第1章 真壁静流と年上の彼女たち
第1話
六月に入ったばかりの一週間ほど前、母が死んだ。
交通事故だった。
うちは僕と母、ふたりだけの母子家庭。
つまり僕は唯一の肉親を亡くし、たったひとりで残されたことになる。
そうしてそれは、親戚の力を借りてどうにかこうにか葬儀をひと通りすませたその日に起こった。
夜、僕はマンションの一室で途方に暮れていた。
母の遺体を前にしたときは、さすがに泣き崩れた。僕は男だが、まだ十七の高校生なのだ。そこは情けないと言わないでもらいたいところではある。
しかし、すぐに通夜祭だ葬場祭だと葬儀に追われて、嘆く暇もなくなった。
あれよあれよという間に火葬まで終わり、遺骨と遺影、霊璽を持って家に帰ってきたときには、改めて泣く気力はなくなっていて、ひとりになった家の広さにただただ途方に暮れるばかりだった。
これからどうしようかと茫洋とした考えを巡らせていると、ドアチャイムが鳴った。
僕はのろのろとした動作で立ち上がる。そこでようやく日が暮れていたことに気づき、まずは暗い家の中に照明を灯した。
「どちら様ですか?」
警戒することなく玄関ドアを開ける。と、そこには高級そうなスーツを上品に着こなした中年の男性が立っていた。
「君が、真壁静流君?」
彼は真っ直ぐに僕を見つめ、尋ねてきた。
真壁静流は、確かに僕の名前だ。
「はい。そうですが?」
「そうか……」
僕が首肯すると、彼は感慨深げにそう言った。言って、改めて僕を眺める。
「あの、どちら様でしょう?」
「ああ、そうだったね。私は君のお母さんの同僚で、こういうものだ」
僕が重ねて問うと、彼はスーツの内側から名刺入れを取り出した。そこから名刺を一枚抜き取り、こちらに差し出してくる。名刺の受け取り方なんて知らないので、できるだけ丁寧に両手で受け取った。
そこには彼の名前とそう遠くないところにある大学病院の名称が書かれていて、彼がそこの循環器内科の医師であることが示されていた。
母は同じ病院の看護師だった。医師と看護師で、所属する診療科もちがうが、確かに同僚と言えるのかもしれない。
「ちょうど学会で日本を離れていてね。君のお母さんが亡くなったことも、ついさっき聞いたばかりなんだ」
「そうでしたか」
彼の言葉通りなら、母の訃報を聞いて取るものも取り敢えず飛んできたということなのだろう。
「葬儀には参列できなかったが、せめて遺影に手を合わさせてもらえないだろうか」
「わかりました。わざわざありがとうございます。そうしてもらえると母も喜ぶと思います。……どうぞ」
来訪の目的に納得した僕は、さっそく彼を招き入れた。
母は僕を女手ひとつで育ててくれたが、看護師長も務めるベテラン看護師でなかなかの高給取りだったのか、これまで経済的な心配はあまりしたことがなかった。
このマンションも間取りこそ2LDKだが、母子家庭が住むには十分なほど立派だ。
そのリビングの隅に簡素な祭壇があり、そこに母の遺影が置かれている。彼は遺影の前に正座をすると、手を合わせた。
その間、僕は来客のためにお茶を用意することにした。
母は地位とキャリア相応に忙しい人だった。だから、僕が家事を引き受けることも多く、この程度のことは目を瞑ってもできる。
僕がダイニングキッチンでお茶を用意してリビングに戻ると、彼はまだ母の遺影の前に座っていた。
「景子さん……」
そのタイミングで聞こえてきた彼のつぶやき。
それは母の名前だった。
「お茶、淹れたのでよかったらどうぞ」
僕は聞いていない振りをして、その背中に声をかける。
すると彼は、僕が戻ってきているとは思わなかったのか、或いは、僕のことを忘れていたのか、驚いて一度小さく体を跳ねさせた。
返事は、すぐにはなかった。
代わりに彼は、握りしめていたハンカチを目もとに押しあてる。こちらからは見えないが、いま拭ったのは涙だろうか。
「……ありがとう。いただくよ」
そうしてからようやく、やや上擦った声で返事をした。
しかし、彼はそう答えたものの、その言葉とは裏腹にまったく祭壇の前から離れようとしなかった。
さっきまで合わせていた両の掌を腿の上に載せ、じっと母の遺影を見つめる。
僕はしばし考え――意を決してその背中に言葉を投げかけた。
「間違っていたらすみません。あなたは僕の父ではありませんか?」
直後、彼の体にわずかに緊張が走る。
「……どうしてそんなことを?」
そして、僕に背を向けたまま、慎重に言葉を選ぶようにして問うてきた。
どうして?
