第29節 -一歩を踏み出す勇気-
午後8時を回った頃、漁夫の砦のレストランにおける三人のディナータイムは終わりの時を迎えた。
それぞれが会話を楽しみ、料理を楽しみ、飲み物を楽しんだ。
時の流れはあっという間で、この幸福な時間が終わる事を考えると誰もが名残惜しい気持ちとなっていた。
フロリアンもこの時間がもっと長く続く事を願っていた。今まで世界中の国々を訪れて様々な人々と触れ合い、同じように食事をした事はあるが、ここまで終わりの瞬間が訪れなければ良いと思った事は無かった。
見慣れた光景となったが、目の前にコース料理最後のデザートが運ばれて来たときにマリアが輝かしい瞳でそのデザートを眺めていたのは特に印象的だった。
彼女と出会ってから何度も見た表情ではあるものの、あの一件の後において、もう一度こんなにも穏やかな気持ちで眺める事が出来たのはやはり特別な事だと思える。
会計を済ませて三人揃ってレストランの外へと出る。変わらない冬の寒気がすぐに体を包み込む。
しかし、今はとても温かい気持ちで満たされている為か不思議と寒いとは感じなかった。
「素敵な食事をありがとう、マリー、アザミさん。」
「私も楽しかったよ。こんなにも楽しいと思ったのは久しぶりだ。」フロリアンの言葉にマリアがまず返事をした。続けてアザミも返事をする。
「こちらこそ、楽しいディナーでした。お二人の良い写真もたくさん撮影できましたよ。今まで撮影したデータはお約束通り、後程まとめてお渡ししますね。」
「ありがとうございます。大切にします。」フロリアンがアザミにお礼を言う。
会話が一旦途切れると、楽しい時間が終わりに向かっている事について少しだけしんみりとした空気が流れるのが感じられた。だが、その空気をマリアが断ち切る。
「さて、しんみりするのはまだ早い。フロリアン。もうひとつ行きたい場所があるのだけれど、付き合ってくれるかな?」
「あぁ、もちろん。マリーが行くならどこへでも。」マリアの提案にフロリアンはすぐに返事をした。その返事を聞いたマリアは少し視線をずらしてはにかみながら答える。
「君に言われると、なんだか少し照れ臭くなる返事だな。」
マリアの様子を横目に、次の目的地を知っているアザミが移動を促した。
「では参りましょうか。ここからだと20分かからない時間で到着すると思います。」
アザミの言葉を合図に三人は車の方へと歩き出した。
駐車スペースに停めた車へと戻った三人は車内へ乗り込む。最後にアザミが乗り込み次の目的地へと向かって車は発進させた。
フロリアンは次に向かう場所の事が気になったが、マリアもアザミも敢えて口にしようとしなかったので聞かない事にした。
先程アザミは車でおよそ20分と言った。ブダの丘のたもとからマーチャーシュ聖堂までの距離をなぜ車で移動したのか疑問に思っていたが、次の目的地へ向かう事を前提にしていたと分かると、その点については合点がいった。
窓から見える外の景色を眺めながら現地に到着する時を待つ。
車はマーチャーシュ聖堂を離れて住宅街を走り抜けた後、ブダ城の裏を通ってさらに進んでいく。
住宅街から離れ、自然がよく見える場所へと差し掛かり、エルジェーベト橋が見えたところでフロリアンは次の目的地の見当がついた。
この先にある観光名所で真っ先に思い浮かぶのはゲッレールトの丘である。
標高235メートルのゲッレールト山の頂上から見えるブダペストの夜景は馴染みのドナウの真珠という言葉の他に一部では欧州の宝石箱と形容される程に美しい事で名高く有名だ。
ブダ城、漁夫の砦から見える夜景と並ぶ三大夜景スポットのひとつで、付近にあるルダシュ温泉とゲッレールト温泉と合わせて観光客の人気が高い。
車が先に進むにつれて、フロリアンはこれから向かう場所がゲッレールトの丘であるという確証を強く持った。
聖堂裏の駐車スペースより出発してからおよそ20分弱。入り組んだ道を抜けて山頂付近にある駐車場で車は停車した。
「到着したよ。ここから少しだけ歩こう。」そう言うとマリアは車を降りる。フロリアンも続いて降りようとしたが、降りる気が無い様子のアザミが気になった。
「わたくしは少しここに留まりますので、先にお二人で向かっていてくださいませ。」
フロリアンの反応を見て、アザミは自分の事は気にしないように伝えて先に行くよう促す。その言葉を聞いたフロリアンはマリアの後に続いて車から降りた。
