第28節 -繋がれた手-
午後4時。国際会議場にて午後から始まった国際連盟主催の特別総会はつい先ほど議決したところだ。
大方の予想通り、【加盟各国が難民問題の解決に向けた共同努力を継続する】という結論に達し、その中で世界特殊事象研究機構も国際連盟加盟国ではないものの、大規模国際機関のひとつとして国際社会と歩調を合わせた努力を行うという項目が盛り込まれた。
言い換えれば、結局のところ機構が解決努力を担う一員として加わったこと以外に特に新しい進展は見られなかったのである。
議長による決議内容の発表へ拍手を送りつつも浮かない表情でレオナルドは言った。
「致し方ないところではある。既に受け入れを行っている国々としても限界であることは間違いないだろう。」
既に取り組みを行っている国々の事情を考えれば、現状では至極真っ当な結論だ。何より世界に向けて問題解決に向けた取り組みを忘れていないという強調こそが今回は重要であった。
「根本から解決する為には別の話し合いの方が余程必要になってくるでしょう。」
それは皮肉なのか、現実的観点から見た意見なのか。フランクリンが言った。彼の言葉にレオナルドも同意を示す。
「私もそう考えている。紛争、宗教問題、貧困、食糧危機、人種差別問題…それらが複雑に絡み合う中で一つだけを取り上げて話し合いをしても根本的な解決にはなり得ない。反対に、今回のように総合的なものを取り上げて話し合いをしても一つ一つの解決にもなり得ない。」
フランクリンの意見にレオナルドは同意した。
そして今回の議決が暗に意味する事は、今後機構はそれらひとつひとつの問題への取組に対しても強く対処を求められる可能性が非常に強まったという事だ。
世界各国から資金拠出を受けて成り立つ国際機関ならではの問題ともいえるが、目下の所そういった可能性にどう対処していくかは、今後すぐにでも機構内で議論を進めなければならない。
対処を求められてから考えるのでは遅いのだ。
「さて、これからが忙しくなりそうだ。」
「しかし、まずは一つの課題を乗り越えられた事を評価すべきでしょう。セントラルへ帰投されたら少しお休みになられては。」
「そうだな。ほんの少しそういった時間も必要かもしれない。」
「しっかりとした休息も職務の内です。」
「ははは、君らしい物言いだ。ありがとう。」休息まで職務に含むとは、何事も俯瞰的に評価し理詰めで物事を捉える彼らしい意見だとレオナルドは感じた。
しかし、その言葉の内には間違いなく自身への労いと優しさが込められている。
普通に休めと言われて休める立場が相手なら、彼はこのようには言わないと分かっているからだ。
演壇ではたった今、議長による総会の決議に関する声明の読み上げが終了した。
最後に議長の宣言を持って三日間に及ぶ国際連盟主催の特別総会は幕を閉じた。
* * *
午後5時前。既に日は暮れ、周囲はすっかり夜の闇に覆われている。街の灯りが周囲を照らし、夜のドナウの幻想的な景色を映し出す。
約束の時間まではまだもう少し余裕があるが、セーチェーニ鎖橋には既にマリアとアザミの姿があり、彼の到着を心待ちにしていた。
日が暮れたことにより外気の冷え込みは強さを増す。
「少し早かったかな?」白い吐息を漏らしながら落ち着かない様子でマリアが呟く。
「いいえ、来てくれたようですよ。」
アザミが見つめる方向へマリアも視線を向ける。道路を挟んだ向こう側。少し離れた場所にフロリアンの姿を見つけるとマリアは輝かしい笑みを浮かべた。
そして間もなくフロリアンが二人に歩み寄ってきた。
フロリアンは鎖橋の前まで来てマリアの前に立つと、まず彼女に優しく言葉を掛けた。
「やぁ、マリー。また会えて嬉しいよ。」
「私も。」マリアは短く、ただ一言だけ返事をする。
