ナカムラコウジ その5
それなりに頑張って勉強し、遠方の大学に合格した。僕は少ない荷物をまとめ、家を飛び出した。両親は何度か止めようとしてきたけれど、なんだかんだで振り切った。
一人暮らしを始めたその日から、僕は高校生のときにアルバイトをして溜めていた金をはたいて、写真用のカメラとビデオカメラをそれぞれ一つずつ買った。古い型だったけれど、手に馴染むカメラを選んだ。
大学のサークルは真っ先に映画研究会と名乗るところに入った。社長――イチノセと出会ったのは、その頃だった。イチノセは同じ学部の学生だった。といっても、講義室や研究室で会話を交わしたことはない。イチノセと初めて話したのは、大学キャンパスの敷地内の隅の方にあった、小さな自然公園のようなスペースでのことだった。
「何を撮ってるの?」
そう声をかけられた。そのとき僕は、そこで何となくカメラを回し、風に揺れる雑草や、合間を飛んでいく小虫を撮影していた。カメラから目を外して振り返ると、木陰にプーさんのパチモンのようなキャラクターが描かれたTシャツを着た、妙な男が立っていた。
「誰ですか?」
とっさに訊ねると、男は一瞬目を丸くした後に、急にげらげらと大声で笑った。
「一応同じ学部の人間なんだけど」
「すいません、人の名前憶えるの苦手で」
「まあそんなもんだね。君、ナカムラくんだよね?」
「そうですけど」
「僕はイチノセ。ナカムラくんはカメラ好きなの?」
男――イチノセは僕が戸惑っているのも無視して問いかけてきた。
「あーうん、好きだけど」
「それで、なに撮ってるの?」
「別に。ただそこらへんの草とかを」
僕のしょうもない答えに、イチノセはなぜか満足げな顔で頷いた。
「いいねいいね。何か面白いもの撮ったら教えてよ」
そう言い残すと、イチノセはさっさとその場から去っていった。僕は彼の姿が消えてから一瞬だけ首を傾げ、再びカメラへと視線を戻した。これがイチノセとの出会いだった。
それから度々イチノセは僕に話しかけてくるようになった。講義に出席しているとき、食堂で弁当を食べているとき、図書館でレポートの資料を漁っているとき――イチノセはまるで旧知の知り合いであるかのように、僕に気軽な調子で声をかけてきた。初めは面倒くさかったり気味が悪かったりしたけれど、そのうちだんだんと警戒心が薄れてきて、いつの間にか親近感のような感情を抱くようになっていた。イチノセのどこか胡散臭い言動や雰囲気には、懐の鍵を緩くしてしまうような感じがあった。特に僕はそれに抵抗することもなく、気づけば携帯電話の番号やメールアドレスを交換し、たまに一緒に大学から帰ったりするようになり、僕はイチノセといわゆる友人と呼称される関係性になっていた。そんな存在ができるのは小学生の頃から数えても初めてのことで、僕は多少なりとも舞い上がっていたと思う。少なくとも、イチノセと並んで歩くことに悪い気はしていなかった。
初めての友人ができた影響か、それとも単に今までカメラを取り上げられていた反動か、趣味の撮影にも勢が出た。所属したサークルの映画研究会でも、何度かカメラの技術を他の部員に褒めてもらった。その年にサークル一同で撮った自主制作映画は、文化祭で上映されるとそれなりの評価を得られた。面白かったぞ、とイチノセも笑っていた。
充実していた、と言えるのだろう。少なくとも、この頃が僕の人生において数少ない幸福な時期であったことは疑うまでもない。
僕が大学をやめたのは、二年の夏休み前のことだ。その年も、夏休み後の文化祭のために、自主制作映画を作る企画が立てられ、毎日のようにサークルの部室で会議が開かれていた。僕は特に意見も出さず、愛用のカメラの手入ればかりしていた。主に案を出していたのは三年生の部長とナガミネさんというその年入学した一年生の女性部員で、合間にマエカワさんという部長と同じ学部の三年生の女性部員が茶々やツッコミを入れるような形で、会議は進行していた。会議中は何の問題もなかった。ナガミネさんとマエカワさんが何となく反りが合っていないのは感じていたけれど、そんなことはよくあることだと思っていた。
ある日の会議終わり、一人で帰路を歩いている途中、ふと弁当の空き箱をサークルの部室に置いてきたことを思い出した。明日でも良かったのだが、そのときは考えなしに引き返していた。
部室の近くまで来ると、その中から妙な声が聞こえてくることに気づいた。男女の声だ。何か苦しんでいるような声だった。僕は奇妙に思いつつも、無意識にカメラを起動していた。