外へ降りると新鮮な空気が辺り一面に満ちているのが感じられた。地上で吸う空気とはほんの少し違った趣が感じられる。僅かだが気温も低いように感じられた。
「さぁ、行くよ。」外気の寒さを一瞬で温かさで包み込むようにマリアは微笑みながら言った。彼女の言葉に微笑みを返して頷き、フロリアンは彼女の隣へ進む。
二人並んで少し歩いた先でマリアが小さめの声でふと呟いた。
「差し支えなければ、少し手を握ってもらってもいいかい?」
その言葉を聞いたフロリアンは、返事をするよりも先に彼女の右手を取り手を繋いだ。マリアは照れた表情を浮かべつつ、とても優しい笑顔を返してくれた。
改めてフロリアンとマリアは駐車場から展望スペースへと向かう。女神像のある広場まで歩いて行った先から見えた景色の美しさに二人は言葉を失った。
ブダ城や漁夫の砦から見た夜景も素晴らしいものであったが、この丘から見渡すブダペストの街並みは別格だ。
広場からはエルジェーベト橋、セーチェーニ鎖橋、マルギット橋までを一度に全て視界に捉えて眺める事が出来、三つの橋を視界に収めた右側にはブダペスト・アイと聖イシュトヴァーン大聖堂が、左側にはブダ城を見る事が出来る。さらに向こう側には国会議事堂までも見通す事が出来た。
フロリアンは夜景を眺める視線を少しだけマリアの方へと向ける。その横顔はとても美しく、目の前に広がる夜景と共にこの世で最も美しいものだとすら感じられた。
するとフロリアンの視線に気付いたのかマリアが視線を合わせる。
「どうしたんだい?夜景よりも私の横顔に見惚れていたのかな?」
マリアは国立歌劇場の時とほぼ全く同じ言葉をフロリアンへ言った。しかし、あの時のからかったような調子とは明らかに違った優しい口調だ。
フロリアンはあの時答えられなかった返事をマリアへ返す。
「あぁ、そうだよ。」
「全く、君という人は。どこまでも真っすぐなんだな。」
そう言うとマリアはフロリアンから視線を外しとても小さな声で一言付け加える。
「そういう事を言うのは、私にだけにしておくれよ。」
歌劇場の時とは違い、フロリアンは彼女の呟いた言葉をしっかりと聞き取った。敢えて返事はせずに心の中で頷いた。
「フロリアン、私は君に本当に感謝をしている。先程ブダ城でも言ったけれど、私に対して一人の人として私の事を必要だと言ってくれた人は今までアザミ以外にいなかった。こんなにも誰かと一緒に話をして、どこかへ行って同じものを見て、様々な事を共有して、それら全てがかけがえのないものだと思ったのは初めてだよ。君のその温かさは私にとってはとても心地良い。」
穏やかな口調で語るマリアの言葉にフロリアンは耳を傾けた。彼女の手が自身の手を強く握るのを感じた。その手をぎゅっと握り返す。そして心の中で思う。
叶うのならば、この温かな幸福をいつまでも。
フロリアンが心の中でそう思った時だった。後ろからカメラのシャッターを切る音が聞こえる。後ろを振り返るとそこにはアザミの姿があった。
「とても良い写真を撮る事が出来ました。」
相変わらずベールに覆われたアザミの表情を読み取る事は出来ないが、その口元から微笑んでいる事は分かった。彼女は手に大きめの包みを大事そうに抱えていた。
フロリアンがそれを確認したと同時に隣でマリアが言う。
「フロリアン、今日は私から君に贈り物を用意したんだ。」マリアはアザミから大きな包みを受け取る。そしてギフト用にデコレーションされたその大きな包みをフロリアンへと差し出した。
「一日遅れのクリスマスプレゼントだよ。」
「僕に?受け取って良いのかい?」
「もちろん、その為に用意したのだから。受け取ってもらえなかったら私は…その、悲しい。」
「ありがとう。」フロリアンはマリアが差し出したプレゼントを受け取った。大きな包みだが重量はほとんどない。
「開けても良いかい?」フロリアンが尋ねる。
「構わないよ。気に入ってもらえると良いのだけれど…」少しだけ不安そうな表情をマリアは見せる。
フロリアンは逸る気持ちを抑えつつ早速プレゼントの包みを開ける。その中には紳士用のコートが一着入っていた。
コートを広げてじっくりと眺める。どんな場面でも着ていけそうな落ち着いたチャコール色の大きいコートだ。