ほんの微かにだが瞳に涙を浮かべているのが見て取れる。
フロリアンにとってはその言葉だけで十分だった。それだけで彼女が自分との待ち合わせを心待ちにしていてくれた事が分かったからだ。
続けてフロリアンはアザミと軽く視線を交わす。互いに何も言わないが、どうやら昨夜のメッセージの件がうまく奏功したらしい。アザミが見せた僅かな一度の頷きがその事を物語る。
フロリアンは改めてマリアへ視線を向けると、昨日までと雰囲気が違う事にすぐに気付いた。
「マリー、昨日までと少し雰囲気が変わったね。」
「メイクをしてみたんだ。いつもはしないのだけれど…似合わないかな…?」少し俯き気味にマリアが言う。
「いいや、とても綺麗だよ。まるで…天使みたいだ。」フロリアンは素直に思った事を口に出した。
その返事を聞いたマリアは恥ずかしそうにしながら、しかし喜びを表すように微笑んだ。
隣でアザミは静かに佇む。天使。言い得て妙だ。
異性の立場で本人に向けてストレートに口に出すには、なかなか勇気がいる言葉だと感じられるが、それを臆面も無く言うのが彼なのだと改めて感じた。
そんな彼だからこそ、マリアは本当の意味で彼が自分自身を “必要としてくれている” のだと信じる事が出来たのだろう。
自分と並ぶ彼女に目を向ける。天使と悪魔。なるほど悪くない。自分にとっても彼女は間違いなくそういった存在だ。
アザミは二人の様子をただ静かに眺めつつ、マリアとの事前の打ち合わせ通り、ここで自身は席を外すことを提案する事にした。
「フロリアン、わたくしはここから先においてしばらく席を外させて頂きます。マリアの事、頼みましたよ。」
そう言ってアザミは一礼をすると、フロリアンの意思を確認する事も無くホテルの方角へと歩いて行った。隣でマリアは何も言わずに彼女の後姿を見送っている。
彼女の言葉にフロリアンは一瞬戸惑ったが、二人の様子を見るに予め打ち合わせていた事なのだろうと悟った。
自分としても、マリアと二人きりで会話が出来るのはとてもありがたかった。直接伝えたい事がたくさんあったからだ。
だが、いざ二人きりになると何から話を始めたら良いのか分からなくなる。どういう言葉を掛けるべきか迷っていると、マリアの方から話し掛けてきてくれた。
「フロリアン、今からもう一度ブダ城へ行こう。」
輝かしい笑顔でこれからの行き先を提案する彼女の言葉に快く応じた。
「良いよ、行こう。」
一瞬ではあるが、なぜ行き先が城なのか考えた時、昨日の朝アザミが言っていた言葉をふと思い出した。
【マーチャーシュ聖堂やブダ城もそうですが、夜はライトアップされた鎖橋なども含めた美しい夜景が楽しめるそうです。】
その際にマリアが言った言葉はこうだった。
【時間が許すなら夜にもう一度来てみたいね。】
確かに今からの時間であれば丘からは美しい夜景を見る事が出来るだろう。外も遠くまで見通す事が出来る良いシチュエーションだ。
マリアの意図を汲み取ったフロリアンは彼女と並び、一緒にブダの丘へ向けて歩き出した。
夜の闇にライトアップされた鎖橋を二人並んで通り抜ける。ドナウ川には夜景観賞に訪れた観光客を乗せた遊覧船が行き交う。
特に言葉を交わすことも無く二人は共に歩いていたが、ふいにマリアが一言だけ呟いた。
「冷えるね。」
フロリアンがマリアに視線を向けると彼女は両手を合わせて手を温めていた。
「うん、冷えるね。こうすると温かいかな。」何かを期待するようなそぶりを見せる彼女にそう言うと、フロリアンは彼女の手を取った。そして躊躇う事無くその手を握り繋いだ。
「あ、ありがとう。」目を丸くしながらマリアが礼を言う。
彼女の昨日までの自信に満ちた表情や態度とは違ったとても初々しい反応にフロリアンは内心面食らっていた。
