愛と憎しみのバラード

紫 李鳥

第1話

  


 母親は、

 俺を

 棄てた。



 俺は、母親の名前も、自分の苗字も知らない。だが、その時の光景だけは、今でもスクリーンの映像のように鮮明に覚えていた。――



 母親は、ピンクのカーディガンに白っぽいフレアスカートを穿いていた。カーディガンと同じ色のハイヒールを履いたバックシームストッキングの脚は、肉感的で生々しかった。


「タケシ。お母ちゃん、ちょっと用あっから、ここで待ってて」


 真っ赤な唇から覗く白い前歯には光沢があった。


「……うん」


 母親は、クロコダイルのハンドバッグから紙幣を出すと、俺のズボンのポケットに押し込んだ。


「……もし、母ちゃんが遅くなったら、これでなんか食べな」


 太く塗ったアイラインの大きな黒目で見つめた。


「……ん。たべる」


 母親は、わずかに口角を上げると、俺の頭を撫でた。


「……じゃあね」


 そう言って、境内の石段を下りていった。一度も振り向かなかったポニーテールの頭は、不意に石段に隠れた。


 石段から見下ろすと、ピンクのカーディガンがしぼんでいく風船のように小さくなっていった。やがて、ピンクの点になると、黄色い公孫樹いちょうの葉先に消えた。


「……おかあちゃん」


 母親は戻ってこない。……そんな予感が俺の中にあった。――



 案の定、寺の鐘が鳴り、辺りがくらくなっても、母親は迎えに来なかった。やがて、雨が降りだした。寺の床下で震えながら雨宿りをしていたのを住職に拾われた。――



 中学を卒業すると、寺を出た。一見、好好爺こうこうや風情ふぜいの住職だったが、夜な夜なやって来る檀家だんかの何人かと関係を持ち、裏では結構、俗人の汚なさを露骨に見せていた。俺を養子にしたのも、善人を装う意図があってのことだろう。


 箪笥たんす抽斗ひきだしから金を盗むと、上京した。ウェイター、ボーイ、バーテンダーを経て、パブで歌っていたのをスカウトされた。プロダクションに所属すると、バンドのボーカルとして、キャバレーで歌っていた。バンドマンというだけで、女たちが寄ってきた。お陰で女には不自由しなかった。


 その頃は、尚美という、母親と幾つも変わらないケバいホステスのツバメもどきに落ち着いて、四年が過ぎていた。俺は尚美を軽蔑けいべつしながらも、水の合う魚のように、なぜかそういう女の方が居心地が良かった。



 その募集があったのは、俺が二十五の時だった。


【作詞家・麻生萌絵の歌を歌う歌手募集!!】


 萌絵は、当時の流行歌の先駆者だった。売れる曲の上位は、萌絵の作詞が占めていた。



「……挑戦してみなさい。タケシは顔もいいし、歌も上手いんだから。……心配しなくても、タケシが売れたからって、しゃしゃり出るような野暮やぼはしないわよ」


 尚美は大人の女をアピールすると、母親のように俺の髪を指先でくしけずった。――



 一次審査で、初めて萌絵を視た時、あまりの驚きで、俺は息を呑んだ。


 二次審査に残った時、萌絵が言った。「あなたの歌い方には、不思議な哀愁があるわ。私の詞にぴったりの声とムードをお持ちよ」と。萌絵は年甲斐もなく、悪戯いたずらっぽい目で俺を視た。


 最終審査に残ったのは、俺を含めて三人だった。



  舞い散る枯れ葉

  グレーのコート

  淋しげな背中

  遠ざかる靴音


  頬伝う涙

  凍える指先

  募る想い


  消えていく幻

  秋色の街



 『秋色のバラード』――その詞のタイトルだった。



 優勝したのは、俺だった。

 芸名・黒木譲。



 髪型、衣装、言動マニュアルetc. ……。俺は萌絵に造られるロボットだった。


 有線放送で火が点き、『秋色のバラード』はヒットした。バンドの時はゲストの前歌をやっていたキャバレーで、一変して、〈本日のスペシャルゲスト、『秋色のバラード』の黒木譲〉と、でかでかと顔写真を貼られた。

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