第5節 -少女の瞳が宿すもの-

 時刻は午前9時を指そうとしている。

 エルジェーベト広場から歩き始めて数分後。マリア達はゼルヴィタ広場にある目的の店に辿り着いた。この店は手頃な価格で見た目も華やかな美味しい料理が食べられるカフェとあってブダペストで大人気の店である。

 店の建物の正面はよくあるコンクリートなどの外壁ではなく、たくさんの光を取り込めるように一面がガラス張りになっていてとても開放的だ。その開放的な外観を作り出すガラスの上に設置された四つの照明もお洒落な形をしている。外から見る店内の様子はとても明るい。

「到着。お洒落なお店だね。早速中に入ろう。」マリアは嬉しそうに言うと入り口へと向かった。アザミとフロリアンも後に続いて入店する。


 白で統一された空間はとても明るく、温かな暖色のライトが照らす店内は外から見るよりもさらにお洒落で優雅に見えた。

 入口付近にある花飾りが可愛らしさを演出し、落ち着いた色の椅子とテーブルが上品さを引き立てる。

 席は満席に近く、自分達と同じく朝食を楽しみに来た多くの人で既に賑わっている。

「おはようございます。」入店した三人を笑顔のスタッフがすぐに出迎えてくれた。

「おはようございます。三名ですが席はありますか?」

「はい、それではこちらのお席へどうぞ。」アザミが人数を伝えるとすぐに奥にある四人掛けのテーブル席へと案内された。

 奥のテーブル席に辿り着くとアザミとマリアが手前の席に、その向かいにフロリアンが座る。

 三人が着席して一息ついた頃、メニュー表をスタッフが持ってきてくれた。

「こちらがメニュー表です。後程オーダーを伺いに参ります。ごゆっくりどうぞ。」

「ありがとう。」アザミがスタッフへ礼を言う。


 まだ入店して着席しただけだが、この雰囲気だけで既に心が躍る。フロリアンはそう感じていた。手渡されたメニュー表に並ぶ料理もどれもおいしそうだ。

「楽しそうな顔をするね。フロリアン。とても良い。さて、先ほどのお詫びだ。私達がごちそうするから、どのメニューを頼んでもらっても構わないよ。」微笑みながらマリアがフロリアンに声を掛ける。

「ありがとう、マリー。でも本当に良いのかい?」マリアに返事をした後に隣のアザミへも視線を向ける。

「素直にごちそうになってくれたら良い。でないと、私の気持ちが落ち着かない。」フロリアンの問いにマリアが返す。

「マリアがこう言うのですから、お気になさらなくて大丈夫です。わたくしからもお願いします。」隣でアザミも同意する。

「では、お言葉に甘えさせてもらいます。」

 フロリアンの言葉にマリアは笑顔を返した。


                 * * *


 午前9時。エルジェーベト公園で息抜きの散歩を終えたレオナルドとフランクリンはホテルに引き返し始めていた。

 午後から始まる総会に備え、これから資料の最終確認や準備をしなければならない。


「それにしても、まさか彼女達がここにいるとは思いませんでした。」ふいにフランクリンが先程のマリアとの一件を振り返る。

「そうだな。正直私も驚いた。国連主催の総会が開催されるにあたって、この地を訪れていたとしても不思議ではない…だが、彼女達は決して表舞台に立つような人物でもないし、その立場からしても公の場に姿を見せるなどという事は決してないだろう。」

「どういった目的なのでしょう?」フランクリンは素直に思った疑問を口に出す。その疑問に対してレオナルドは自身の見解を述べた。

「こういった時期に彼女達がわざわざ直接他国を訪れるという事は、それなりに事情があるはずだと私は思っている。肝心な目的は分からないが、まさか本当に観光の為だけに訪れたとは到底思えない。 “予定” と話していた件がどうにも引っかかるな。」


 観光に来たというのは部分的に見れば確かに真実なのだろう。しかし、彼女達の立場を考えるとどうにもそれだけが目的でわざわざこの地を訪れたとは思えないというのが二人の共通の考えであった。