昨日までの彼女であればわざと蠱惑的な表情を浮かべながら、からかいの言葉の一つや二つを言いつつ自分の反応を見て楽しんでいた所であろう。
握った手に視線を送ると、ふとマリアの指先に目が留まる。マリアの爪には美しく彩られたネイルアートが施されていた。
「ネイル、凄く可愛いね。」
「アザミが塗ってくれたんだ。私も初めてなんだけど、どうかな?」繋いだ手とは反対側の左手の指先を差し出しながらマリアが言う。
「凄く似合っているよ。とても大人っぽくて素敵だ。」
「おや、いつもは子供っぽかったという事かい?」
微笑みながらマリアが言う。照れ隠しも混ざっているのだろうか。昨日までの彼女と同じ調子が出てきたように感じられた。
自分に会うこの時の為にたくさんのお洒落をしてきてくれたのだと思うと、フロリアンにはそれがとても嬉しく感じられた。
これがデートというものになるのだろうか。生まれてから異性と交際はおろか、デートした経験すらも無かったので戸惑う部分も多いが、不思議と彼女に対しては何も飾る事なく自然に接する事が出来た。
「僕はどちらのマリーも好きだよ。」フロリアンの返事にマリアは頬を赤らめる。
「君はまた臆面もなくそういう事を…でも、悪くない。ありがとう。」
そう返事をしたマリアはフロリアンの手を少しだけ強く握った。
鎖橋を渡り終えた二人はブダの丘のたもとに辿り着く。
「ケーブルカーで上まで行こう。」
マリアの提案により、今回は徒歩ではなくケーブルカーでブダ城まで上る事にした。
受付で往復チケットを購入し、段差のついた箱型ケーブルカーへと乗り込む。座席に着席し窓からドナウ川へと視線を向けると、そこに映し出されていた景色は昨日の昼に見た景色とは違った美しさであった。
太陽の光で照らされた自然の景色とは異なる、人々の歴史が作り上げた暗闇を照らす光で彩られた街。
夜という暗闇にこれらの輝きをもたらしたウィリアム・マードックやジョゼフ・スワン、トーマス・エジソンやニコラ・テスラといった偉大なる発明者達に感謝したくなるような光景である。
冬の空気がそのひとつひとつの光をさらに幻想的に魅せる。二人はその夜景に魅入った。
ケーブルカーの窓に映し出される夜景を眺めていると、あっという間にブダ城の城門前ゲートまで辿り着いた。
二人はケーブルカーを降りてすぐ近くの城門へと向かう。
「昨日来たばかりだというのに、なんだかとても懐かしい気分だ。」
「そうだね。まるで遠い昔の思い出のように感じるから不思議だ。」マリアの感想にフロリアンは同意した。
それは二人の精神的な結びつきの強さが昨日に比べて格段に変化している事を意味する。それぞれの意識の変化が、昨日の午前中の経験を遠い過去の記憶のように変えていた。
遠い過去の記憶のように感じられるが、城門のすぐ傍では昨日と同じように怪鳥トゥルルが観光客を出迎えている。
二人はどちらからともなく再び手を繋ぐ。そして目の前の城門を潜り抜け、両脇に広がる階段の一方をゆっくりと降りる。
広場に足を踏み入れた時、ライトアップされたブダ城の美しさにまず目を奪われた。
決して派手ではないが、暗闇の中で幻想的に浮かび上がる城の様子は、例えるならば異世界に迷い込んだ時に目にするもののように感じられた。日の光がある内に見た城の印象とはまるで違って見える。
ブダ城の景観を眺めつつ、二人は真っすぐにオイゲン公の騎馬像がある広場へと向かった。
騎馬像へと辿り着いた二人はその先から見渡すことが出来るドナウの夜景を眺めた。
「綺麗だね。素晴らしい景色だ。」笑顔でマリアが言う。
目の前に広がるのはドナウの真珠と称される街並み。ライトアップされた国会議事堂やその奥に見えるマルギット橋、マリア達が宿泊するホテルとセーチェーニ鎖橋、奥手にイシュトヴァーン大聖堂の尖塔が見え、右に視線をずらすとブダペスト・アイの上部が見える。さらに右に視線を移していくとエルジェーベト橋までよく見渡せた。
