第16節 -二人の想い-

 午前9時前。待ち合わせ場所であるセーチェーニ鎖橋のライオン像の前でフロリアンは二人を待つ。

 少し早めに着いてしまったが、マリアにメッセージを送ると『すぐに向かうから待っていて欲しい』と返事が来た。

 朝日に照らされる鎖橋を大勢の人々が行き交う。同じく観光に訪れた人々だろうか。橋の入り口で記念撮影をする人も多く見受けられる。


 フロリアンが橋の様子をじっくりと眺めていると後ろから自分の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。

「おはよう、フロリアン。待たせてしまったね。」

「おはよう、マリー。」

 振り返って返事をしたフロリアンのすぐ後ろにはマリアとアザミの姿があった。フロリアンはマリアの姿を一目見ると、昨日とは変わった装いの美しさに一瞬で心奪われた。

「どうかしたのかい?」不思議そうな表情を浮かべながら自身の顔を覗き込む彼女と視線が合わせられない。

「その…見惚れてしまって。髪型変えたの、可愛いね。」

 すぐ傍でアザミが満足そうな様子を見せている。どうやらアザミ推定の彼好みコーディネートは完璧だったらしい。

「ありがとう。アザミが結ってくれたんだ。似合うかな?」少し気恥ずかしそうな表情でマリアが答える。

「凄く。似合ってるよ。」フロリアンの言葉にマリアは満面の笑顔を返した。

 初々しさが漂う二人の様子を静かに眺めていたアザミが頃合いを見て挨拶をする。

「おはようございます。フロリアン。」

「おはようございます、アザミさん。今日も宜しくお願いします。」

「こちらこそ。」

「今からどこに向かうんですか?」

 フロリアンの質問にはアザミの代わりにマリアが答えた。

「それについてだけど、本題は午後にして午前中は少し観光を楽しもうと思っている。昨日の夕方のように重たい話ばかりでも良くない。まずはマーチャーシュ聖堂を見に行ってみないかい?」

 ハンガリーにおける観光名所の一つとして名高いマーチャーシュ聖堂。正式名称は【聖母マリア聖堂】である。

 中世の時代にゴシック様式で建てられたこの教会は歴代国王の戴冠式や結婚式が行われた場所としても有名であり、荘厳な外観の美しさは多くの人々を虜にしてきた。

 付近の三位一体の像や漁夫の砦と併せてその美しさを堪能する為に世界各国から大勢の観光客が訪れている。

「いいね。行ってみよう。」

「決まりだ。とても良い天気だし車で行くのも味気ない。歩いて行こう。」

「賛成だ。ここからならニ十分くらいかな。」フロリアンが手元のデバイスで道順を確認する。

「そうだね。きっとそのくらいの時間で着くと思う。」マリアは笑顔で返事をした。


 マーチャーシュ聖堂はドナウの真珠と称され世界遺産に登録されるブダ城地区、通称王宮の丘の敷地内にある。

 観光で王宮の丘へ登る為には鎖橋を渡り切り、さらに奥に進んだ先にあるケーブルカーを使うのが一般的ではある。

 ケーブルカーを利用すればすぐに王宮の丘を登る事が出来、ブダ城城門へと辿り着く事が出来る。もちろんこの方法とは別に丘のたもとから徒歩で直接マーチャーシュ聖堂へ訪れる事も可能だ。

 今回、付近の街並みを眺めながら行く事にした三人は、ケーブルカーは使わずに敢えて徒歩でマーチャーシュ聖堂まで向かう事にした。

「では、私はお二人を眺めながら写真を撮らせていただきますね。」楽しそうな様子でアザミが写真係を買って出る。

「最高のショットを期待しているよ。構わないかい?フロリアン。」

「もちろん。旅の思い出は多いほど良いからね。」マリアの確認に快く即答する。

「では、早速向かうとしよう。」

 マリアの掛け声で三人はマーチャーシュ聖堂へ向かって歩き出した。


                 * * *


 ホテルの一室ではレオナルドとフランクリンが午後の総会に向けて最終的な打ち合わせをしている最中だ。

「昨日の内容についてセントラルからシステムによって多角的に分析させた結果です。」

「想定通りの分析結果だな。」


 レオナルド達の世界特殊事象研究機構では公式には発表していない超高性能AIを使用した情報処理統括システムが存在している。

 その名をプロヴィデンスという。【神が全てを見通す目】の意から付けられたこのシステムはデータベースに蓄積された膨大な情報を元に新型AIが多角的分析を行う事であらゆる事象に対する予測演算が可能なシステムだ。

