第17節 -束の間の平穏-
少年合唱団の讃美歌が終了すると聖堂内に拍手が沸き起きる。
フロリアンも他の観客と共に少年達の素晴らしい歌声に向けて拍手をしていたが、マリアが肩をぽんぽんと叩いたかと思うとすぐに後ろを振り返り出口に歩き始めたので急いで後に続いた。アザミも続く。
聖堂の外に三人が出ると、そこには変わらぬ同じ青空が広がり上空では太陽が輝いている。
寒さこそ変わらないが、冬の冷たく澄んだ空気はとても新鮮だ。
「余韻に浸っているところをすまなかった。少し外の空気が吸いたくなってね。」
マリアはそう言うと新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、息を吐きだした。少し間を置いて次の観光スポットへフロリアンを誘う。
「良い天気だ、とても。そうだ、ここからならブダ城も近いし、歩いて行ってみないかい?」
「もちろん。いいとも。」
フロリアンはマーチャーシュ聖堂の中や漁夫の砦をじっくりと見て回りたかった気持ちもあったが、午後からの予定を考えるとあまり長居し過ぎるわけにもいかないだろう。
先程から何となく元気が無さそうに見えるマリアの様子が気になったが、その提案に賛成した。
ブダ城はハンガリーにおいて有数の観光名所の一つである。
ドナウ川対岸からもよく見える緑色のドーム状の屋根をした建物がブダ城だ。
歴史による破壊と再生を繰り返し、ゴシックやバロックなどの様々な建築技法が用いられている事が特徴で、現在の城は二十世紀半ばに入ってから修復されたものとなる。
現在地からブダ城まではおよそ十分。午前10時過ぎには現地に到着するだろう。
「では、参りましょうか。」マリアに代わってアザミが掛け声を出す。
三人は次の目的地に向かってゆっくりと歩き始めた。
* * *
午前10時。リュスケの国境からやや離れた空地の木陰で男は潜んでいた。
昨晩アシュトホロムから移動をした後は、安全に休めそうな場所を見つけてすぐに仮眠を取った。
そして今朝、日が昇るのと同時に目覚めると、持ち運んだ荷物から非常食を取り出して空腹を満たした。
あの三人はこの地に訪れるだろうか。
狙いを定めた獲物が訪れる確率は半々といったところだろう。この地を訪れる際に利用する確率が一番高い道路に目星をつけて、その付近に今は隠れている。
仮にあの目立つ車で来訪するならば見逃すはずはない。
この季節に珍しく天気は快晴だ。
今日は確かクリスマスの日だったか。孤児院にいた時ならともかく、今の自分にとっては関係の無いイベントだ。
昔からくだらないイベントだと思っていた。自身の生誕すら祝ってもらった事も無い自分が、どうして他人の降誕祭などというものを祝福する気になれるだろうか。
捧げる祈りなど無ければ、祝う事もない。
仮に祝いを行うとすれば今日の狩りが無事に成功した時だろう。あの三人が持っているものをうまく売り捌けば当分何もしなくても暮らせるようになる。
神がお前を選んだ。
今思い出しても笑いが込み上げて台詞だ。しかし、今の状況を考えるとあながち嘘という訳でもないらしい。
天運というものが訪れたとでも言うのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
問題は獲物がここに訪れるかという点と、訪れたとして、どうやって見つかる前に襲撃して片を付けるかだ。
男は狩りのイメージを膨らませながらその後の生活にも思いを馳せた。
生まれながらにして何も無かった自分。
国も無く、家族も無く、友も無く、愛する人など当然いるはずもない。
今までの人生で誰かに必要とされる事は無かったし、誰かに受け止めてもらおうなどと考えた事もなかった。昔からこの世界は何も持たない者にとって残酷だ。
信仰や祈りでは空腹は満たされない。神にすがって祈る暇があるならその日に食べるものを探した方がましだ。
科学技術は金をもたない者にその恩恵を与える事は無い。届かぬものに思いを寄せるより、手に持った一本の石包丁の方がその日一日を生き延びる為には有用だ。
しかしどうしたことだろう。今の自分は信仰を重んじているであろう人物から、誰も知らないと思われる科学技術の結晶を手渡されている。
信仰も無く、金もない自分が!