橋を渡る車やドナウ川沿いの道路を走る車のヘッドライトは流星のように美しく見え、川を進む遊覧船の青い照明がより幻想的な世界観を際立たせている。
しばらく無言で景色を眺めていた二人だったが、フロリアンは彼女に話したかった事を伝えようと口を開く。
「マリー、僕は…」しかし、そこまで言いかけるとマリアは言葉を遮り首を何度か横に振る。
「フロリアン、まずは私から君に話したい事がある。」マリアは繋いでいた手を離すと、その時を待っていたかのようにフロリアンの方へ向いて話を始めた。
「まずは君に謝らなければならない。昨日の夕方の事だ。私は君に嘘をつきたくないと思って、話せる限りではあるが本当の事を伝えた。話した事に嘘はない。けれど、結局私は自分の本音を隠し通す事で君に嘘をついてしまっていた。」
一瞬だけ視線を下に落とした後、再度フロリアンの目を見てマリアは言った。
「私はね、本当は怖かったんだ。君の言う通り、私自身の心の奥底を見抜かれる事が怖かった。今まで他人に対してそんな風に思った事は無かったのに、君自身の意思で君に嫌われてしまう事が怖いと思った。真実を話して君に蔑まれて嫌われる事が結末であるならいっその事、私から突き放して離れてしまう方が良いと思ったんだ。他人を利用するだけ利用して、自分が傷付きたくないからという理由で相手を突き放すなんて最低だ。自分の事に精一杯で、その事について君がどう思うかまで考える事も無くね。」
そして一言だけ言う。
「本当にごめんなさい。」
彼女の言葉を聞き、その姿を見たフロリアンは静かに首を横に振った。
「マリー、良いんだ。僕はあの時言ったように君の事を蔑んだりも嫌ったりもしないし、恨んだり憎んだりも決してしない。あの時はただ君の事が心配だった。そして、僕も同じように君に謝らないといけない。そして同時に感謝もしないといけない。」
フロリアンの言葉にマリアは首を傾げた。
「私は君に謝られるような事もないし、感謝されるような事だって何もしていないよ。」
「いいや、聞いてくれ。僕はマリーに初めて出会って、君とアザミさんと朝食を共にした時に世界を旅していた事を話したよね。自分の知らないものを知る為の旅をしてきたと。それは目的の一つであって本質ではないんだ。なんて言えば良いのかな。僕が求めていたのは、知らない事を知った自分がどういう未来を選んで生きるかという事だった。何を目指して行くのか、何を為したいと思うのか、どうしてそう思うのか。」
マリアはフロリアンの目を見つめたまま、その言葉にただ静かに耳を傾けた。
「世界を色々巡って見て確かにたくさんの事を知った。けれど、僕の求める本質的な答えはここに来るまで見つからないままだったんだよ。でもマリー、君はその答えを教えてくれたんだ。」
「私が?君に?」
「僕は初めて君に会って話をした時に感じたんだ。この子はなんて達観したものの見方をするのだろうと。君と一緒に話をし続ける事が出来れば、自分の探し求めていた答えが見つかるんじゃないかと思った。アシュトホロムに誘われた時も、リュスケに誘われた時だってそうだった。自分だけでは見る事が出来ない世界を知る事が出来ると思った。そう、結局のところ突き詰めていけば僕だって自分の本質的な目的の為に君やアザミさんを利用してしまっていたんだ。それをまず謝らなければいけない。」フロリアンはさらに話を続けた。
「そして君と一緒に話をして、色々な体験をしてようやく見つけたんだ。今まで言語化することも出来ない程漠然としていた答えが。僕が求めていた答えが。だから君に感謝をしなければならない。」
「それは、どんな答えなのか聞いても良いかな?」マリアが問う。
