第4章 理想と現実と、噂

第1話

 朝、いつもの時間に目を覚ました。


 着替えて洗顔をすませ、一階に下りる。と、そこで異変に気がついた。


 真っ暗だった。


 もちろん初夏の午前七時なので、窓とカーテンを貫いて入ってくる朝の陽射しはある。言葉通りの真っ暗ではない。


 まずは薄暗いリビングの照明を点けた。それから庭に続く全面窓を開放し、ひと晩の間に籠もってしまった空気を入れ換える。


 おじさんは当直で昨日から帰っていない。今、この家の中にいるのは僕と蓮見先輩だけなのだが。


 僕は二階を見上げた。

 その蓮見先輩は、どうやらまだ寝ているようだ。


 未だ何も手伝わず朝食を作ってもらっている身の申し訳なさもあり、今日は僕が用意することにした。蓮見先輩はもう少し寝かしておいて、いよいよ遅刻するラインが迫ってきたら起こすとしよう。


 まずは冷蔵庫からいくつかの野菜を取り出し、コールスローサラダを作る。それからプレーンオムレツ。


 蓮見先輩は朝食をしっかり食べるほうだ。中途半端に体型維持を目指して、朝を抜いたり少なめにしたりはしない。それであのプロポーションなのだから、悩める女子に刺されそうではある。


 とは言え、きっと今朝はバタバタするだろう。なので、ここにパンとコーヒーを足して朝食完成としよう。


 と、そのとき二階で勢いよくドアが開く音がした。


「し、静流!」


 そして、飛び出してきた蓮見先輩の足音はなぜか奥のほうへと向かっていく。僕の部屋の前まで行くと、ドンドンとドアを叩きはじめた。


「静流! 起きてる!?」

「……」


 いや、いつも僕を起こしてるわけじゃないだろうに。何で自分が寝坊したからって、僕も同じように寝ていると思ったのだろうか。相当混乱しているな。


 それからドタドタと階段を下りてきた。


「ごめん、静流。目覚ましの電池が切れてたみたい」


 キッチンに顔を出し、そこではたと動きを止める。


「あ、作ってくれたんだ。そんなことしなくても起こしてくれたらよかったのに」

「まぁ、こんなときくらいはと思ったので。……それよりも先に着替えてきたらどうです?」


 よほど慌てていたのだろう。ベッドから飛び降りて、そのまますぐに駆け下りてきたようだ。


 蓮見先輩はパジャマ姿のままだった。白のシルクは透け感があって、彼女に言わせると何度も確認したから透けてはいないはずとのことなのだが、目に毒なことには変わらない。


「あ、そ、そうね……」


 僕に言われて初めて自分の恰好に気がついたらしい。蓮見先輩はあえて慌てず、さりげない感じでパジャマの乱れを直すと、踵を返して二階へ上がっていった。


「さて――」


 と、僕は意識的に発音する。


 蓮見先輩もすぐに下りてくるだろうから、もうパンを焼きはじめるとしよう。




「ごめん。ほんと助かった」


 約十分後、僕たちはダイニングテーブルで向かい合って朝食を食べていた。蓮見先輩はロールパンをかじりながら謝る。


「まさかふたりそろって遅刻するわけにはいきませんから」

「そうね。これなら余裕はないけど、遅刻するほどじゃないわね」


 時計を見れば、普段朝食を食べている時間と二十分も三十分もちがっているわけではなかった。たぶんよけいなことさえしなければ、走ったりしなくても学校に間に合うだろう。


「それにしても、静流、案外ちゃんとしたのが作れるじゃない」


 蓮見先輩は本日の朝食を見ながら感心したように言う。


「ま、僕も蓮見先輩と似たような家庭環境ですから」


 ひとり親の家庭では、働く親の手が回らない部分は子どもがやるしかない。自然とこうなる。


「時間さえあればもう少し凝ったものが作れますよ。このプレーンオムレツをスパニッシュオムレツにするくらいはできます」

「へぇ、やるわね。たまに静流に任せようかしら」

「できれば食事以外もさせてほしいですね」


 僕はいい機会なので常々思っていたことを切り出す。


「さすがにやってもらってばかりじゃ申し訳ないですから」

「そんなに気にしなくていいんだけどね。……えっと、何がある? 食事に洗濯、掃除、買いもの……」


 蓮見先輩は指折り数える。


「どれもひと通りできますね」

「そっか。じゃあ、たまに静流に振るわ。主に食事の後の片づけ。苦手なのよね。作るのは好きなのに」


 いるな、たまにこういう人。作るのは得意だけど、調理道具や食器を洗ったり片づけたりが苦手というか嫌いというか。


「ええ、いいですよ」


 一方の僕は得意というのも変だが、そこは苦もなくやれる。


 ようやく少しは蓮見家の役に立てそうだ。




          §§§




「じゃあ、先に行きます」


 いつものように僕が先に家を出る。


 ただ、いつもとちがうのは蓮見先輩がリビングではなく、まだ二階にいることだ。今日は時間が押している。部屋で登校の準備をしているのだろう。僕は二階に向かって声をかけた。


