第6話 古都哀惜 

 父も祖父もそうであったように、私も、京都が好きだ。

 ただ最近は、あまりにも観光化されてしまったところが多すぎるのが残念である。

 拝観料の高さも、仕方ないこととはいえ、なんとかならないものかと思う。「なんとなく和風で古都っぽい」ものを扱う全国チェーンのお店ばかりが増えているのも嘆かわしい。もっとも、それほど詳しい訳ではないから、偉そうなことは言えないのであるが。

 観光化されたとはいえ、やはりそこは京都である。お寺や神社が当たり前のように風景に溶け込み、近代化されたばかりの頃に建てられた建築物がそこここに現れる。

 私が初めて京都を訪れたのは、一歳の頃のことらしい。何度か父の文章に描かれている宗派の本山の智積院、当時そこにいた父を、母と訪ねたのだという。全く記憶にないが、若き父と母とともに、赤ちゃんの私が写る写真が残っている。


 

 「六月や峰に雲おく嵐山」

 私は、この句を見聞きするたびに、十余年まえの初夏の日々を想う。若き人々は、多分「ろくがつや…」と読むかもしれぬが。

 京都が盆地であることは、甲府あたりとならんで、知らぬ人はあるまい。

 俳句の季題に<薄暑>というのがあるが、それは、この頃の盆地にはぴったりの字句のような気がする。

 「関東のお人は、らんざん、いわはりますが、やはりうちらは、あらしやま、いいますねん…」という言葉を聞いたようにも覚えているが、ふたしかである。

 京福電鉄の嵐山線が発着する四条大宮までは、大丸百貨店や新京極の通りを横目に見ながら、よく河原町あたりから歩いたものだった。

 電車の窓からは、美しい街並みや松や新緑の青さがずっと続いていて、その梢につらなる大空は、いつも澄んだ大気にうちふるえていたのかもしれない。

 京都の東山七条に、学山としての伝統を誇る真言宗智山派総本山智積院は、五百仏頂山根来寺と号し、日本全国に三千ヶ寺の末寺を有する屈指の大寺院であって、盛時には千数百人の学侶が集い、仏教的な総合大学を形成していたことが知られる。

 今は、全国に仏教系の大学がいくつかあって、近代的な校舎の中で、幅広い教育が施されて、寺院はその役目を負っていないかのようにもみえる。

 だが、この総本山の中に、宗立の智山専修学院という小さな教育機関があって、一年間と二年間の二つのクラスに、常時幾人かが在学し、専門的な教育を受けて、僧侶になる修行を積んでいることを少しは知ってほしい気がする。

 ここの学生の年齢層はまちまちで、その前歴や学歴も決して一様ではない。私が十九歳でここに学んだ日、最年長者は三十歳を遥かにこえていて、その彼は中学校の教師でもあった。また、同郷で、母校の一年後輩の池田亮惇師とは、たまたま同室で勉学した仲であったが、彼は温順優秀な学院生として、卒業の日、晴れの能化賞を得て帰省していった。今は、故郷にその人望をあつめていよう。

 学院での毎週の日曜日は、最朝の勤行がすみ、朝食についで、作務をおえると、夕方までは格別の用事が生じなければ、開放された時間を持つことが出来た。

 そんな日曜日、私はよく京都の古社寺のたたずまいや、自然のいとなみあふれるやまや野に遊んだ。

 人の足あとのない東山のうら山のみちや、それは思いもかけぬ社寺に迷い出る径つづきでもあったりして、そんなことにさえも、古都にある楽しさを味わっていたようにも思う。

 そんな社寺が、近時拝観料の名目で寺院の維持費を捻出しているのを、当然のことのように人心が感じているとすれば、少しくある寂しさを否めない。

 小さな山門のかたわらに目立たぬほどの小箱を置いて、何気なく浄財の喜捨を求めていた尼寺の、籬の低い木洩れ日の下のやさしいきりぎしは、少し滑りやすいような気がして、「あゝ、これが京都なのだ」と思う午後のひとときもあって、そんな京都を愛しつづけた父の面影を、ふと木陰にみたような気がする日もあった。

 またある日は早い入道雲が湧きおこって、すっかり夏らしくなっていたりして。桂川をこえて嵐山に踏み入る坂路は、緑陰が美しく水に映えて、保津川を下ってくる舟の櫓だけがぎいっぎいっと、樹間にこだまする。大悲閣はすぐ近くに見上げられる汗ばむような日和の中にあった。すでに花は終わり、それでも若葉のむせかえるような匂いの中に、エトランゼの心を惹きつけるであろうか。

 今は快適なドライブウェイが開通している三尾(栂尾、高尾、槇尾)も、やはり新緑の頃が好きである。

 明恵上人の伝説につらなる高山寺の見事な石だたみの雨に濡れ輝く若楓の樹下や、石水院の蔀をあげた間から望む山容は、六月の風が山すそから吹きあげて、木の葉をひるがえし、お薄に添えられた和菓子のほのかな甘みと、床にくゆる香のゆらぎは、お茶の作法も知らぬ私に、何か不思議な調和と安堵を与えてくれたことをなつかしむ今なのである。

 紅葉の人出の中に訪ねる秋よりも、雨の烟る水無月の西明寺、高山寺、神護寺の静寂がたもたれているならば、なおのこと、この季節の山の色を愛したい。

 若杉のきれいに立ちならぶ森に陽が入ると、急に泣き出したいような静寂が訪れてくるのを、知ってはいないだろうか。

 父が歩んだかもしれぬ山路を、父が辿ったかもしれぬ細径を、むやみに足を痛めながらさまよった日の額の汗は、はたして汗だけであったか。私の十代の終わりの日々のさすらいではあった。

 真言宗の行位には、加行と呼ぶ厳しい修行が規定されていて、この寺院に学んだ僧には忘れられぬ想い出であろう。

 この総本山の広大な寺域には、諸堂が配置されてたくみである。

 本堂より小高い上に大師堂あって、それは真言宗の宗祖弘法大師の尊像を祀り、なおその上に開山堂を構え、真言宗中興の祖と仰がれる興教大師を祀るのである。

 ゆるやかな石段を登りつめると古風な柔らかい屋根の線をもつ開山堂は、いつもひっそりとしずもりの中にあって、私の学院在学中は、行堂ともなったところであった。

 1日の作務と学務をおえて、夕勤行ののち、私は毎日のようにこの大師堂から開山堂へつづく石だたみをたどった。それは、そのまま私の心の迷いであったかもしれない。

 小高い開山堂の台地からおりてうら山の地蔵山に至ると、街は眼下に一望となって、東寺の塔が茜色の空の下にあった。

 六月の十七日は興教大師の降誕会である。総本山智積院の開山堂で営まれたその日の法会の私の配役は何であったろうか。

 中興の祖興教大師の御廟は、紀州の根来寺の丘に、上人四十九歳の生涯を語りつづけてしずまる。根来寺は大塔を中心に新緑の山なみが押しつつんで、いま、密厳浄土。


    昭和43年6月

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