 昨日、エルジェーベト公園においてマリアが興味を示していた高性能コンピュータとはこのシステムの事を指す。

 対外的には非公表であり機構における機密扱いである為、その存在を知る者は機構に在籍する人間に限定されている。

 また、機構に在籍していたとしてもこのシステムが持つ処理能力の全容まで把握している人間となると人数は限られる。


 昨日の総会での各国の発表内容や総会後の各国の反応、またメディアが流していた情報を元に過去類似する状況においてその後の世界世論の動きがどうなったかをまずシステムのデータベースから抽出させ、そのデータを元に今日の質疑において想定される質問などの予測と最適解となり得る回答の導き出しまでをセントラルへ命じて分析させていた。

 結果は、レオナルド達が想定した分析結果とほぼ同じものであったが、細部の分析については予想していないものも含まれている。

 これから二人で行うのは、これらの情報を元にした最終的な詰めの作業である。


 レオナルドがシステムが分析を行った結果の資料に目を通していると、フランクリンが声を潜めながら総会とは直接関連のない話を持ち出した。

「それと、総監。お耳に入れておきたい情報があります。昨夜、私のデバイス宛にこのようなデータが届きました。」

 フランクリンは自らのデバイスが受信したデータをレオナルドに見せる。

 それは何の変哲もない景色を切り取った一枚の写真だ。差出人はCirsiumとなっており、ファイル名は〈アシュトホロム〉と付けられている。

「どこから送られたものかは不明です。メールヘッダは意図的な改竄が施されていて発信元の特定は困難でした。ファイル自体には特別な細工はされていません。ファイル付加情報を見ましたが、ただの旧式のデジタルカメラで撮影した画像でした。」

「キルシウム?」

 その単語を聞いてレオナルドは思い当たる節があった。

 キルシウムとはある花の学名に用いられる言葉だ。その花の名は “アザミ” である。

「はい。その差出人の名前から推測するに…」

「あの二人か。」フランクリンが言うよりも前に浮かんだ答えを口にする。

「ここまで徹底されているとなると、なりすましという線も薄そうです。それ以外考えられないかと。」

「しかし、どうしてこの写真一枚だけを。」

「私も不思議でした。手の込んだ送り方をする割に意図が汲み取れない。あの二人らしいといえばそうなのですが…ただ、しばらく眺めていて気付いた事があります。ここをよく見て下さい。」

 フランクリンが示した場所は一見ただの景色の繋がりに見える。

 しかし、よく観察してみるとやや空間が歪んでいるようにも見える。それはカメラの撮影によるブレなどに起因するものとは思えない。

 本来そこにあるものに対して、周囲の景色を無理やり被せる事で消したようなイメージだ。例えるならば画像合成ソフトを用いた編集画像に近い。ただしそれは遠い過去における画像編集での話ではあるが。

 その時レオナルドはあるひとつの推測に行き当たった。

 例の二人から送られたと思われる画像。アシュトホロムというタイトル。今この地で起きている事件。捕まらない犯人。二人がこの地を訪れた理由。

「ゼファート司監。この画像を直ちにセントラルへ転送して解析するように指示を出し給え。もちろん機密扱いとしてだ。結果が出次第すぐに私のデバイスに報告をするように伝えてくれ。」

「承知しました。」

 レオナルドはこの予感が確信めいたものに感じられた。解析結果が届いた後に、この件について送り主にどういう意図で送ってきたのかは直接聞いてみなければなるまい。総会が始まる前には結果が届くだろう。

