0. Everyday event
Prologue
傘を持ってくればよかった。
教室の窓から見える土砂降りに鬱々としながら、私は放課後までに雨が止んでくれないかなとか、天気予報もうすこししっかり見ておけばよかったなとか、折りたたみ傘のひとつでも鞄にいれておけばよかったなとか、そんなしょうもないことばかりを考えながらお昼ごはんを食べていた。
「雨、やむといいな」
その呟きは誰に聞こえるわけでもなく、そっと空気に溶けていく。
ちょっと寂しくなった気持ちになった時に。
「瑞希」
そう名前を呼ばれて私は声の元に顔を向けた。
優しくて暖かい声。細身ですらりとした体格。
私のクラスメート、そして、彼氏。
結城葵が私の前に立っていた。
---
「お待たせ。お昼食べよう、瑞希」
授業中、分からないことがあったため教師に質問していたため、昼休みを少し消費してしまった。
もうお弁当をつついていた一ノ瀬瑞希に声をかけ、僕もお弁当を広げた。
クラスの喧騒をバックにのんびりと食べるお昼。
彼女とはほとんど会話を交わさないが、のんびりと過ぎる時間を一緒に過ごすのが僕のお気に入りなのだ。
「だし巻き、ほしい」
「唐揚げと交換で」
「ん」
唐揚げと一緒にプチトマトも飛んできた。
見た目通りというかなんというか、瑞希はぼちぼち好き嫌いがある。本人いわく、普通のトマトは大丈夫なのだそうだ。その差が一体なんなのかは僕には分からないが、そういうものらしい。
「葵」
「どしたの」
「傘ある?」
「あるよ」
「葵」
「どしたの」
「デート、しよ?」
「傘忘れた?」
図星のようで、こっくりと、ちょっと赤い顔で頷く瑞希。
もうかわいくてたまらない。
「おっけー。デートしよう」
また、こっくり。どことなく嬉しそうで、思わず僕も嬉しくなる。
「ごちそうさまでした。じゃあ瑞希、また放課後ね」
「葵」
こくこく、ふりふり。
また後でね、ばいばい。
手を振ってるだけなんだけど、なんだかそう言ってる気がして、僕はにやけ顔を悟られないように自分の席へと歩いた。
-起立、礼。
授業が終わっても、雨は降り続いていた。
「葵ー、今日は暇?暇なら遊ぼうぜ」
「ごめん、今日は先約があるんだ」
「姫?」
「そう。傘忘れたみたいで」
「なるほどね。んじゃま、今日は大人しく退散するわ」
雨だしな、と内村雅也は言葉を残して帰っていった。
その直後に、入れ替わるように瑞希がやってきた。雅也との会話が終わるのを待っていたのかもしれない。
「帰ろ」
「おっけー」
校門を出て、相合傘をしたあたりで、今日はノープランであることを思い出した。
「どこか行きたいところはある?」
「…甘いもの、食べたいかも」
スイーツというものにあまり明るくない僕だが、前ぶらりと外を出歩いたときに気になったお店があったのを思い出した。
「前、ちょっと気になったお店があるんだ。行ったことのない店だから、瑞希さえ良ければ行きたい」
「葵チョイスのお店は久しぶり。そこに、しよ?」
ゆるりと指を絡めて、ゆっくり歩く。
僕も瑞希もあんまり口数の多い方ではないから、雨の音がよく聞こえる。
普段は面倒でしかない雨だけど、これはこれで風情があって良いなとか、そんなことを考えながらのんびりと歩くのだ。
雨の中をゆっくりと歩く。
歩幅を合わせて、絡めた手は優しく。
左隣にいる彼女には雨が当たらないように、気持ち傘を傾けて歩いた。
ふと、視線を感じて瑞希に目を向けると、少しじとりとした目でむくれていることに気がついた。
「どしたの、瑞希」
「肩、濡れてる」
僕はもう少しだけ、傘を彼女の方に傾けると、瑞希はふるふる、と否定の意を示す。
「葵の肩、濡れてる。風邪ひいたら、駄目」
「でも、瑞希が濡れるのは、もっと嫌だ」
そう伝えると、瑞希は嬉しいような、でも悲しいような、はたまた恥ずかしいような、複雑な表情を浮かべた。
そして、絡めた手が外された。
機嫌を損ねてしまったか。僕は少し寂しくなった。
すると、彼女は突然僕の腕の中にすっぽりと収まるように抱きついてきたのだ。
「これで、2人とも、濡れない」
とてもいい案だと思う。ただ1つ、とてつもないバカップルみたいな感じがして恥ずかしいことを除いて。
どうやらそれは瑞希も同じだったようで、顔を真っ赤にしながら、それでも先程とは打って変わって嬉しそうな表情になった。
そんな顔をされたら、恥ずかしいから辞めよう、なんて言えるほど僕は枯れてはいないのだ。
それはそれとして。
あまりにも近い彼女との距離やふわりと香る甘い匂いに僕の心臓は早鐘を打っていることを悟られないように僕は必死だったし、うつむいてる瑞希の顔が燃えるように赤かったのを見てしまって、僕はどうにかなりそうで、雨の音なんて途中から全く聞こえなくなってしまった。
嬉し恥ずかしな雨道は、お目当ての店にたどり着いたことで終わりを告げた。
するりと抜け出した瑞希はどこか物足りなさそうな顔を浮かべていたことには見ないふりをしつつ、傘に付いている雨粒を払ってお店の中に入った。
「いらっしゃいませー。2名様ですか?」
「はい」
「お席ご案内致します。こちらへどうぞー」
軽く周りを見渡してみると、どうやらそこそこ繁盛しているようだ。
テーブル席は埋まっていたため、僕らはカウンター席に隣り合わせで座ることになった。
どうやら夜はちょっとしたお酒なんかも出すバーになっているのか、上の棚にはお酒の空瓶なんかが飾ってあって、結構お洒落な気がする。
細長いメニューを開いて、僕は瑞希にこう聞いた。
「どれにする?」
「ちょっと、迷ってる。ミルフィーユにするか、それともアップルパイにするか」
「僕アップルパイ食べたいな。瑞希、半分こしない?」
ぱあっと、瑞希の雰囲気が華やいだ気がした。
こくこくこくと、いつもよりリアクションが大きい。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「紅茶。えらんで?」
前に母親が、甘いお菓子にはやっぱりセイロンよ、と言っていたのをふと思い出した。
「セイロンがいいんじゃないかな」
「それにする。葵は?」
「コーヒーにしようかな。すみません」
ほとなくやってきた店員さんに注文をして、僕はふ、と息をついた。
「葵、つかれた?」
「やっぱり雨だとね。水たまりとか踏まないようにとか考えると、普段使わない神経使ってる気がして」
でも、こうやって一緒に帰って、一緒に甘い物を食べられる。そう考えると、案外雨も悪くないのかもしれない。
今度、わざと傘を忘れてみようか…。
「お待たせしました。ミルフィーユとセイロンティーのセット、アップルパイとコーヒーのセットになります。お後、こちらはサービスのクッキーです、ごゆっくりどうぞ」
注文したものと一緒にクッキーがくっついてきて、僕たちが首をかしげていると、店員さんは、雨の日なので、とにこりと笑って去っていった。
「雨の日も、意外と悪くない」
思わず呟いた僕に、瑞希はこくこくと、同意の意を示した。
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