これがある限り、どんな事をしようとも誰にも見つかるはずはない。見つけられるはずがない。
それこそ、未来予知によって自分が事前に “この場所を訪れる” などという事が分かっていない限りは。
神に選ばれたなどと言われて渡された品物。
どんな絡繰りかはわからないが、身に着けているだけで自分の姿そのものをあらゆるものから見えなくすることが出来る。
厳密には観測できない限界まで見えづらくすることが出来るようだ。動かなければ目視で見つかる事もない。
実際、国境付近に配備されたAI監視カメラや警備ドローン、赤外線センサーは自分の姿を感知している様子はまるで見られなかった。
挑発するように目の前に立ってやったこともあるというのに、まるで見えていないようであった。
人間の目はもとより、進化した監視カメラの類では感知する事は出来ないのだろう。
プロフェータと名乗ったあの人物が何を考えているのかは分からないが、こいつを利用しない手はない。
そして今日、ついに大きな獲物を狩るチャンスに恵まれるかもしれない。。
男はその瞬間を心待ちにして胸を高鳴らせながら、不必要な行動を起こさないように木陰に身を潜め続けた。
* * *
時刻は午前10時を回る。
聖堂から歩いてブダ城へ向かった三人はセント・ジョルジ通りと広場を抜けて、城門へと辿り着いていた。
聖堂からブダ城までの道のりは単純で、距離にすると一キロメートルにも満たない。
ハンガリー建国神話に登場する怪鳥トゥルルの像が三人を出迎える。その傍に聳え立つ巨大な石造りのアーチ状建造物がブダ城門である。
マリア達は敷地内へと向かう為、早速その門の中へと足を踏み入れた。
「凄く広いね。」数百メートルに及ぶ広大な敷地を見てマリアが言う。
そこには国立美術館や軍事歴史博物館、ブダペスト歴史博物館を内包する広大なブダ城の敷地が広がる。
とりわけ目を惹かれるのはすぐ付近にある石像が設置された噴水と、遠くに見える騎馬像だ。
三人は左右に分かれる階段を下りて、すぐ近くの石像が設置された噴水へと向かった。
「子供の像?遊んでいるのかな。」
「魚を捕っているみたいだね。」マリアの言葉にフロリアンが返事をする。
その噴水に設置されていたのは大きな魚を捕って戯れる子供たちの石像であった。
二人がじっくりと噴水を眺めていると、後ろからカメラで撮影する音が聞こえてくる。マリアとフロリアンが振り返るとそこにはカメラを構えたアザミの姿がある。
どうやら記念撮影に余念がないらしい。マリアとフロリアンは顔を見合わせて笑った。
「良い写真は撮れているかい?」マリアはアザミのところに歩み寄り声を掛けた。
「えぇ。素晴らしい写真が撮れていますとも。」
「それは楽しみだ。後でじっくり見せてもらうとしよう。」
そう言うとマリアはまた振り返り、噴水をじっくり鑑賞していたフロリアンに手を振りながら呼び掛けた。
「フロリアン、こっちに来てごらん!素晴らしい眺めだ!」
マリアの呼び掛けに応じてそちらへ向かったフロリアンは目の前に広がった景色に息を呑んだ。
今自分達が立っている場所。王宮の丘から見えたのはドナウ川とその沿岸一帯の景色である。セーチェーニ鎖橋や国会議事堂を始めとして素晴らしい景色が広がっている。
「先程のマーチャーシュ聖堂や、すぐ後ろに聳えるブダ城もそうですが、夜はライトアップされた鎖橋なども含めてこの場所からは美しい夜景が楽しめるそうです。」
「時間が許すなら夜にもう一度来てみたいね。」アザミの言葉にマリアが返事をする。
フロリアンもしばらく景色の美しさに見惚れていた。それぞれのスポットを間近で見るのも良いものだが、遠くからその全てを一望するというのはまた格別なものだ。
アザミの言う通り、ライトアップされた景色は今見えている光景よりもさらに幻想的な絶景となるのだろう。その夜景を自分も眺めてみたいと思った。
