Chill

食事を終えて、2人で学習室へと向かう。

現金なもので、午前中あれだけあった落ち着かない気持ちはいつしか綺麗に無くなっていた。

隣同士、椅子に腰掛ける。

ただ隣に恋人がいる、ただそれだけの事なのに、僕は不思議と落ち着いて勉強に取り掛かれそうな気分になっていた。


理数系は明日相川先生に聞くことにして、世界史の勉強を進める。

深く掘り下げる日本史と違い、世界史は浅く広く触る、と教師には言われた。どっちがマシか。そんな消極的な理由で世界史を選択した訳だが、いかんせん覚える量が多い。

ここで重要になるのが、流れを掴んで置くこと、そしてその頃他の国では何があったか、を覚えておくといいとのこと。それを聞いてから覚えるのが随分と楽になった。


ノートに出来事をカリカリと書き進めていく。

あっという間に1ページが埋まっていき、なんだか楽しくなっているのを感じた。


午前の調子の悪さが嘘のようにペンが進んでいく。気づけば2時間ほど経っていた。一旦休憩を挟むのもいいかもしれない。

背もたれに体重をかけて、ぐっと伸びをすると、背中からぽきぽきと音が鳴った。


「ちょっと休憩するけど、瑞希はどうする?」

そう問いかけると、瑞希はノートに目を移して、「この1問、解いたら」と答えた。

了解、と伝えて、瑞希の手元を見た。

数学、いや物理のようだ。問題は僕にはちんぷんかんぷんで、おとなしく頬杖をついて瑞希を眺める仕事に移ることにした。


青みがかった目はいつもより少し細められていて、普段以上にクールな印象を受ける。さらさらとした髪は勉強するには少し邪魔なようで、飾り気のないヘアピンで目からよけられていた。テキストとノートを行ったりきたりするたびに、セミロングの髪が揺れる。


おとといあんなことがあったにも関わらず、僕は瑞希の頭を撫でたい衝動に駆られていた。

さすがに人の目がある中でイチャつく訳にはいかない、と必死に自分を律する。

いつの間にやら1問を解き終えていたらしい瑞希がノートをぱたん、と閉じる音で正気に戻った。

「休憩、いこ」

「…ああ、行こうか」

劣情を飲み込んで、僕達は立ち上がった。


ーーー


「ちょっと休憩するけど、瑞希はどうする?」

そう聞かれて、私ははじめて時計を見た。

14時、半。どうやら2時間ほど続けて集中していたようだ。

今解いている問題を解けば、キリがいいところ。この感じなら、そんなに時間をかけることなく解ききることが出来るだろう。


「この1問、解いたら」

「了解」


そう言うと葵は頬杖をついて、問題に目を通していた。私は視線を戻して、カリカリと解き進めていく。

午前中あれだけ考えても解けなかった証明問題が、するすると解けていく。


隣に葵がいるだけでこんなに集中できるのなら、ずっと隣にいて欲しいな、なんて。


これではプロポーズの言葉みたいだ。

いっぱい甘えたいし、よしよしってされたい。そんな気持ちが心の中で疼いてはいるけれど、この前それで失敗しているばかりだから、私は必死にすまし顔で問題を解いていく。おすまし、おすまし。

今日ばかりは、私の表情筋に感謝だ。後でむにむにといたわってやろう。


残り3分の1位にまで進めたところで、葵が問題ではなく、私の顔をじっと見つめていることに気がついた。

それはだんだんと熱を帯びた視線へと変わっていき、私の心をどんどん沸騰させていく。

身体を預けたくなる衝動に必死に抗い、視線には気付かないふりをして、問題を解き進めていく。


今甘えてしまったら、今度こそダメになっちゃう。甘えるのならおとといの出来事を謝ってから。

じゃないと、甘えるに甘えられない。


どうにか問題を解き終え、ノートを閉じて言葉にする。

「休憩、いこ」

「…ああ、行こうか」


そのすこし残念そうな、でもそれを隠したような声は、さすがにずるい。

手をつなぐくらいは許されるだろうかとか、ちょっと考えていると、いつもよりもほんの少しだけ強く手をにぎられた。


そんな彼氏の目をちらりと見ると、視線はこちらには向けず、少し赤い顔が正面を見据えていた。


スイッチのオンオフを切り替えているだけ、と私は弱い私自身に言い訳を並べ立てて、大人しく繋がれた右手の感触を味わうのだった。


…自分のためにも、腰を落ち着かせたら、必ず謝らないと。

誰に、何を謝るのか、わからないまま、私は葵の腕に引かれてゆく。

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