大きさと比べて重量はとても軽く、それでいてとても暖かそうに感じられる。
「凄い。素敵なコートだ。早速着てみても良いかな?」
マリアは静かに頷く。
プレゼントされたばかりのコートをフロリアンは着てみた。サイズもぴったりで丈も丁度良い。肌触りもとても上質な滑らかさで、予想通りとても暖かい。最高の着心地だ。
「ぴったりだ。ありがとう、マリー。凄く嬉しいよ。」心からの笑顔でマリアに感謝の言葉を伝えた。
フロリアンはコートをじっくりと眺めていると、左胸の位置にとてもささやかなワンポイントが入っている事に気が付いた。
「おや、これは…犬の足跡かい?」
「このコートは私の気持ちであると同時に、あの時の君へのお詫びでもある。そして、私のエゴかもしれないけれど…忘れて欲しくないと思ったから。」
「ありがとう。大切にするよ。ずっと。」
フロリアンには先の言葉だけでマリアが言おうとしている事は全て分かった。感じ取れた。あの出来事については自分自身もこの先ずっと大事にしていきたいと思っていた事だ。
今しがたマリアは自身の “エゴ” だと言ったが、それは違う。人として忘れてはならない事だ。
自分としてもその思いを強く持っていたので、彼女の口からも忘れないで欲しいといってもらえた事は、何も言わなくても同じ気持ちを共有できていたような気がしてとても嬉しかった。今後も同じ気持ちを共有し続けられるという事も含めて。
続けてマリアは、小さな包みをフロリアンに差し出した。
「それと、これを。」
「これは?」
とても可愛らしいラッピングが施された包みだ。
「私の手作りなんだけど、お菓子を焼いてみたんだ。」
「ありがとう、凄く嬉しいよ!」
そう言って差し出された包みを手に取ったフロリアンは早速中を開けてみる。
するとそこには信じられない程細やかで美しくデコレーションされたアイシングカップケーキがいくつか入っていた。
アイシングで描かれたものを見てフロリアンはそれがどういった意図のものなのかすぐに理解した。そこに描かれていたのは二人が出会ってから訪れた場所を象徴するものだった。
国立歌劇場で鑑賞したバレエの一幕、セーチェーニ鎖橋、デフォルメされた聖イシュトヴァーン騎馬像や三位一体の像など。
さらにほのかにコーヒーの風味が漂っているが、これはもしかすると彼女と初めて出会った場所で香っていたコーヒーの匂いに由来するのではないだろうか。
今この場にいる三人しか知り得ない思い出の数々がこのカップケーキのひとつひとつに込められている。そんな風に感じ取る事が出来た。
「凄い…これを全てマリーが作ったのかい?」
「うん。君の口に合うと良いのだけれど。」
食べるのがもったいないと思えるほど完璧なデコレーションだ。芸術の領域と言っても過言ではないだろう。
「今一つ食べても良いかな?」
フロリアンが尋ねるとマリアは静かに頷いた。彼女の了承を確認してから一つ手に取って食べる。
「美味しい!凄く美味しいよ、マリー!」
それは偽りの無い素直な感想だった。目で見て、香りを楽しみ、その美味しさを楽しむ。料理として完璧なだけではなく、マリアが本当に自分の為に考えて作ってくれたというその事が何よりも嬉しく、より一層お菓子の味を美味しく感じさせた。
「良かった。」フロリアンの感想に安堵の表情を浮かべたマリアは笑顔で応えた。
アザミはそんな初々しい二人のやりとりをすぐ傍で静かに眺めていた。
【貴方は特別な人】
彼がそのカップケーキという贈り物に込められた意味に気付く日が来るかは分からないが、おそらく彼には既に十分すぎるほどに伝わっているだろうと感じられた。
彼は直感や理解力がとても優れている。憶測ではあるが、カップケーキにアイシングで描かれたイラストや風味付けに関する意図は瞬間的に読み取ったのではないだろうか。
さらに言えば、彼は “マリアの事に関しては” 特別に良く理解し、彼女の感情や思いなどを感じ取っている節がある。
それがなぜなのかは分からない。単純に二人の縁の成せる業なのか、相性という事なのか。
それとも人間がよく言う所の “運命” とでも呼ぶものなのか。
だがそんな事は今はいい。彼女が幸福だと思う事が出来る時間がほんの僅かでも長く続く事を願う。
ずっと何も言わずに黙っていたアザミであったが、少しだけマリアの話をフロリアンにする事にした。余計な事かとは思ったが、話して悪い事でも無いだろう。