 何か他にある。そう感じさせるだけの要素はあったが、いつもの事ながらあの二人が何を考えているのかはまるで掴むことが出来ない。

 予定と言っていた件が何を指すのかが分かれば疑問は解決するのかもしれないが…

 同時に気になるのは彼女達と共にいた青年の事である。仮に観光目的以外の対外的に知られてはならない仕事の為に訪れているとすれば、出会ったばかりの青年を連れて朝食へ向かうなどという事は有り得ないはずだ。

 そうなるとやはり本当に純粋な観光なのだろうか。レオナルドとフランクリンの中で疑問が渦を巻き始める。


「あの二人が純粋に観光を楽しむようなタイプの女性であれば、私も幾分か気が楽なのだが…」溜め息混じりにレオナルドが言った。

「動向を気にする必要はない、という手合いであれば良かったのですが。彼女達の場合は少しでも油断をすれば厄介事に巻き込まれるでしょうね。それが恐ろしいところです。」フランクリンが返事をした。

 レオナルドとフランクリンが彼女達と遭遇した時に顔をこわばらせたのには理由がある。端的に言えば何らかの厄介事に巻き込まれるケースが多いからだ。

 国連総会を間近に控えた今、そう言った厄介事は遠慮願いたいというのが紛れもない本音である。

「先程もそうだったが、彼女の瞳の奥に湛えられた仄暗さというのは独特のものがある。あの深淵を興味本位で覗き込めば、すぐに奈落の底に落とされそうだ。」レオナルドはマリアからいつも感じている独特の感覚を言葉にした。

「深淵を覗く、ですか。まるでニーチェですな。」フランクリンの返事にレオナルドは相槌を打つ。

 マリア達の本当の目的と珍しく共に連れていた青年の事も気になったが、今は自分自身と自分達が背負う未来の事を考えなければならない。

「出会ってしまった以上、彼女達の動向も気にはなるが今は総会に集中しよう。」

「出来れば今、嵐には巻き込まれたくはありませんからね。」

「君も苦労しているな。フランク。」

 珍しく溜め息をつきながら呟いたフランクリンを見てレオナルドは労いの言葉をかける。

 彼女達から何か連絡がある度、そのペースに引きずられて大変な苦労をしている事を知っているからだ。

 そして彼の言う【嵐】という表現は良い得て妙だと感じた。フランクリンが本人へ言う事はまずないだろうが、それをマリアが聞いたらどんな表情をするのかレオナルドは少し気になった。

 今はその嵐に巻き込まれるわけにはいかない。二人は視線を真っすぐ向けて、自分達の務めを果たす準備をする為にホテルへと歩みを進めた。


                 * * *


 三人とも注文を済ませ料理の事について談笑をしてしばらくの後、頼んだ料理が目の前に運ばれてきた。

 フロリアンは悩んだ結果クロックムッシュとサラダ、飲み物にコルタードをチョイスした。

 クロックムッシュはフランス生まれのメニューでパンにハムとチーズを挟み、バターを敷いたフライパンで焼き上げたものに様々なソースをかけたものである。

 コルタードはスペインで親しまれる飲み物で、温かい牛乳とエスプレッソを同量の割合で混ぜた飲み物だ。イタリアのマキアートがとてもイメージに近い。

 マリアは特製ホイップクリームとバニラアイスにイチゴがトッピングされたベルギーワッフルとロイヤルミルクティーを、アザミは季節のフルーツとアイスクリームが添えられたシナモンクリームのフレンチトーストとフレッシュオレンジジュースを注文していた。

 今しがた運ばれてきた料理を前にマリアが目を輝かせている。

「どうぞお召し上がりください。」料理を運び終えたスタッフが一礼をして去っていく。

「とても美味しそうだね。では、早速頂こう。」マリアの言葉を合図に三人が食べ始める。

 フロリアンはマリアが一口食べて幸せそうな表情を浮かべるのを見て思わず頬が緩んだ。見ている方が幸せになる笑顔だ。

 隣にいるアザミも時折マリアの方を見ながら同じように微笑んでいる。おそらくは今の自分と同じ事を考えているに違いない。

 この二人は本当に仲が良いのだろうと感じられた。いや、仲が良いというよりは家族そのものに見える。しかし母と娘…にはとても見えない。姉と妹とも違う。

 アザミが自身に話してくれた内容を考慮すると、おそらくこの二人が血縁ではないだろう事は想像できる。親戚だろうか。

 …いや、何だって良いのだ。自身が詮索をするべき事柄では決してない。そのような推察を行うのは失礼にもほどがある。こんな考えをするのはやめよう。フロリアンはそう考えた。