そっと部室のドアを開けて中を確認すると、机の上に乗っている部長とナガミネさんの姿が見えた。部長とナガミネさんは、机の上で全裸になって身体を重ね合わせていた。ナガミネさんが下、部長が上になって。部長が打ち付けるように腰を振り下ろすたび、ナガミネさんの身体は死にかけの魚みたいに跳ね上がった。表情はわからなかったけれど、二人とも無我夢中で行為に耽っているようだった。
僕はその様子を撮影した。意味も理由もなかった。ただ僕が思ったのは、「撮ったことのない画が撮れた」ということだけだった。二人が絶頂を遂げるまでをカメラに収めると、僕は気づかれないようにドアを閉じ、こそこそと逃げるように帰った。本来の目的であったはずの弁当箱のことはすっかり忘れていた。
それから二日後、部室で殴り合いの喧嘩が発生した。その日のマエカワさんはえらく機嫌が悪く、ナガミネさんへの当たりが露骨に強かった。ナガミネさんも段々と腹が立ってきたようで、徐々に声を荒げていった。それはそのうち怒鳴り声に近いものになり、しまいにはお互いに罵詈雑言を投げかけるような調子になった。さすがにまずいと思ったらしい部長が止めに入ったが、マエカワさんがそんな部長を吊り上げた目で睨みつけた。
「あんた、この女と浮気してるんでしょ? もう知ってんのよ、こっちは」
部長の顔色があからさまに蒼褪めるのがわかった。ナガミネさんは驚いた素振りもなく、堂々とした態度でマエカワさんを睨み返していた。それからマエカワさんは部長を詰問し、たまにナガミネさんの方を向いては「どうやって誑かしたの?」とか「どういう品性してるの?」とかそんな問いを投げかけた。ナガミネさんは何も答えず、口を真一文字に結んでマエカワさんを見つめ続けるばかりだった。他の部員たちがどうしたものかとおろおろしたりひそひそと話し合ったりしている中、僕はばれないように静かにカメラを起動して、その様子も撮影していた。それもまた「珍しい画が撮れる」という期待感から来るものだった。
しどろもどろの回答を繰り返す部長にも苛立っただろうが、それ以上にずっと無言であるナガミネさんに痺れを切らしたらしく、マエカワさんはまさに鬼のような形相でナガミネさんに飛び掛かった。するとこれまで沈黙を貫いていたナガミネさんが急に猫の威嚇のような甲高い声を上げ、マエカワさんと取っ組み合いを始めた。ごろごろと転げ回る二人を、部長も他の部員たちも必死に止めようとしていた。僕はそんな彼らから一歩下がり、撮影を続行した。二人がようやく落ち着いたのは、五分ほど経ってからだった。
マエカワさんとナガミネさんはお互いどころか部長とも顔を合わせようとしなかった。部長はこの世の終わりを一人で味わったかのような疲弊した表情を浮かべていた。その日はそれでお開きとなった。その翌日、映画研究会は解散した。
事情はよく知らないが、大方部長とマエカワさんが交際していたのだろう。あまり興味もなかったので、誰かに話を聞いたりはしなかったが。それで部長がナガミネさんと浮気してしまったことが何らかの理由でマエカワさんにばれたのだろうと思う。まああの三人の関係なんかどうでもよかった。問題なのは、大学で公然とカメラを使用できる居場所を失ってしまったということだった。他のサークルに入ろうにも、どこもカメラとは無関係だった。たぶん、そこでぷつんと何かの糸が切れてしまったのだと思う。一気に大学に通う気が失せた。元々学問にも興味はなかったし、撮れるものは粗方撮ってしまった。大学という場所にこれ以上行くメリットを見出せなかった。大学からの連絡も鬱陶しいから、退学届を出して大学をやめた。
その晩、イチノセが家に来た。住所はまだ教えていないはずだった。
「よお、ナカムラ。お前、大学やめたんだって?」
イチノセは普段通りにこにこ笑いながら、片手には発泡酒の缶が何本か入ったコンビニのビニール袋を引っ提げていた。
「ちょっとお前の部屋で酒飲ませてくれよ。もちろんお前も飲んでいいから」
僕は少し逡巡したが、頑なに拒む理由も思いつかず、結局招き入れた。
イチノセはまるで自宅であるかのように遠慮なく踏みこんできた。「そのへんに座っていい」と許可を出すと、適当な場所に座ってビニール袋から出した発泡酒を飲み始めた。イチノセの対面に座り、発泡酒をもらって僕も飲み始めた。不味い酒だった。
「そんで、何でやめたの?」
イチノセの直球の問いかけに、僕は柄にもなく答えるのを躊躇してしまった。イチノセは急かす様子もなく、僕が何か言葉を発するのを待っていた。