「僕はね、ただ人々が幸せに笑って暮らせるような世界がいつか訪れるように、その力になる為の活動が出来たらと今は思っているよ。まだ完璧な答えではないけれど、最初から僕の中に答えはあった。灯台下暗し。自分が自分の事を一番理解していなかった。マリー、君が言った “無知の知” だよ。」
フロリアンがその言葉を言い終わった時、マリアは頬を緩めて笑った。
「そうか、実に君らしい答えだ。全ての人々の為にと…突拍子も無くて、傲慢で。だけど、とても温かい。」
マリアらしい返事の仕方だ。貶しているのか褒めているのかいまいち分からないが、これは彼女なりの誉め言葉に違いないとフロリアンは感じた。
マリアはそう言うと昨日三人で座った小さな庭園の石段に向かって歩いて行き、そこに腰を下ろした。
フロリアンも彼女に続く。そしてマリアは空を眺めながら話し始めた。
「私はね、今まで両親以外の誰かに必要だと言われた事が無かった。ある時を境にして、誰かに受け入れられるという事も無くなった。私に手を差し伸べてくれたのはアザミだけだったんだ。だから、辛いと思った時でも誰かに助けて欲しいと思う事も無くなった。自らの意思で誰かに手を伸ばす事も無くなった。そうしていつか、自らの本心を悟られる事が怖いと考えるようになっていた。他者と関わる事が無ければ自分自身が傷付く事も無いからね。」
フロリアンは彼女の話を聞いてアザミの言葉を再び思い出す。
【あの子は初対面の方を相手に自ら誘うという事はほとんどありませんから。】
その言葉の意味がようやく理解できた。アザミが、マリアの人生がどのようなものだったのかを話すことは出来ないと言った昨日の夜の件も含めて。
「マリーのご両親は今スイスに?」フロリアンはふと疑問に思った事を尋ねた。
「いいや、お父様もお母様も、遠い昔に亡くなっているよ。それ以後、アザミが私の両親の代わりになっている。」
「ごめん。失言だった。」マリアの返答を聞いたフロリアンは、聞いてはならない事を聞いてしまった気がしてすぐに詫びた。しかし、マリアは気にする様子もなくフロリアンの方を向き謝る必要は無いと言った。
「いや、構わない。先の話のニュアンスで半分話したようなものだ。私の事を知ってもらう為には、その事も知っておいて欲しいと思っていたからね。」
マリアは視線を星空に向けて話を続けた。
「私は今まで他人が自分に何かをもたらしてくれるなどと期待した事も無かった。でも君は違った。私には君が眩しかった。知らないものを知るという事の為だけに広大な世界を一人で旅して、見ず知らずの人々と触れ合って、出会って間もない他人の事を自分の事のように心配して。そして昨日の夕方、君は私の心の中にある本当の想いをいとも簡単に見抜いて見せた。あの瞬間、私の中にあった心の壁というものが音を立てて崩落していくような気がしたよ。固く閉ざしていたはずの私の心の鍵をこじ開けて、強引に手を伸ばし続けた人は君ぐらいのものだ。」
フロリアンはマリアの話に耳を傾けた。相変わらず貶しているのか褒めているのかは分からないが、先程と同じように彼女なりの最大の賛辞を送っているに違いない。
自身の本心を相手に知られたくないと思ってきたという彼女の話し方の癖なのだろう。彼女の話を聞いた今はそう思えた。
「ただの一人の人として、私の事を必要だと言ってくれた人はアザミ以外には君だけだ。彼女以外に、私が伸ばしかけた手を迷わずに取ってくれたのは、君だけだった。」
この時マリアはマーチャーシュ聖堂で讃美歌を聞いたときの事を思い出していた。
使徒ヨハネに与えられた啓示のパラフレーズによる讃美歌。
こんな醜悪な自分の唇に熱した炭を押し付けて、自分の為だけに、この身に背負った罪を正しく裁いてくれる人間がいるとすればきっと彼の事なのだろう。