 蓮見先輩からの返事はない。聞こえていないのか応えられる状況にないのか。返事をしたけどここまで届いていない可能性もある。


 もう行くことにしよう。結果的に黙って出ていくかたちになったとして、そこまで怒りはしないだろう。そう思って玄関に体を向けたときだった。


「待って待って。あたしももう出るから」


 蓮見先輩の部屋のドアが開き、彼女が飛び出してきた。軽やかに階段を下りてきた蓮見先輩は準備万端だ。


「え、一緒に出るんですか?」

「仕方ないでしょ。いつもみたいに時間をずらしてたら遅刻するんだから」


 確かに今から出て乗る電車が学校に間に合う最後の一本だろう。ひとつ遅くしたら遅刻するか、それがいやなら学園都市で下りてから走るしかない。


「ほら、早く行きなさい。それこそ姉弟仲よく遅刻したいの?」


 僕は蓮見先輩に押されるようにして玄関へ向かう。


 仕方がない。駅まで行った後、分かれて電車に乗ればいいだろう。




 駅に向かって蓮見先輩と一緒に歩く。


 つい先日も三宮に買いものに行った際もこうして駅まで一緒に歩いたが、お互いに制服だとまたちがった感覚だ。


 それにしても不思議なものだと思う。一ヶ月前は蓮見先輩のことを校内でも有名な美少女として憧れの目で見ていただけなのに、今は姉弟として並んで歩いている。事実は小説よりも奇なり、だ。


「ところで、周りの家の人たちにとって僕はどういう立場になっているんですか?」


 何度か付近の住民に僕が蓮見邸に出入りしているところを見られているのだ。相手は見慣れない僕に戸惑いつつ挨拶をし、僕もちょっと申し訳ない感じで返している。


「あ、それね。親戚の子をあずかってるってことにしてるから」

「そうですか」


 蓮見先輩は口にするのを躊躇ったのだろう。たぶんそこには『母親を亡くした』というフレーズがあるはずだ。


「お父さんもさすがに本当のことは言いにくかったみたい」


 彼女は苦笑する。


 そりゃそうだろう。説明を求められて、私の愛人の子ですとは言えない。


「もしかしたら静流に直接聞いてくる人もいるかもしれないから、そう答えといて」

「わかりました」


 そうこうしているうちに名谷の駅が見えてきた。そろそろこのあたりで一度離れたほうがいいだろう、と思ったとき、


「蓮見先輩!」


 声がした。


 それは今いちばん会いたくなかった直井恭兵のものだった。


「おはようございます、蓮見先輩」


 振り返った僕らのもとに駆けてきて、直井は朝の挨拶を口にする。相変わらず大きなスポーツバッグを肩に提げていた。


「おはよう、直井君」

「それと真壁も、おはよう」

「おはよう。直井、最近よく会うな」


 少し前にも登校のときに駅のホームで会っている。


 彼の合流に合わせて、僕たちは再び駅に向かって歩を進めた。蓮見先輩を中心に、僕と直井がその左右を歩く。


「ああ、期末テストが近いだろ? だから朝練が少なくなってるんだ。来週になったら完全になくなって、再来週は放課後の練習もなくなる」


 なるほど。定期テストに向けて段階的に練習がなくなっていくシステムなのか。図書委員とはちがうようだ。


「で、ギリギリなのは朝練がないのに慣れてないからだな」


 直井は苦笑する。


「それはそうと、蓮見先輩は真壁と一緒なんですね。家が近いからですか?」

「ああ、それね」


 どこかおそるおそるといった感じで尋ねる直井に、蓮見先輩は軽い調子で応える。




「あたしと静流はね、実は姉弟なの」

「ッ!?」




 その軽い調子のまま事実を言ってしまい、直井よりも僕のほうが驚いてしまった。


「蓮見先輩っ」

「いいじゃない。仲のいい子にまで隠しておくことないわよ。わざわざ言って回ることもないけど」

「蓮見先輩、それは本当ですか……?」


 直井は先ほど以上に慎重に問う。


「うん、本当。いわゆる腹違いの姉弟ってやつ。うちのお父さんと静流のお母さんがどんな関係だったかは言わなくてもわかるよね?」

「ええ、まぁ……」

「人には言わないでよ。直井君だから教えたんだから」


 ともすれば暗くなりがちな話を蓮見先輩は愛嬌たっぷりに言うが、直井は「わかりました……」と力なく返すだけ。


 この後、彼はいつもより口数が少なかった。

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