第4節 -邂逅-
今日も外は冷え込む。この季節には珍しく太陽の光が降り注いでいる為幾分かは暖かいが、それでも寒気が身に沁みる。
フロリアンはアラニ・ヤーノシ通りからオクトーベル6.通りへ入り真っすぐ歩いていた。
付近にはドーナツ店、洋菓子店や中華料理店、イタリア料理店などの飲食店が多く立ち並んでおり、屋外の飲食スペースも既に朝食を楽しむ多くの人々で賑わっている。
今日がクリスマスイヴだからだろうか。家族連れ、恋人同士と思われる人が目立つ。外気は冷えるが、多くの人が楽しそうに会話を楽しむ姿はとても温かいものだと感じる。
辺りを見ながら歩いているとどこからともなくコーヒーの良い香りが届いた。今しがた通り過ぎたコーヒーショップからのものだ。少し誘惑されそうになったが目的地はまだ先である。
フロリアンはコーヒーの香りの誘惑を振り切りズリーニ通りと交差する道を抜ける。通りの両脇には他にもステーキ店、タイ料理店、ハンバーガー店なども立ち並ぶ。
このまま進むとヨージェフ・アティッラ通りに出る。目的地はまだ先で、エルジェーベト広場からベーチ通りへ入り、そこからさらに進んだゼルヴィタ広場付近にある。
祖国と同じ欧州の地ではあるが、異国の地を歩く時というのは何とも楽しいものだ。
いつもと違った景色、その地でしか出会う事ができないもの、そして人々。自分の知らない世界を見たいという思いは、そういった景色を見て回る事で満たされていく。
街並みを見渡して感慨に耽りながら歩き、メールレグ通りと交わる路地にフロリアンが差し掛かったその時。
「きゃっ!」
曲がり角から歩いてきた人とぶつかる。
フロリアンは直前に一瞬黒い人影が見えたので咄嗟に避けようとしたが間に合わず、悲鳴の主は勢いよく転倒した。
「すみません!大丈夫ですか?」
転倒した人物に声を掛ける。相手は金色の髪に黒のゴシックドレスを纏った十代半ばほどに見える少女だった。
「こちらこそ申し訳ない。私が前を見ていなかったから。」少女は謝罪の言葉を述べる。
「いえ、僕も街を見る事に夢中で。お怪我はありませんか?」そう言いながら少女へ手を差し出した。
「大丈夫。ありがとう。」少女が返事をしてフロリアンが差し出した手を取ろうとしたその時、一瞬だが少女の動きが硬直したような気がした。
「やはりどこか痛みますか?」
「いや、何でもない。すまない。」一瞬の間の後に笑顔でそう答えた少女は立ち上がった。
少女がどこも怪我をしてなさそうな様子にフロリアンは安堵した。
それと同時に、改めて見た少女のその美しさに息を呑んだ。緩やかなウェーブのかかった金色のミディアムヘアにとても美しく透き通った赤色の瞳。均整の取れた容姿。
何と形容したら良いのか言葉が浮かばない。強いて言えばドールのような可憐さと愛らしさと美しさがある。
これまでの人生でこれほど女性を美しいと感じた経験は初めてであった。
また、先程は焦っていて気付かなかったが少女の後ろにもう一人、全身黒色のロングドレスを纏った長身の女性が佇んでいる。
つばのとても広い帽子、キャペリンを深く被りさらにベールで顔を覆っている為、口元以外の表情は全く見えないが目の前の少女と同じような美しさと気品が感じられる。
「おや、君もこれからそこに行く予定なのかい?」フロリアンの携帯端末に表示された地図データを眺めながら目の前の少女が尋ねてきた。
二人に見とれていたフロリアンはその言葉で我に返る。
「はい。朝食をとりに行くところです。君も、という事はお二人も?」
「そのお店のモーニングがとても美味しいって聞いてね。私達もこれから食事に行くところなんだ。」フロリアンの言葉に満面の笑みを浮かべながら少女は答えた。そして少女は続けて言う。
「そうだ。もし良かったら一緒に行かないかい?」
「はい、構いませんが。良いんですか?」フロリアンは少女の言葉に後ろに佇む女性が少しだけ驚いたような様子を浮かべたのを見て思わず聞き返した。
「こちらの不注意でぶつかったお詫びがしたい。朝食をごちそうするよ。構わないだろう?アザミ。」フロリアンの返事の意味を瞬時に察したのか、少女は振り返りながら女性に確認をする。
