるんだけども、そこの掃除として雇ってくれるって言うんでさ、それでここに引っ越してきたんだ」
あっけらかんとコンドウ先生は語った。そこには何の辛さも惨めさも感じられなかった。
「――先生、元気でやってるんですね」
「おう、元気元気。むしろ教師やめた後の方が調子いいくらいだよ」
コンドウ先生はふとどこか遠くを見るような目をした。口は笑ったまま。
「今から思うと、俺は教師に向いてなかったんだろうなあ」
「でも、少なくとも俺は救われましたよ」
とっさにそう言っていた。それは俺の素直な気持ちだった。
「そんな風に言ってくれるのは有り難いけどね。でもね、こんなことマルイに話しても仕方ないけど――俺は演じようとしていただけなんだ」
「演じようと?」
「そうそう、学校って舞台で教師役をやりたかっただけなんだよ、俺は。だから大袈裟に教師役アピールするために不登校のお前を無理やり引っ張り出したんだ。俺はマルイのためにあんなことしたんじゃない。自分の役のためにああしたんだ。でも結局その役も全うできずに舞台から降ろされた。元から素質がなかったんだろうな」
軽い口調のコンドウ先生の言葉に、俺は何も返答することができなかった。それは俺にも覚えがあった。覚えがあり過ぎた。俺はコンドウ先生の言葉に、ただ耳を傾けた。
「俺が教師をやめるのは必然だったんだよ、マルイ。幻滅したか?」
しばらく逡巡したあと、俺は首を横に振った。
「いいえ、ただ――」
これだけは聞いておきたいと思った。
「後悔はしてないんですか?」
その後悔という単語が何にかかっているものなのかは、自分でもよくわからなかった。教師をやめたことなのか、演じるために教師をやっていたことなのか、俺を助けたことなのか、あるいは全部か。しかし、この質問に大した意味がないことも、同時に何となく悟っていた。
コンドウ先生は悩んでいる風ではなく、もったいつけているように、ゆっくり返事した。
「してないよ、まったく。むしろ良かったと思ってる。俺は知れたんだ。自分に馬鹿さ加減に、演技の下手さ、そして俺ですら俺じゃないってことにさ。俺は教師をやめたおかげで、大きな荷物を下ろすことができたんだよ。俺の残りの人生は気楽そのものだ。俺はクズだけど、クズになってみればクズなりの幸せってものがあるんだよ」
コンドウ先生の話は抽象的だったけれど、それは俺の心にぼとんと落ちて、川に石を落としたときのように、ひと際激しい波紋を波立たせた。
コンドウ先生は笑っていた。ひどく幸せそうに。コンドウ先生の瞳孔は、見たこともないように澄んだ黒色をしていた。全身が小汚いのに、そこだけ切り取ったように美しかった。僕はそんなコンドウ先生を、眩しそうに目を細めながら眺めていた。
その後は当たり障りのない世間話をして過ごした。俺は久しぶりに口を開けて笑ったと思う。俺が笑ったとき、心なしかコンドウ先生も嬉しそうだった。
夕方五時くらいになって、俺とコンドウ先生は会計を済ませて店を出た。
「もう帰るわ」とコンドウ先生は言った。「さようなら」と俺は返した。
コンドウ先生は別れの挨拶代わりに片手を上げながら、去っていった。俺はその後ろ姿が見えなくなるまで、喫茶店の前で立ち尽くしていた。
コンドウ先生は自身の連絡先を俺に教えなかった。俺もわざわざ訊こうとはしなかった。もう会わないのなら、それはそれで良いと思った。どうせ本当は会うはずもない関係性だったのだから。
俺は喫茶店の前から歩き出して、少し行ったところで足を止めた。
左ポケットから財布を取り出して、さらにそこからあのカードを取り出した。しばらく睨みつけていたけれど、俺の心境にはようやく決心というものが芽生えたようだった。
半歩ほど踵を返し、人気のない路地裏にそっと忍び込むように入った。誰の気配もないことを確かめてから、反対側の右ポケットから携帯電話を取り出して、ぽちぽちとカードに書かれている電話番号を入力し、発信ボタンを押して、それを耳にくっつけた。
三回ほどコールが鳴らされて、がちゃりと繋がる音がした。
「はい、裏アダルトビデオメーカークズ箱、受付のヤモトです」
それはあまり覇気のない中年女性の声だった。
俺は小さく息を吸い込んでから、電話の向こうに言った。
「あの、先日会員カードをいただいたマルイという者ですが――」
建物と建物の間に電線が見える。その上には、数羽のカラスが止まっている。それが風に吹かれ、一斉に羽を広げて飛び立つ様を見つめながら、俺は自分の頬の緩みに手を当てた。
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