「では、お二人はそこに並んでいてください」後ろからアザミの声が聞こえる。写真が撮りたいようだ。
「はい、ではそのまま。撮りますよ。」そしてアザミはカメラのシャッターを切った。
隣ではマリアが満面の笑顔を浮かべている。とても楽しそうだ。
昨日の国立歌劇場での公演前の様子や、先程の聖堂を出た直後の様子など、時折元気無く沈み込んだ様子を見せる時があったので気になっていたが、どうやら心配なさそうだ。
「次はあの騎馬像の方に行ってみよう。」
笑顔で言うマリアを見てフロリアンは改めてそう感じた。
三人はブダ城のファサードを眺めながら敷地の奥へと歩いて行く。
美術館や博物館と一体になっている建物はとても大きく、館内を巡るとしたらとても一時間や二時間では無理だろう。
午後からの予定がある為、今回は城内の見学はしないという事を事前に三人で決めていた。
ゆっくりと歩いて行き、ブダ城の中央正面に立つ騎馬像の前まで辿り着く。目の前には勇ましく威厳をもった像が聳え立っている。
「この騎馬像のモデルは誰だろう?」
「オイゲン・フォン・ザヴォイエンですね。17世紀に生まれたオーストリア軍の将校です。17世紀後半の大トルコ戦争におけるオスマン帝国との戦いで、ハンガリーを救った事からこの地では英雄とされています。」フロリアンの疑問にアザミが即答する。
「凄い。詳しいですね。」
「はい。私達は歴史の調べ物が好きですから。」フロリアンの誉め言葉にアザミは素直に喜ぶ。続いてマリアが話を補足する。
「その後もスペイン継承戦争などで数々の武功を上げた彼は、外国における自国領の副王にまで上り詰めた。オスマン帝国との再戦などを通して、一貫してオーストリア軍に従軍した彼の活躍と功績は計り知れない。最後は体調を崩して七十二歳でこの世を去り、今はウィーンのシュテファン大聖堂で眠っている。君の祖国だと、プリンツ・オイゲンと言えば聞いたことがあるのではないかな?」
「そうか、世界大戦で運用された重巡洋艦。彼が名前の由来だったんだ。マリーも詳しいね。まるで歴史そのものを見てきたみたいだ。」彼女の知識の深さにフロリアンは感服した。
「アザミと同じで歴史の勉強が好きなだけさ。」そう言ってマリアは微笑んだ。
フロリアンはもう一度改めて像を見上げてみる。二人の話を聞いてから眺めるとより一層勇ましさや威厳が伝わってくる気がした。
周囲を少しずつ移動しながら像を眺めた後、何気なく視線をマリアへと向ける。
特に変わった様子は無いが、ふと足元が気になった。地面から少しだけ片足を浮かすようにして立っている。
その時、フロリアンはもっと早くに気が付くべきだった事実に思い至った。
「マリー?足は痛くないかい?アザミさんも。」
彼女達の履いている靴はヒール靴だ。とても長時間歩くのに向いている靴とは言えない。
鎖橋に集合してから今までの間ずっと歩き詰めであり、座る事も無く立ち続けていた為、既にかなり足が痛むのではないかと思ったのだ。
自分の興味に夢中で気付くのが遅くなったことが申し訳ないと感じた。
「あぁ、確かに少し疲れたね。休憩しようか。」
マリアは一瞬だけ驚いた様子を浮かべたが、すぐに穏やかな表情でそう言うと近くの草木が植え込まれた小さな庭園の石段に腰を下ろした。
アザミとフロリアンも彼女に続く。
「君は優しいな。普段からさぞ女性にモテてるんじゃないのかい?」マリアが茶目っ気たっぷりに言う。
「まさか。学校で必要な会話をしたくらいで、今まで交際したことも無いんだよ。」
「それは意外だね。そういう事を自分から言わない女の子も多いし、経験が無いとなかなか気付けない事だと思ったんだけど。」