「えぇ、もちろん。貴女が “そう望むなら”。」女性は快く承諾する。
「決まりだね。ここで会ったのも何かの縁かもしれないし、朝食に向かう前にひとまずお互いに自己紹介をしておこう。私の名前はマリア。マリア・オルティス・クリスティーという。マリーと呼んでくれて構わないよ。」変わらずに無邪気な笑みを浮かべて少女は自己紹介をする。続けて後ろの女性も名乗る。
「アザミと申します。」
そして最後にフロリアンが二人に名前を伝える。
「フロリアン・ヘンネフェルトと言います。」
「フロリアン、フロリアン。とても良い名前だね、よろしく。フロリアン。」そう言うと少女は手を差し出し握手を求めてくる。
フロリアンは少女のあまりに眩しい笑顔を前に戸惑いつつも握手に応じた。
「ヘンネフェルトさんとお呼びしても?」アザミが言う。
「いえ、フロリアンで構いません。」
「承知いたしました。そのように致しましょう。」アザミが頷きながら返事をした。
「では、早速だけど朝食に行くとしよう。」マリアは嬉しそうにそう言うと先頭を歩き出す。
「さぁ、参りましょう。」マリアの様子に見惚れていたフロリアンだが、アザミの言葉に促されて我に返り一緒に歩き出した。
三人は揃ってオクトーベル6.通りを抜けてヨージェフ・アティッラ通りへと出た後にエルジェーベト広場へと渡る。
広場沿いの通りを歩いて行くと、ふとマリアが何かに気付いた様子で言った。
「おや、あそこにいるのは…すまない。少し待っててもらえるかな?」フロリアンとアザミにそう伝えると、マリアはエルジェーベト公園のベンチに座る二人の男性の元へと歩み寄って行った。
ベンチには体格の良い男性と、その隣に初老の男性が二人並んで座っている。
彼女の知り合いだろうか。少女を視界に捉えた相手の表情がややこわばっているように見えるが気のせいだろう。フロリアンはその様子を眺めながら思った。
アザミと共に言われた通りその場で戻るのを待つ。するとアザミがふいに話しかけてきた。
「先程は申し訳ありません。後ろ向きで歩いていると危ないと言ったのですが…」
「いいえ、気にしていません。僕も周囲を見る事に夢中でしたから。何より、彼女に怪我が無くて良かった。」
先程の衝突についての謝罪だったが、フロリアンは偽りや建前無く本音で返事を口にした。前を見ていなかった自分にも非があると思っていたからだ。
「ありがとうございます。これは余談ではあるのですが…実の所、マリーが貴方を朝食に誘った時は失礼ながら少し驚きました。あの子は初対面の方を相手に自ら誘うという事はありませんから。」
その言葉を聞いてフロリアンは先程彼女が驚いた様子を見せていた理由に納得した。
「そうだったんですね。でもなぜその話を僕に?」
「貴方がわたくしの方を見て尋ねられたからです。良いのですか?と。きっとわたくしの様子を見て、わたくしが本当は快く思っていないのではないかと思われたからそう問い掛けられたのでしょう?故にきちんと本当の事を伝えておかなければ失礼かと思った次第です。何より、貴方はマリーが自ら望んで声を掛けた方ですから。」
フロリアンの問いにアザミは迷いなく言葉を返した。最後の言葉は少し引っかかったが、全て偽りない心からの言葉だろうとフロリアンには感じられた。
「お二人は仲が良いんですね。」
二人の様子を眺めていて思った事をフロリアンは素直に言葉に出す。だが、そう言った瞬間に失言だったかもしれないと思い至って慌てた。
彼女達がどういった関係かを知らないまま不用意に言うべき言葉では無かった。しかし、アザミから帰ってきた言葉はとても落ち着いた肯定的なものであった。
「えぇ、とても長い付き合いになります。あの子とは、ずっと一緒に過ごしてきましたから。」
そう言う彼女は心なしか少し微笑んでいるようにも見えた。
* * *
一方、マリアは二人の男性の元へ歩み寄り声を掛けていた。
「おはよう。こんなところで会うなんて奇遇だね。レオ、そしてフランク。」