「嵐が来るな…」

 レオナルドは小声で呟いた。


                 * * *


 鎖橋を渡り終え、フニャディ・ヤーノシ通りからマーチャーシュ聖堂に向かって三人は歩いていた。

 先程鎖橋を渡り終えたところから見たブダ城の感想をマリアとフロリアンは話し、その少し後ろではアザミが嬉しそうに二人を写真に収めていた。

 通りを道なりに進むと左手に細い階段が見えてくる。その階段を上り通路をさらに進んで行けば目的地だ。


 三人は通路を通り抜け、ついにマーチャーシュ聖堂の目の前に出た。

 右を向くと漁夫の砦の回廊が聳え立ち、聖イシュトヴァーンの騎馬像が観光客たちを出迎えている。

 左を向くと遠くに金色の十字架を掲げた三位一体の像が見えた。

「到着。これはまた素晴らしい眺めだ。」左右を見渡しながらマリアが言う。

「本当に美しい場所だね。どこを見ても芸術そのものだ。」

 現地は多くの観光客で賑わいを見せている。

 すぐ傍の騎馬像は記念撮影スポットとしても有名で、既に多数の人が像の周囲で撮影を楽しんでいた。

 騎馬像そのものを撮影する人、騎馬像と共に写る人、最高の角度からの撮影をしようと人通りが途切れる瞬間を待つ人など様々だ。

「フロリアン、私達も写真を撮ろう。」マリアが笑顔で提案する。

「もちろん、良いとも。」

「では、アザミ。よろしく頼むよ。」フロリアンの返事を聞いたマリアがアザミに催促するようにお願いした。

「はい、最高の写真をお撮りいたしましょう。」


 アザミは聖イシュトヴァーンの騎馬像を始め、漁夫の砦、三位一体の像、マーチャーシュ聖堂とそれぞれを背景にマリアとフロリアンの写真を撮影していく。

 写真を撮影していく中で、フロリアンはふと疑問に思っていたことをアザミに聞いてみることにした。

「アザミさんは一緒に写らないんですか?」

「えぇ、私は撮影専門ですから。撮られる事には慣れていないのです。」フロリアンの質問に苦笑した様子でアザミは返事をした。

「へぇ?フロリアンはアザミとも写真を撮りたいのかい?私だけでは不満かな?」

「まさか。せっかくだから、三人で撮影出来たら良いなと思ってね。」

 笑顔でフロリアンが即答する。マリアは少し茶化すように言ったつもりだが、どうやらフロリアンには通じなかったらしい。冗談とはいえ、何割かは本音も混じっていたのだが仕方ない。

 真っすぐな彼らしいと思いつつ、すぐに彼の意見に賛成だとアザミに提案した。

「そうだね。アザミもたまには良いんじゃないかい?フロリアンの言う通りせっかくだ。私も三人で撮影した写真が欲しい。」

 アザミは少し悩んだ。しかし、彼だけならまだしもマリアからも催促されては断るわけにはいかないだろう。いつも通り気乗りはしないが承諾する事にした。


 三人は話し合いの末、マーチャーシュ聖堂を背景に撮影する事に決めた。

 通りがかりの観光客に三人を撮影してもらうようアザミが交渉に行く間、マリアは先程の話の続きを始める。

「私も昔から不思議なんだけどね。写真を撮るのは大好きなのに撮られるのは凄く苦手らしくて。アザミとは長く一緒にいるけど、二人で撮影した事は数えるほどしか無いんだ。」