「マリーは昔から料理が凄く得意なんです。貴方が車で飲まれた葡萄ジュースも、マリーが私に作り方を教えてくれたんですよ。」
フロリアンはアザミの言葉を聞いて目を丸くした。
「ただ、それだけの腕をもっていても滅多に料理はしないのですけれど。作るときはいつも決まって “特別な時” だけです。」アザミは言葉の間に注意しながらそれだけを彼に伝えた。
後でマリアに怒られるかもしれないとは思ったが、どうしても伝えずにはいられなかった。
マリアにとっての特別とは即ちアザミにとっても特別という事だからだ。
隣ではマリアが少し照れた表情を浮かべつつ『仕方が無いな』という雰囲気で自分を見ている。どうやら後で怒られる事は無さそうだ。
アザミはマリアへ視線を送り、してやったりといった微笑みを浮かべて見せた。
その後もしばらく三人で談笑を交えながら丘から見える宝石のような夜景を楽しんだ。
この時間がいつまでも続くようにと願いながら。
*
ゲッレールトの丘へ到着して一時間が経過し、時計の針は午後9時半を回ろうとしている。
素晴らしい景色、素晴らしい思い出、素晴らしい時間。真冬の凍てつく寒さの中にあって心が温まる安らかな時間は終わりに近づいていた。
名残惜しさをその場にいた全員が感じてはいたが、三人はホテルへと戻る事にした。
「冷えて来たね。名残惜しいけれど、そろそろ帰ろうか。」
「そうだね。」マリアの言葉にフロリアンが返事をする。
「それではフロリアンの宿泊先までお送りいたします。参りましょう。」
アザミは後ろへ振り返ると先に歩き出す。マリアにはアザミが自分達二人に気を使わせない為に敢えて先に車へと向かった事を悟る。
敢えて彼女の姿が少し離れるまで待ってからマリアは言った。
「さぁ、私達も行こうか。」
その言葉を合図にフロリアンも歩き出す。
とても名残惜しい。マリアはそう思っていた。
この楽しく幸せな時間は間もなく終わりを迎える。自分とアザミは明日帰国する予定だが、今日このまま別れたら次に会う事が出来る日は訪れるのだろうか。
予言の花と呼ばれる自分らしくない考えだ。こういう時は、いつだってその場で未来を視れば済む話だった。簡単な事だ。
しかし、今隣を歩く青年の未来はなぜか自分の力では見る事が出来ない。その理由は今でも分からない。
現代を生きる普通の人にとってはそれが当たり前のはずだ。人間にとって未来が分からないということは当たり前の事なのだ。
そんな人間にとって当たり前の事をこんなにも恐ろしいと感じている。いつから自分はこんなに弱くなったのだろう。
いや、きっと自分は最初から強くなんて無かったのだ。
どうにも心が落ち着かなかった。自分は今、こうして彼と一緒にいて隣を歩いているはずなのに、どこか遠くにいるような気がしてしまう。
自分が特別な力を持っているからだろうか。それとも、特別な成り行きで今この場における生を獲得しているからだろうか。
本来この場に存在してはならない人間だからなのか。
そのような自分を、特別ではない彼と比較してしまっている。 “特別な力だけを求められる” という、その事をなによりも嫌っているはずの自分が。
結局、彼に近付きたいと願いながらも、彼の事を遠くに感じている原因は自分なのだ。この心の弱さが彼の事を遠くに感じさせてしまっている。
彼と心を通わせる事は出来た。残されたあと一歩、自分が踏み出さなければ “次が無い”。
そうしてマリアは並んで歩く彼の左手を握った。特に何を言うわけでもない。ただ静かにその手を握る。
彼はそれを静かに受け入れてくれた。そっと握り返してくれる。その優しさが、その温かさが、その純粋さが何よりも自分を惹きつける。
彼は自分の特別を何も知らない。出自はもちろん、神によってもたらされた力も、悪魔によって開花した力も。現代における地位も名誉も財産も。
彼が知るのはただこの地で出会った一人の少女としての私だけ。そんな私の事を何の裏も無く、道具としてでもなく、ただの一人の人間として必要だと言ってくれた。
私はこの手を離したくない。
その想いは本物だった。
ほんの僅かでも良い、今この瞬間だけは彼を近くに感じておきたかった。
いや、それは嘘だ。この瞬間だけでは不満だ。私は…これからも。