純粋すぎる彼に触れてしまった時から自分の中の何かが軋み始めた。そして彼に心を読み解かれた瞬間、それは音を立てて崩れ落ちた。
今朝まで、それが酷く恐ろしいものだと感じられていたが、今はもうそうは思わない。
彼にはまだ自分の全てを伝えたわけではない。
国際連盟における “存在しない世界” を預かる立場の事を話すことは出来ない。それでも、立場などとは関係の無い一人の人間として彼と出会えた事が何よりも嬉しく感じられた。
この先、自分が間違いなく犯す罪を、彼ならば正しく裁いてくれるだろう。
不思議と、この間違いを彼に裁かれる事を心待ちにすらしている自分を感じた。彼になら、その全てを裁かれても良い。
「私も君と同じように、人々が幸せに笑って暮らせるような世界の到来というものを願っている。いつかそんな夢物語が実現する日が来れば良いと。もし、君が叶えてくれるなら尚良い。」
マリアはそう言うとフロリアンに笑顔を向けた。
フロリアンはマリアの笑顔を見て、この数日間の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。
その末に自身に向けられた笑顔がこの上なく美しいものだと感じた。
初めて出会った時から思っていた事だが、あの時に感じた事は間違いではなかったらしい。
「やっぱりマリー、君は僕にとっての天使に違いない。」
フロリアンはマリアの目を見て優しく囁いた。
「君はまた何を突然言い出すんだ。全く…」マリアはそう言うとすぐに視線をフロリアンから逸らした。怒っているわけではない。単なる照れ隠しだ。そしてマリアは続けて言った。
「そういえば、メッセージ。朝、しっかりと読んだよ。あれは、その…プロポーズの言葉かと思った。」
マリアの言葉にフロリアンは驚いた。アザミと話した通り、素直に自分が思っている事を簡潔に伝えたつもりであったが、短くしたが故に直接的な文章になってしまったらしい。
慌てて言い訳をしようとしたが、その前に彼女がさらに言葉を続けた。
「でも、悪くなかった。ありがとう。」
恥ずかしそうでもあり、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべながらマリアはそう言うと、星空を見上げながらフロリアンに寄りかかり、その肩に頭を乗せた。
「それと、君ともう一度ここに来て夜景を眺めたいという願いも叶ったよ。」
「同じ願いを今僕も叶えたところさ。」
そのまま二人はしばらくドナウの真珠とその上空に輝く星空を見上げていた。
*
時が過ぎ、時計の針が午後6時を過ぎた頃、マリアが石段から腰を上げて言った。
「随分冷え込んで来たし、そろそろ帰ろう。」
お互いに伝えるべき事は伝え合った。僅か三日に満たない時間を過ごしただけではあるが、とても長い時を共に過ごしたかのような一体感が今の二人にはあった。
マリアに合わせてフロリアンも立ち上がる。するとマリアはフロリアンの方を向き、この後の予定を尋ねた。
「ところでフロリアン、この後のスケジュールは空いているかい?」
「あぁ、空いているよ。」マリアの質問にフロリアンが答える。
「それは良かった。君をディナーに招待したいんだ。一緒に来てくれるかな?」
「もちろん。」
笑顔で返事をしたフロリアンにマリアは弾けるような笑顔で応えた。
そして二人は再びどちらからともなく自然と手を繋ぐ。まるでそうする事が当たり前であるかのように。互いに手を繋ぐ事で、確かな心の結び付きが得られた事を確認するかのように。
ゆっくりと歩き出し、その場を後にした二人は、そのまま城門へと向かった。来た道を戻り、城門前のケーブルカー搭乗口に辿り着く。
目の前にやってきた帰りのケーブルカーに乗る前にフロリアンはマリアに尋ねる。