「それは意外だね。てっきりたくさん一緒に撮影しているのかと思ったよ。」

 その話を聞いてフロリアンは意外だと思った。マリアもなぜアザミが写真に撮られるのが苦手なのかについては知らないらしい。

 マリアは首を横に振りながら答える。

「自分は撮り専だって言ってね。だから君は凄くラッキーだ。アザミが撮影に応じてくれるなんて奇跡だよ。」

 フロリアンはアザミの口から〈撮り専〉というような言葉が出てくるところを想像すると何とも微笑ましい気持ちになった。

 昨日出会ってから今日この瞬間まで、彼女にはおおよそ弱点や欠点といったようなものが何一つ見当たらなかったのもある。

 何から何まで完璧に見えた人物の弱点が写真に撮られる事とは。ひとつお互いの事を分かり合えた事も嬉しかった。


 すると交渉に行っていたアザミが二人のところに戻ってきた。

「お待たせしました。彼が撮影してくださるそうです。」

 そう言うとアザミはカメラを老紳士風の男性に手渡した。

 三人が撮影ポイント移動すると撮影を頼まれた男性がにこやかな笑みでカメラを構えて合図をする。

「では撮影するよ。」

 男性の言葉に三人はカメラに向かって笑顔を向ける。マリアに促されたフロリアンが真ん中へ行き両脇にマリアとアザミが肩を寄せる。

 撮影が終わると男性はカメラをアザミに渡しながら撮影した写真のデータを確認する。

「これで良かったかな?」

「はい、素晴らしい写真です。ありがとうございます。」

「いや何、素敵なお三方だからね。撮影するだけで素晴らしい画になるというものだ。では、私は失礼するよ。」

 マリアとフロリアンも礼を言うと男性は手を振って去って行った。

「どれどれ?ほぉ、とても良い写真が撮れたね。アザミ、少し緊張していたのかい?」

「はい。慣れませんから。」マリアの言葉に気恥ずかしそうにアザミが返事をする。

「凄く綺麗だ。」写真を見たフロリアンが目を輝かせながら言う。

「君はそういう事を言うのに本当に躊躇しないね?とても良いと思う。」

 マリアが笑いながら言う。フロリアンは今まで特に言われたことが無かったので意識した事がなかったが、考えてみたら臆面なく言うにはやや恥ずかしい事を今までの人生でもたくさん言ってきたような気がした。

 それでも素晴らしいと思った事を素晴らしいという事に今後も躊躇う事はきっと無いだろうと思った。


「さて、外も見て回ったし今度は中も少し覗いてみよう。今日はクリスマスコンサートがあるらしい。」楽しそうな表情でマリアが言う。

 マーチャーシュ聖堂ではクリスマスコンサートが催されているらしい。聖堂の主祭壇をステージにしたコンサートで少年合唱団が讃美歌を合唱しているそうだ。

 三人は付近のチケット売り場へ向かい、入場チケットを購入すると早速聖堂内へと向かった。入口は正面の扉ではなく、観光客用に解放されている専用の場所を通る。


 観光客用の通路を通り聖堂内部へと辿り着く。外から一歩中へ足を踏み入れるとそこには別世界のような空間が広がる。

 昨日、国立歌劇場で体験した黄金劇場と呼ぶにふさわしいあの空間に匹敵するような豪華絢爛な金色の内装が見る者を惹きつける。

 太陽の光を受けて煌めくステンドグラス。そこから降り注ぐ光が聖堂内を一層輝きで満たしている。

 奥の主祭壇では少年合唱団が讃美歌を合唱している最中であった。

 現在の曲目は【Hark! The Herald Angels Sing】。フェリックス・メンデルスゾーンの作曲したクリスマス讃美歌である。

 天から光が差し込むと形容するのがふさわしい幻想的な聖堂内に少年たちの美しい声が響く。光を浴びながら歌う少年たちの姿は神の御使いである天使のようにも見えた。

 三人は揃って少しだけ奥へ歩いて行き静かに讃美歌に耳を傾ける。


                  *


 目に見える全てが、耳に届くすべてが息を呑むほどに美しい。仮に天界と呼ばれる場所があるのならこういった場所を指すのではないかとすら思う。

 目の前で歌う少年たちの歌声はまさに天使の歌声だ。フロリアンはそう思っていた。

 視覚と聴覚から感じられる圧倒的な美しさに心奪われていたが、ふと隣に目を向けるとマリアが目を閉じ祈るように両手を組んで少年たちの歌声を聴いている事に気付いた。アザミはその横でじっと佇み静かに少年たちの歌声に耳を傾けている。

 フロリアンは祈るように佇むマリアの美しい横顔に国立歌劇場の時と同じく見惚れた。それは触れれば壊れてしまいそうなほど儚げでもあり、繊細で透き通るような美しさだ。

 まるで現実世界から隔離されたかのように時の流れがゆっくりに感じられる。今、フロリアンの耳には少年たちの歌声はほとんど届いておらず、聖堂内の幻想的な景色もその視界に捉えられていない。