ベンチに腰掛けていたレオナルドとフランクリンは満面の笑みでそう語りかけてくる少女を引き攣った表情で出迎えた。
「おはようございます。ミス.クリスティー。」まずフランクリンだけが挨拶を返す。
「朝から疲れ切った表情をしているね。フランク。仕事のし過ぎではないのかい?」悪意無く返してくる少女にフランクリンは返事をする。
「いいえ、今日はとても良い天気ですから。心は晴れやかですよ。」
「そうなのかい?レオはとてもそういう風には見えないのだけれど。しなびたサボテンのような表情をしているね。」フランクリンの隣にいるレオナルドに視線を移してマリアは言った。
「おはよう、マリー。私もこの歳だ。瑞々しさも無くなるというものだよ。しかしサボテンほど刺々しさはないはずだが?」
マリアの言葉に疲れた表情を隠す事無くレオナルドは返事をする。そしてこの瞬間に一番気になる事を彼女へ問い掛けた。
「それより、まさかとは思うが君も総会に出る為にここに?」
レオナルド達とマリアは長い付き合いになる。正確に言うとアザミも含めた四人は、数十年前に機構が設立された当初より以前から親交がある。
当然、マリア達の正式な所属も立場も理解している。どうも観光客の装いでこの場にいるようだが、彼女達の本来の立場からすればレオナルド達が本日参加する総会の場に影ながら出席していてもおかしくない。
レオナルドの質問にはそうした意味が込められていた。
「まさか、クリスマスバカンスだよ。一応私達なりの “予定” というものもあるけれど、それもどちらかと言うと私用に近い。ほとんど純粋な観光だ。」先ほどのレオナルドの質問に対してマリアは素直に返答をする。
「今日は珍しく彼女以外の人物も伴っているようだが?」
広場の外の通りで待つアザミと青年を見ながらレオナルドは返事をした。
記憶にある限りではマリアがアザミ以外の人物と行動を共にしているところは見たことが無い。珍しいと言ったが数十年来の付き合いにおいておそらく初めての光景である。
「彼とは先刻出会ったばかりなんだ。私の不注意で思い切り彼にぶつかってしまってね。そのお詫びに朝食をごちそうしに行くところさ。」
この少女が “不注意” で他人にぶつかる事もそうだが、お詫びに食事に誘う?
彼女のような人物に誘われたあの青年は一体どういう人物なのかとレオナルドは思った。その思いは隣にいるフランクリンも同様のようだ。
「それはまた珍しい。この後、雪が降らなければ良いが。」
レオナルドは自然と本音を発する。今まで自分達が知り得てきた経験から既に有り得ない事だらけだ。
「今日は夜まで快晴だよ?それより、この辺りでとびきり美味しいお店を知っていたらぜひ教えて欲しいのだけれど。」
「それは我々も知りたい事だ。どちらかと言えば、そう言った事については君達の方が詳しいのでは?」
美味しいレストランやカフェ、楽しそうな事柄などは自分達より確実に彼女達の方が詳しいだろう。マリアの質問にレオナルドは素直に返答した。
「それもそうだね。では、美味しいお店の代わりに君たちの持つ高性能なコンピュータの事を教えてくれても良いんだよ?」変わる事無く笑顔のままではあるが、その赤い瞳には先ほどまでは無かったとても暗く深い奈落の底のような漆黒が垣間見える。
油断も隙もない。
彼女の言う高性能コンピュータとは機構が所有し、その存在が安全性の観点から対外的に完璧に秘匿されているはずの情報処理基幹システムの事を指している。
当然、機密事項であるその存在そのものや情報を機構以外の人間が知り得る事は無く、いくら彼女達と言えどシステムの詳細までは知り得ないはずである。
しかし、先の質問が彼女の口から出てくるという事はおそらく概要程度は掴んでいるのだろう。
情報というのはどこから漏れるか分かったものではない。彼女に僅かでもその情報を与えるわけにはいかない。
ましてや、今自分達がいるのは大勢の人が往来している広場の中だ。些細な事であれ不用意な事を口走るわけにはいかない。