 幸せそうにワッフルを口に運ぶマリアと、彼女を見守るようなアザミの様子を眺めつつフロリアンは自分のクロックムッシュを口に運ぶ。

 バターの香りに包まれた絶妙な焼き加減のパンからとろとろのチーズが溢れ出す。口に入れた瞬間にここを選んで正解だったと悟る。フロリアンは心からそう思った。


 フロリアンがクロックムッシュを食べながら幸せを噛み締めていると、マリアが話しかけてきた。

「そういえば、さっきは自己紹介だけでまだお互いの事は何も話してなかったね。君は観光でここに来たのかい?」

「観光でもあるんだけど、僕は自分の知らない事を知る為に世界中の色々な国を旅していてね。それで旅の最後に訪れたのがこの国なんだ。」

「へぇ、知らない事を知る為の旅か。それは楽しそうだ。例えばどこに行ったんだい?」マリアは興味深そうな面持ちでフロリアンの話を聞く。

 彼女の美しい赤い瞳に見惚れそうになりながらフロリアンは話を始めた。

「祖国のドイツを出た後はまずフランスやスペイン、イタリアといった近くの国を回ったんだ。そして欧州を出てアメリカやカナダ、その後は南米に渡ってペルーに行ったりしたよ。」

「アジアの国々へは行かなかったのですか?」アザミが質問をする。

「もちろん行きました。南米を離れた後に中国や日本、それからシンガポールやベトナム。カンボジアのアンコールワットは凄かったですよ。」

「なるほど、とても良い旅をされてきたのですね。貴方のその表情を見ているとそれが伝わってきます。」アザミが返事をする。

「様々な体験をして、色々な事を知る事が出来ました。自分でも良い旅だと思っています。マリーとアザミさんは観光でここに?」今度はフロリアンが二人に同じ質問をする。

「そうだね、私達も基本的には観光だよ。クリスマスバカンスというニュアンスが近いかな。他にも個人的な用事があるのだけれど、ひとまずそれは置いておこう。」マリアが答える。

 その隣でアザミがマリアの発言に対して、意外な事を言ったという様子を見せたのがなぜかフロリアンには印象的に映った。

「それにしても知らない事を知る為の旅、か。あの言葉を思い出すね。“無知の知” という言葉を知っているかな?」

「ギリシャの哲学者、ソクラテスの考え方だね。」マリアの質問にフロリアンは答えを返す。

「その通り。自分の知識の不完全性に気付く事が出来るものは、それだけで優れているという考え方だ。中国にも同じ趣旨の言葉が確かあったけど…そうだね、フロリアン。君は本当に良い旅をしている。」そう言って笑うマリアの表情は、出会ってから僅かな間ではあるが今まで見てきたどの笑顔とも違うものに見えた。


 彼女のその言葉を聞いた時、フロリアンはこの少女の事がさらに気になった。

 外見的な美しさだけではない。この少女は見た目以上に達観した考え方や知見を持ち合わせている。美しく澄んだ赤い瞳の奥に、まるで別次元の世界を内包しているかのように感じられた。

 出会ってから一時間も経っていないはずだが、彼女と話していると自身の事を全て見抜かれているような錯覚すら覚える。

 今までの人生で出会ってきたどんなタイプの人々とも違う。まだ、そう長く人生を過ごしているわけではないが、間違いなく過去に出会ったことが無いタイプの人物である。とても奇妙な感覚だ。

 もしかするとこの少女は自分が探し求めている答えを知っているのかもしれない。直感的にそう感じていた。


「少し話が脱線してしまった。フロリアン、もっと君の旅の話を聞かせて欲しい。今度アザミと旅行に行くときの参考にしたい。」無邪気な笑顔でマリアがフロリアンに話の続きを催促する。

「それならお安い御用さ。」その注文にフロリアンは快く応じた。

 それからしばらくの間、三人は美味しい料理を囲みながら会話に花を咲かせ、楽しい朝食のひと時を過ごした。

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