「――サークルがなくなった」
結局、僕は話した。イチノセに隠し事をできる気があまりしなかったし、隠し事にする必要性もなかった。酒の勢いもあったせいだろうか、僕の話はサークルでの出来事だけではなく、もっと昔のことにまで伸びた。物心ついた頃からカメラが好きなことや、人が死ぬ瞬間を撮ったせいでそのカメラを取り上げられたことまで不用意に喋っていた。何度も頭の中で整理した物語のように、言葉はすらすらと出てきた。僕が話している間、イチノセは茶々も相槌も入れることはなく、珍しく神妙な顔つきで耳を傾けていた。
僕が一通り話し終えると、イチノセは大仰に頷いた。
「うん、聞けてよかった」
イチノセは再び笑顔に戻り、満足そうに缶を呷った。
「――そういやイチノセ、前に面白いもの撮ったら見せてくれって言ってなかったっけ?」
僕がそう言ったのは、たぶんあの映像を誰かに見せたかったというのもあるのだけれど、イチノセへの感謝の気持ちもあった。イチノセに丸ごと話した僕は、長年の垢を削ぎ落したような開放感に包まれていた。それに対する些細なお礼をしたかった。
「お、なんか見せてくれるのか?」
「イチノセにとって面白いものかどうかはわからないけどさ」
僕はカメラを持ってきて、あの部長とナガミネさんがセックスしている映像と、マエカワさんとナガミネさんが揉み合いをしている映像を、イチノセに見せた。
イチノセは興味津々といった様子で、至って真剣そうに映像を観ていた。そして最後まで観終わると、興奮したように鼻息を荒くした。
「やっぱお前すごいよ」
「何が?」
「こんなものが撮れることが」
「いや、だってそれは起こったことをそのまんま撮っただけだよ」
「そういうことじゃなくてさ、お前やっぱ才能あるよ」
イチノセの瞳は、珍しい虫を捕まえることに成功した子どものように爛々と輝いていた。僕はその真意がわからず、内心首を捻っていた。
その後ほどなくして、イチノセは空になった発泡酒の缶を回収し、何事もなかったようにあっさりと帰った。帰り際、「今度はもっと良い土産を持ってくるよ」と言った。
それから約三年間、イチノセが訪ねてくることはなかった。電話なんかもかかってこなかった。一応電話番号などは知っていたけれど、用事もないのにかけるのは気が引けた。そうやってずるずるとイチノセと顔も合わせないまま月日が過ぎた。
僕はといえば、アルバイトを始めたりやめたりを繰り返して最低限の生活費を稼ぎながら、ぱっとしない日々を送っていた。相変わらずカメラを携えて外出し、撮影をしていたが、目ぼしいものは撮れなかった。つまらなくて仕方なかった。退屈に押し潰れそうになるたびに、あのサークル解散騒動の映像を観た。するといつも少しばかり心が安らいだ。またこんな映像を撮りたいと思った。しかし出かけていくたびに、思ったようなものが撮れず、落胆と失望で残り時間を無為に過ごした。このまま死んでしまおうかと漠然と考え始めていた。その頃になって、イチノセが訪ねてきた。
三年越しのイチノセは、何も変わっていなかった。街中で目立ちそうなダサい服装も。
イチノセの隣には、見知らぬ青年が一人立っていた。初対面のひと前だというのに、なぜか知恵の輪をやっていた。
「この人は僕の後輩のサクラダくん。まあある意味ではお前の後輩でもあるんだけど」
「どうも」
サクラダくんは知恵の輪を弄る手を止めないまま、軽く会釈した。反射的に僕も返した。
僕は今まで連絡の一つもなかったのに、急にこんなわけのわからない人物を連れてイチノセが現れたことに少なからず困惑していた。イチノセは僕のそんな様子を察したか、落ち着かせようとするような笑みを浮かべながら言った。
「心配することはないよ。ちょっとお前に相談があるんだ」
「相談?」
「お前、定職にはついてるか?」
僕は首を横に振った。
「じゃあ生活費はバイトで?」
「まあ、そうだけど」
「定職につく気はないか」
「そりゃ、カメラを扱える仕事なら――」
もっとも、本当にちゃんとカメラを扱える仕事は、僕みたいな中途半端なやつは受け付けないだろうけれど、と心の中で付け足した。
それを聞いてイチノセは大きく頷くと、姿勢を低くし、いつになく真剣な面持ちで言った。
「ナカムラ、お前、クズになる気はないか?」
これがすべての始まりだった。
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