 自らの隣に佇む少女の輝きに完全に心を奪われていた。

 しばらくしてマリアがふと目を開ける。隣からの視線に気付いたマリアはフロリアンの方へ顔を向け、可愛らしい笑顔を見せた後に再び前を向く。

 ルビーのように美しく吸い込まれそうな程澄んだ瞳。彼女のその目で見つめられると呼吸をするのすら忘れそうになる。

 フロリアンは意識を現実に引き戻し、視線を少年合唱団へと向けると再びその歌声に聞き入った。


                  *


 少年達の合唱が終わると聖堂内は拍手に包まれる。何もかも忘れさせてくれるような時間だ。マリアは深く息を吸い静かに深呼吸をする。

 嫌な事なんて何一つない。たった一瞬でもそう思わせてくれる彼らの歌声が実に心地よかった。

 この後に起きる現実を知る自分にとってこれはひと時の慰めであり、ひと時の安らぎであり、ひと時の夢である。



 今でも隣にいる青年を巻き込む事が正しい選択だったのかと自問自答している。昨日の朝、私は自分自身の意思で選ぶことが出来た。彼を巻き込まないという選択を。

 先の見えている未来などつまらないと思う事もあったが、先の見えない未来というものが不安なものであった事を思い出す。

 先程彼が自分の横顔に見惚れていた事には最初から気付いていたが、ずっと気付かないふりをしていた。

 昨日、彼を目的達成の為の駒として扱う事を決めた私には、そんな彼の純粋な眼差しが辛かったのだ。


 私は君が思う程綺麗な女ではない。美しいものではない。


 心の中でずっとそう思っていた。

 今朝アザミは私を優しいと言ってくれたが、それは違う。私は傲慢な人間だ。

 これでは、あの王妃になるはずだった親友の事を責める事は出来ない。私自身もとても傲慢な人間だったのだ。

 怒りと嫉妬と憎悪によって世界に絶望し歪んだ人間。隣にいる彼の純粋さに触れてしまえば、それを壊してしまいそうになるくらいに狂ってしまっている。

 だが、どうしてだろうか。私の中に沸き起こる感情はそんな醜い自分を理解していながら、それでも期待してしまっている。彼ならば或いは…


 それは彼にお父様の面影を重ねているからというだけではない。もっと別の、言葉では言い表す事の出来ない何かがある。

 千年。今まで生きてきた間にも多くの人々と出会ってきたが、彼のような人間はただの一人もいなかった。

 しかし、彼が本当の私というものを知った時の事を考えると、私の弱い心はとても耐えられそうにない。

 酷い女だと蔑むだろうか。傲慢で醜い女だと嫌うだろうか。世界に必要の無かった女だと拒絶されるのだろうか。今はそのどれもが恐ろしく感じる。

 人の未来を視る事が出来るという事は、その人の心の在り方を読み解き暴き出す事に等しい。

 そんな行いを平然としてきた自分自身が、人から心を読み解かれ、自分という人間の真理を暴かれるという事をこんなにも恐ろしいと感じている。

 今頃になってアザミが自身を写真に撮られるのが苦手だという理由が分かった気がした。


 それでも、私は立ち止まるわけにはいかない。目的の為に何もかも捨て去ってここまで来た。

 生まれ育った祖国を失い、愛した家族を失い、誰からも必要とされず、誰にも受け入れられなかった自分を救ってくれた彼女さえ傍にいてくれるならばそれで良いのだ。他に欲しいものなどあるはずがない。


 いや、何も求めてはならないのだ。


 彼を興味以上の関心事と捉えてはいけない。 “その感情” は抱いてはならない。

 そもそも、彼と自分では担う立場や住む世界がまるで違う。最後まで同じ景色を見る事は出来ない。

 何を悩む必要も無い。ただ、果たすべき目的の為に。求めた理想の実現の為に。それで良い。それで良いのだ。

 …それで良いはずだ。



 マリアが自問自答を終えた時、少年合唱団は次の演目を歌い始めた。

 その歌は【Holy, Holy, Holy, Lord God Almighty,】であった。預言者イザヤの見た神の幻、使徒ヨハネに与えられた啓示のパラフレーズによる讃美歌である。

 その内容を浮かべて思わずマリアは自身の事を嗤った。


 私の穢れ、私の悪、私の罪は清められる事などあるのだろうか。

 私の罪を裁く為に、醜悪な私の唇に熱した炭を押しつけてくれるものなどあるのだろうか。

 でも今はほんの僅かな時間で良い。この夢が、もう少しだけ長く続きますように。

 

 マリアは虚ろな瞳で前を見据えたまま美しい讃美歌に耳を傾けた。

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