先に到着していたアザミに続いて二人も車へ辿り着く。全員が車内に乗り込むと、アザミはフロリアンの宿泊するホテルへ向けて車を発進させた。
ゲッレールト山を下りエルジェーベト橋を渡る。ドナウ川沿いに車を走らせ最後の目的地へ向けて真っすぐに向かった。
*
午後10時に近付いた頃、車はフロリアンの宿泊するホテルの前へ到着した。
「到着しました。」アザミはただ一言告げる。
「ありがとうございます。」フロリアンはアザミに礼を言うとマリアの方を向いて言った。
「マリー、今日はありがとう。いや、今日だけじゃない。この三日間は僕にとってとてもかけがえない思い出になったよ。」
マリアは微笑みながら頷いた。それを見たフロリアンは言葉を続ける。
「本当は名残惜しい。もっと君と一緒にいたい。心からそう思う。だから、今日さようならは言わないよ。」
フロリアンの言葉を聞いたマリアも呼応するように返事をする。
「私も…私も、さようならなんて言わない。フロリアン、君とは約束をしなくてもそう遠くない未来にまた会える気がするよ。」一言でも発すると涙を零してしまいそうでそれまで黙っていが、彼の言葉に思わず反応した。それは心から漏れ出た本音であった。
「僕もそう願っている。その時はまた今日みたいに楽しい話が出来たら良い。」
「そうだね。その時はきっと。」フロリアンの返事に静かに頷く。
「それじゃ、おやすみ。マリー、アザミさん。」
「あぁ、おやすみ。君の旅路と未来が幸福に満ちたものである事を願うよ。あと…どうしても寂しい時は連絡をくれたら良い。その時はメッセージでは無く、今度こそ電話を掛けてくれても良いんだよ?」
「寂しくなったらそうするよ。必ずだ。」いつも通りのマリアの言葉にフロリアンは安心した。続いてアザミが挨拶をする。
「おやすみなさい。フロリアン。つい先ほど貴方のデバイスにこの数日間の写真データを全て送信しておきました。大切にしてくださいね。」
「ありがとうございます。大事にします。何枚かプリントして部屋に飾りますね。では、僕はこれで。」
フロリアンはそう言うとドアを開けて車外へと出る。最後にマリアに手を振った後、ホテルへと入っていった。
フロリアンを見送った後、アザミは自分達の宿泊するホテルに向けて車を発進させながらマリアに問う。
「マリー、良かったのですか?」
「何がだい?」
「こういう場合、好意を寄せあう男女は別れ際にキスをするのが相場であると調べていたのですが。」
「何を問うたのかと思えば…恋愛映画の見過ぎだね。確かに、そういうのも悪くはないけれど…彼は自分からはしなさそうだな。それとも私に彼を襲えと?」
「悪くは無いと。もしや、機会さえあれば襲う気はあったのですか?」
「無いよ。君は私を何だと思っているんだい?…でも、まぁ確かに。今それをしてしまったら、今度こそ私の理性は抑えが効かなくなりそうだ。思い切って拉致してしまうかもしれない。」
最後はぼかし気味に呟いたマリアであったが、アザミは一言一句全てを聞き取っていた。
戯れはさておき、アザミは先程の会話の中で気になった事を尋ねてみる事にした。
「ところで、遠くない未来に会える気がすると言いましたが、彼と会う未来が視えたのでしょうか。」
「いいや、相変わらず彼に関する未来は何も視えない。彼に未来が無いというわけではないんだけれどね。」
「本当に不思議な青年。貴女が未来を見通せない人物だなんて。ヴァチカンのあの少女くらいのものだと思っていましたが。」
「ロザリアの事かい?」
「えぇ。」マリアが言う人物名にアザミは同意した。
「それは、彼女と私の相性が最悪な事に由来するのだろう。持っている能力的にも、ね。私は未来を視通し、彼女は万物の過去を見通す。私は悪魔と契約を結び、彼女は神にその身を捧げた。何から何まで、お互いが反発しあっているのさ。そのうち殺し合いをする立場になるかもしれないとしても、特に仲が悪いとは思っていないけれどね。」マリアは笑いながら言う。彼女の言い分にアザミも微笑んだ。続けてマリアが言う。
「それとも、その含みのある言い方。ロザリアが彼に何か関係しているとでも言いたいのかい?」マリアは真剣な顔付きでアザミに問う。
「あまり考えたくはありませんが、否定は出来ません。彼女が何の意図も無く偶然この地に居たとも思えませんし。どちらかと言えば、例の事件か彼か…そのどちらかに関係があると考える方が合点がいきます。」