「昔、僕が小さい頃両親によく色々な場所に連れて行ってもらったんだけどね。母は普段なら歩きやすい靴で行くんだけど、出先でどうしても気を使わないといけない時にはヒール靴を履いて行っていたんだ。出先で長く歩く事になった時には足を痛そうにしていたから。その様子を見たら母が何も言わなくても、父が言うんだ。『少し休もうか』って。」
「良いお父様だね。」僅かな間を置いてマリアが小さく答える。
「父からよく言われたよ。周りを見なさい。そして気付くんだ。その気付き一つ一つが人を大きくしてくれるんだってね。」
「なるほど。君が周囲の変化によく気付く理由がなんとなく分かった気がするよ。」
「でも、実際は周りからお節介な奴だって怒られてた。学生の頃は特にね。」
「そうなのかい?私は良いと思うけどな。」
「ただ、そのおかげで気付いても言わない方が良い事もあるって学べたけどね。」
フロリアンの話にマリアが心から笑う。その後も二人は笑い合いながら談笑を続けた。
二人の様子をアザミは隣で静かに聞く。それと同時に感慨に耽っていた。
マリアが自分以外の人物とこんなに楽しそうに会話をするのを見た事がない。
誰かと話していたとして、表面上は笑っていても内心はつまらなさそうにしている事がほとんどだ。
そもそも人に興味を持つ事が無い。彼女が唯一楽しそうに会話をすると言えば、機構のあの二人くらいのものだろうか。
しかし、お互いをある程度深く知っている間柄とは言え、機構のあの二人にも弁えなければならない立場というものがある。
それがある以上、彼女と深く話し込むような事はしない。彼女もまた、それを弁えて必要以上の事を話す事はない。
そうした立場の問題からじっくり会話が出来ない事を過去に一度だけ嘆いていた事もあった。
先程からフロリアンは自分が会話に参加しない事を少し気にしているようだが、それで良いのだ。
隣でただ会話を聞くだけで良い。その眼差しは彼女にだけ向けてくれれば良い。こんな楽しそうな彼女の姿を見るのは、ほとんど初めてに近いのだから。
人の常識を遥かに超えた長い長い歴史の中において、初めてに近いのだから。
「アザミ、アザミ?どうかしたのかい?」マリアの呼び掛けでアザミは意識が引き戻される。美しい赤い瞳が自身の顔を覗き込む。
「ごめんなさい。あまりに穏やかな天気だったのでぼうっとしてしまいました。」
「そうだね、良い天気だ。穏やかで、何気なくて。とても良い天気だ。」
それはこの空の事を言っているのだろうか。それとも彼女自身の心模様の事を言っているのだろうか。少しだけ含みのある答え方だ。
しかし、どちらにしても良いことだ。この束の間の安らぎが長く続く事を願いたい。例え数時間後にこの平穏が失われると分かっていたとしても。
アザミは心からそう祈った。
「そろそろ頃合いだね。少し早いけどお昼を食べに行こう。」マリアが石段から立ち上がって言う。
午前11時。昼食には確かにまだ早いが、午後からの予定を考えるとそろそろ移動して昼食をとっておいた方が良さそうだ。あまりのんびりしているとすぐに日暮れが訪れる。
「いいね。どこに行こうか。」フロリアンが返事をする。
「ケーブルカーを利用して降りて少し歩いたところに美味しいお肉料理のお店があるようですが、いかがですか?」アザミの提案にマリアもフロリアンも賛成した。
王宮の丘とたもとを直線で結ぶケーブルカーは三人がブダ城の敷地内に入る為にくぐった門のすぐ近くにある。
降りた先は鎖橋の近くだ。行きは聖堂に向かう為に敢えてケーブルカーを利用せず、徒歩で回り込むように王宮の丘を登ったが、帰りはこれを利用してみるのも一興だ。
「では、早速ケーブルカー乗り場まで行こう。」
マリアの掛け声で三人は先程通り抜けた門まで歩いて行った。
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