「ディナーはどこに行くんだい?」
「それはこの後のお楽しみという事にしておいてほしい。そう遠い場所では無いよ。」マリアは笑顔で質問をはぐらかした。
二人はケーブルカーに乗ってブダの丘から降りていく。外には変わらない美しい景色が広がっている。
お互いの本音を語り合った後に見る夜景は、つい先程上るときに見たものとはまた違った輝きを放っているように感じられた。目に見える景色が心の模様を映し出しているようでもあった。
ケーブルカーを降りて少し歩いた先に、フロリアンは既に見慣れてしまった車を見つける。幻影の名を冠するその車の傍で佇む人物の姿も見える。アザミだ。
「お待ちしておりました。」
アザミは二人が手を繋いで歩いてきた事に、内心で少しばかり驚きながらも、その光景を微笑ましいものだと思った。まるでこうする事が当然だと言わんばかりの表情をマリアが浮かべている。
「その様子からすると、良いお話が出来たのですね。」
アザミからマリアに向けた問い掛けに対し、彼女は特に言葉を返さず表情のみで返事をした。
「お二人をお迎えに上がりました。さぁ、外は冷えますから早く車内へ。」
アザミに促され、そしてマリアにも促されてフロリアンは後部座席へと乗り込む。続けてマリアが乗るとコーチドアが自動で閉まった。
運転席へ乗り込んだアザミは特に目的地を告げることなく車を発進させた。隣ではマリアが楽しそうな様子で微笑んでいる。
どこへ向かう予定なのか気になるが、フロリアンはとりあえず目的地へ辿り着くまで窓から見える景色を眺める事にした。
しかし、ケーブルカーから車に乗り換えて走る事数分。そう景色を眺める間もないまま車は目的地へと辿り着いた。
想像していた以上に近い。どうやら目的地は王宮の丘内部にあるようだ。
三位一体の像のすぐ傍を通り抜け、マーチャーシュ聖堂の裏手にあるパーキングスペースへアザミは駐車した。
「私達がここに来た時に見ていない場所が良いと思ってね。さぁ、降りよう。」
マリアの掛け声で三人は車から降りる。マリアは外に出て大きな深呼吸をした後にフロリアンに目的地を告げた。
「目的地はここからすぐ近くだ。三位一体の像、マーチャーシュ聖堂、イシュトヴァーンの騎馬像。そしてこの場所にもうひとつある観光名所といえば。」
「漁夫の砦かい?」フロリアンが即答する。
「その通り。漁夫の砦の中にあるレストランを予約してあるんだ。良い景色も楽しめるんじゃないかな。」
漁夫の砦は確かに昨日は見学をしなかった場所だ。
マーチャーシュ聖堂から出て左側に見える聖イシュトヴァーンの騎馬像のすぐ傍にその建築物は存在する。
その建築物は今を遡る事、約130年前に建築された白亜の美しいネオロマネスク様式の砦で、七つの塔と優美な回廊で構成される。
ブダ城地区の一角として世界遺産に登録される人気の観光スポットでもある。
その砦の中にあるレストランが今回の目的地だという。
マリアが行き先を教えてくれる間にアザミはすぐ近くに設置されている自動精算機で駐車券を発券し、車中に掲示していた。こうした時の手際の良さは相変わらずである。
「さて、それでは行こうか。」マリアの合図によって三人は歩き出した。
目の前に聳え立つホテルとマーチャーシュ聖堂の間の路地を抜けた先に見える建物、それら一帯が全て漁夫の砦だ。
ライトアップされた美しい聖堂を鑑賞しながら三人は路地を通り抜ける。
目的のレストランの入り口はその路地を抜けて左に曲がった先にある。広場の中ほどにある小さな噴水を通り過ぎ、三人はレストランの入口へと辿り着いた。
入口にはレストランと書かれた赤い立て看板が設置されている。早速中に入るとスタッフが近付いてきて声を掛けてくれた。