「ふむ。正論ではある。彼が彼女の差し金という線は限りなく薄そうではあるけれど、仮にそうだとしたら面白くないね。色々な意味で。」
「そういえば、今日の昼間も聖イシュトヴァーン大聖堂の前の広場で、彼女は彼に手を出し掛けたようですが。」
「君が飛ばした監視の目からの報告は見ているよ。結局、散歩という名の恐怖観光は彼にきっぱりと断られたんだろう?ざまぁみろというやつさ。彼はやはり良い目と勘をしている。私は彼を彼女のような女には一ミリも近付けたくはないからね。」
「マリー、少々言葉遣いが乱れていますが。その言い様…先程、仲が悪いとは思っていないと言った事とも矛盾します。」
「失礼。仲が悪いというよりは好敵手という方がしっくりくるのだろう。嫌っているわけではないというのは本当だ。それと、彼女の言葉をはっきりと断ったという事実。それはつまりロザリアの持つ力に対しても彼は抵抗力を持っている事を意味するように思える。彼女の力の真価というのは、ただ万物の過去の記憶を読み解く事では無い。その本質は、人の心の在り方を見抜き、惑わし、自らの狂信者へと変えてしまうというものだ。」
「聖職者という点と、総大司教の地位に就いているという立場も相まって、絶大な効力を発揮しているようですね。」
「その通り。あの力あってこその地位だ。いや、彼女なら能力とは関係なくその地位まで上り詰めたかもしれないけどね。まぁそれは良い。しかし、そうなるとかえって不安というものも増してくる。彼も私と繋がりを持ってしまった以上、危険の方から近寄ってこないとも限らないか…アザミ。彼をレオナルドへ紹介、いや推薦しておいてくれないか。フロリアンの話を聞く限りでは彼の求めている事が実現できる場所はおそらく、この世界で機構をおいて他にない。そしてレオナルドは彼のような人物を欲しがっているはずだからね。データを送る相手はフランクの方が良いかな。」
「彼の夢を叶える為という本質と共に、それは彼の身の安全も兼ねて、ですか。」
「散々巻き込んでおいて今さら言うのも酷い話だけどね。その通りだ。」
「承知いたしました。ゼファート司監へメッセージを送っておきましょう。必然、ヴァレンティーノ総監へもすぐに情報は伝わるでしょう。」
「任せたよ。」
「しかし、宜しいのですか?もし仮に彼が機構へ入るとなると…次に貴女と出会った時は…」
「状況によるだろう。立場を伏せたままでいられるうちは平気だよ。ただ、彼が全てを知る時が来れば、その時においては今日のような楽しい会話は出来ないだろうね。私達の本当の所属を明かす事になれば、立場というものがそれを許さなくなる。当然、今後は軽々しく手を繋いだりも出来なくなるわけだ。それは…嫌だけどね。」
分かっている。彼が一般人という立場で無くなってしまえばこの数日間のような対等の付き合いというのは間違いなく出来なくなってしまう。しかし…
機構への推薦という話はマリアなりの気遣いでもあり、そして彼の夢を叶える為に彼女が出来る最大級のプレゼントである事にアザミは気付いていた。
「彼が機構に入れば、いずれわたくしたちの所属を知る機会も必然的に訪れましょう。そう遠からぬ未来に。それでも良いのですね。」
「それでも、彼は受け入れてくれると信じているさ。私が前に進むことを諦めてしまうわけにはいかない。一歩を踏み出す勇気を持たなければならないのは私の方だ。」
マリアの言葉を聞いてアザミは隠されている目を細めた。彼女の心はつい数日前とは比べ物にならない程強くなっている。
その魂の輝きも、さらなる黄金色を放ち力強く輝いているのが分かる。
アザミがそんな事を考えていると、呟くようにマリアは言った。
「本音を言えば、機構ではなくずっと私の手元に置いておきたいくらいなのだけれど。さすがにそれは無理がある。」しんみりとする彼女に対してアザミは先程と同じ返事を返した。
「手元に置いて、襲う気ですか?」
「引っ張るね。どうしてそうなるんだい?もしかして君、本気でそれを期待しているんじゃないだろうね…」
「まさか。」
そういうアザミの様子はとても冗談を言っている風には見えなかった。
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