「さて、最近個人用のパソコンは買い替えたがそれの事かね?年甲斐もなく、息抜きに画像編集やデジタル絵画など色々な事がやってみたくてね。奮発して購入してみたんだが。」
とぼけて誤魔化してはみたが、彼女相手にそんな話が通用するはずもない。
「へぇ、それはとても楽しそうだ。作品が出来たらぜひ私にも見せて欲しい。」
「完成したらメールで送ろう。風景画はとても奥が深くて良いものだ。」とにかくこの場を収める為に当たり障りのない発言に終始する。
「楽しみにしているよ。絵は人の心を映し出すというからね。レオならとても味わい深い絵画になるんじゃないかな?」マリアは不敵な笑みを浮かべたまま含みのある言い方で静かに言う。
「私がどんな絵画を描くか想像がつくと?」
「まさか。 “全てを見通す神の目” でも無ければ、そんな事は想像は出来ないよ。」
失言だった。レオナルドは自らの質問を悔いた。
【全てを見通す神の目】とは機構が所有する情報処理基幹システムの名付けの由来になっているものだ。
全事象統合集積保管分析処理基幹システム。その正式名称を【プロヴィデンス】という。
世界中から集められたあらゆる情報、知識、研究結果などを膨大なデータベースに集積し、それを基に最新型の超高性能スーパーAIによって未来予測や災害予知を含めたありとあらゆる高度な予測演算を可能とするシステムだ。
自然災害に関しては未だかつて、世界一の地震大国である日本を含めてどの国も成し遂げる事が出来なかった地震予知すら可能としている。
こうした性能を持つ事で、彼女の言う通り “全てを見通す神の目” という意味合いからその名が与えられた。
それを知っているという時点で彼女にはシステムの概要はおろか、その存在がどういったものなのかということすら把握されているに違いない。
であれば、おそらく本当に知りたいのはシステムの存在場所などそういった具体的な事だろう。
どういった目的でその情報を得たいのかについては見当が付かないが、絶対に秘匿しなければならない機密事項だ。これ以上の失言を重ねるわけにはいかない。
「君の期待に沿えるよう頑張って描いてみよう。」レオナルドは話を終わらせにかかる。
しかし、そんなレオナルドの懸念は杞憂に終わった。マリアはそれ以上踏み込んだ質問することなくあっさりと引き返すことにしたようからだ。
「では、私は失礼するよ。自分からぶつかった挙句に、寒空の下で待たせ続けては客人に申し訳ないからね。」
最後は無邪気な笑顔でそう言い残すと、マリアはその場から立ち去った。
* * *
二人との会話を終えたマリアがアザミとフロリアンの元へ戻ってくる。
「すまない、待たせたね。おや、私が少し席を外している間に何か話が弾んだのかな?」揃って微笑みを浮かべる二人の様子を見てマリアが不思議そうな表情を見せる。
「えぇ、貴女がはしゃいで後ろ向きで歩き始めてから勢いよく転ぶまでの過程をわたくし視点から彼にお話をしていました。」微笑みを浮かべたままアザミが言う。
「それは、少し恥ずかしいね。」アザミの言葉を聞いてやや気恥ずかしそうにマリアが言った。続けてフロリアンが言う。
「貴女に怪我が無くて本当に良かった。」
「そんなに酷い転び方だったのかい?でも、ありがとう。君が紳士的な人で良かった。それと、先にも言ったけどマリーで構わないよ。」
初対面の相手とこんなに穏やかな表情で会話をする彼女はやはり珍しい。アザミは二人を眺めながら内心でそう感じていた。
「さぁ、では改めて朝食に向かうとしよう。」そう言うとマリアは笑顔で歩き出す。アザミとフロリアンの二人もその後を一緒に歩き出し、エルジェーベト広場を抜けてベーチ通りへと足を踏み入れる。
フロリアンはスマートデバイスに目を落とす。地図上ではあと三百メートル弱で目的地に到着だ。地図を確認した後は目の前を無邪気に歩くマリアに視線を向ける。
旅に出て以降、特別な事が無ければ一人で朝食をとるのが常だったが、今日の朝食は賑やかになりそうだと思った。
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