アザミが予約である事を告げるとスタッフは三人を個室風に区切られた場所へと案内した。
温かみのある光でライトアップされていた砦の外観も素晴らしいものだったが、レストランの内装も白を基調とした落ち着いた上品な作りとなっており、天井から吊り下げられたシャンデリアなどの調度品と合わさって高級感が溢れている。
スタッフが三人の椅子を引いて着席の補助をする。そして全員が座ると一礼をして一旦下がった。
「せっかくだから良い景色を楽しみながらゆっくりディナーが出来たらと思ってね。思った通り素晴らしい景色だ。」
窓の外を眺めながらマリアが言った。そこから見える夜景は確かにとても素晴らしいものであった。ドナウ川沿岸からブダペストの幻想的な夜景が神秘的に広がっている。
「今日はコースを予約してあるんだ。君の事だから先に言っておくけど、会計はもちろん私達が持つから何も気にせずに楽しんでほしい。それと、コースを始める前に飲み物をオーダーするけどフロリアンはワインは好きかい?」
「好きだよ。」マリアの質問にフロリアンはすぐに返事をした
「良かった。ワインは二つほど頼むけど銘柄は両方とも私に選ばせてもらって良いかな?」
「もちろん。構わないよ。」
マリアがワインの注文を入れると言った事、フロリアンが少しだけ驚きの表情を含めて見せたのをマリアは見逃さなかった。
「おやおや、その表情はもしかして私の事を未成年だと思っていたのかい?」
「それもあるけど、マリーがお酒を飲むのが少し意外だって思ってね。」
「人は見かけによらないものさ。」
そのやり取りを見ていたアザミがいつもの事だと穏やかに微笑みながら言った。
「フロリアン、マリーはしっかりと成人していますよ。それと、お酒はわたくし以上に楽しんでいますね。」
「そうだね、確かによく飲んでいるかもしれない。それと、すまないがアザミは今日ハンドルキーパーだから残念だけれどアルコールは無しだね。」申し訳なさそうな表情を浮かべながらマリアは返事をした。
「えぇ、元々そういうお話ですからね。わたくしはお二人が酔う様子を眺めて楽しませて頂きますので構いませんよ。」
「どういう楽しみ方なのさ。」
「はい、予約する際、事前に写真撮影も許可を頂いていますので。こういう楽しみ方です。」マリアの疑問にアザミはカメラを構えながら返答した。
「なるほど、アザミさんらしい。」その横でフロリアンは笑った。
「さて、選ぶ銘柄は…そうだね。最初はシャンパンでその後は赤が良いのだけれど…せっかくハンガリーに来ている事だし赤ワインはハンガリー産のものにしよう。」
そしてマリアはスタッフにシャンパンとワイン、加えてアザミ用のジュースを注文した。
スタッフへ飲み物のオーダーを入れるとコースをスタートしても良いかの確認が行われ、承諾を示したマリアの合図でディナーが始まった。
まずはコース料理の前菜と先程オーダーをしたシャンパンとワインのボトルが運ばれてくる。運ばれてきた銘柄を見てフロリアンは目を見張った。
ロシア皇帝が愛したとされる最高級のシャンパーニュ、クリスタルがそこにあったからだ。もうひとつはハンガリー産の赤ワインで牡牛の血を意味する名に、さらにナジーエッジの名を冠したグランドスーペリオールであった。
前菜の配膳が終わると、スタッフがクリスタルをマリアとフロリアンへと注ぎ、続いてジュースをアザミへと注いだ。
スタッフが配膳を終えて立ち去るとマリアが乾杯の音頭を取る。
「一日遅れだけど、メリークリスマス。」そう言ってグラスを軽く上へと持ち上げた。
「メリークリスマス。」フロリアンとアザミもグラスを持ち上げ乾杯をする。
こうして三人のクリスマスディナータイムが始まった。
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