結論する要素はいくつかある。
ひとつは、僕を見る目。
もうひとつは、母の遺影に向かう背中。
どちらもただの同僚や、その息子に向けるものではないと感じた。
僕は社会人同士の人間関係のことはよくわからない。でも、ただの同僚を名前で呼び、あのように深い悲しみに耐えるみたいにして、じっと遺影を見つめるだろうか? ただの同僚の息子の名前を知っていて、あのような愛情深い目で見るだろうか? 僕は父親を知らずに生きてきた。だけど、あれこそが父親の目ではないだろうか。
「何となくです」
だけど、ここで滔々と説明しても意味はないと思い、僕はそうとだけ答えた。
あえて言葉にするなら、血のつながった親子としての直感、だろう。むしろ直感の後に理由を探したと言ってもいい。
「お母さんは、お父さんのことについては何と?」
「特には。ただ、その一方で、振り返ってみれば『死んだ』とは一度も言わなかったように思います」
「そうか……」
そこでようやく彼は祭壇の前を離れ、応接セットへと移動した。ソファに腰を下ろす。
僕は湯呑みをローテーブルに置いたときから突っ立ったままだ。
「当時、私はもう結婚していてね。君のお母さんとは、まぁ、大っぴらに言えるような関係ではなかったんだ」
彼はお茶をひと口飲んで喉を潤すと、僕の質問を明確に肯定しないまま話をはじめた。
「そんなだから当然、関係を長くは続けられなかった。私と交際したことで彼女に君という子どもができていたことも知っていたが、知った上で彼女と別れたんだ」
「……」
自分から見抜いたせいだろうか、あまり驚きはなかった。
(この人が僕の父親……)
彼の告白を聞きながら、そう納得し――その一方で、僕と母の生活は案外彼が払う養育費に支えられていたのかもしれない、などと冷静に考えてしまう。僕の悪い癖、いや、性質だ。
「うちの病院を見たことは?」
「何度か」
ここから地下鉄で駅を五つほど行き、その駅前にある大学病院だ。
とは言っても、病人や怪我人として足を運んだことはない。そもそも日本の医療システムでは救急でもないかぎり、いきなり大病院に駆け込めるようにはなっていない。単に母と一緒に外来食堂で食事をしただけだ。
「大きい病院だろう? だから、診療科がちがえば顔を合わせないようにするのは意外と簡単だったんだ。だけど、まさかこのようなかたちで本当に会えなくなってしまうとはね」
彼は両手で持った湯呑みに視線を落とし、寂しげにつぶやいた。
関係を清算してずっと会っていなかった相手でも、何の前触れもなくこの世を去られるのは悲しいことなのだろう。
僕もソファに座った。彼から九十度写した位置だ。
それを待っていたかのように彼は顔を上げた。
「君は、これからどうするつもりかな?」
「これから、ですか?」
僕は問い返す。
「そう。このままここでひとり暮らし、というのも高校生の君にはハードルが高いと思う。それとも頼れる親戚がいるのだろうか?」
「いちおう祖父母が声をかけてくれています
本当に『いちおう』だが。
「そうか。君がそれで問題ないならいいのだが、その……」
ここで彼は言いにくそうに言葉を不明瞭にする。
「君さえよかったらうちにこないか?」
それから改めてそう切り出してきた。
「私はもう死んでしまった彼女に何もしてやれない。だが、ひとり残された君にできるだけのことをするのは、親としての責務だと思う。……どうだろう? うちにきてはくれないだろうか?」
「……」
つまり僕を引き取りたいということらしい。
僕は『うちにきてくれないか?』という言葉を洗濯したことに、彼の強い責任感を感じずにはいられなかった。
「幸い、と言っては何だが、妻には数年前に先立たれてね。そのあたりの懸念はないと思ってくれていい」
僕を納得させようと、彼は言葉を重ねる。
「家には娘がひとりいるが、ちょうど君と同じ年ごろだ。いい話相手になれるんじゃないだろうか」
「……」
いや、それはむしろ障害ではないだろうか。家に同年代の異性が急に居候にきたら、さすがにいい顔はしない気がするが。
今度は僕が視線を落とす番だった。
視線を落とし、考える。
「やはり簡単には首を縦に振れないか……」
「そうですね」
母はシングルマザーで、産んだ子の父親が誰か頑なに語ろうとしなかった。そのせいで古い体質ばかりの親類縁者からはあまり相手にされていなかったようだ。それでも身内ではあるし、四十代半ばの早すぎる死ということもあって葬儀には集まってくれた。高校生の僕では荷が重すぎる法要も進めてくれた。村八分とはよく言ったものだ。
だけど、この後のことは何も決まっていない。
このご時世だ。家族をひとり増やすなど、そう簡単にはいかないのだろう。あまり交流のなかった親戚となれば尚更だ。唯一祖父母が声をかけてくれたが、いつもの僕の癖で彼らがそこまで親身になって言ってくれたわけではないことを察してしまい、答えを保留にした。こちらから積極的に助けを求めないかぎり、誰ももう僕と関わろうとしないだろう。
(さて、僕は目の前の人をどう思っているのだろう?)
僕は自分に問う。
彼は僕の父親だ。当時の事情や母の気持ちを知らないので、母を捨てたと一方的になじるつもりはない。だが、妻帯者でありながら母と関係をもったのも事実だ。
と、そこまで考えたときだった。
「では、とりあえず一ヶ月だけというのはどうだろう?」
「一ヶ月だけ?」
彼の口から出たその奇妙な提案に、僕は首を傾げる。
「お母さんの葬儀は終わったが、まだこれから煩雑な手続きがいくらかあるだろう。静流君自身の生活もあるし、学業もある」
「その通りですね」
僕は途方に暮れていたのもその部分だ。母の葬儀が終わって、それですべてがすんだわけではない。すぐに五十日祭があり、墓だ納骨だといったものも残っている。親戚に聞いたところ、母方の家系の墓はこの近くではないらしい。
そうした一方で、僕は僕で引き続き高校に通い、授業に出なくてはいけないし、定期試験だって受けなくてはいけない。親を亡くしたからといって、学校はその不幸な生徒に合わせてはくれるわけではないのだ。
「だから、せめて一ヶ月、夏休みがはじまるまでの間、うちにくれば静流君の負担もだいぶ減ると思う」
「確かに」
彼の言う通りにできれば、少なくとも日常生活の負担は大きく減るだろう。
「それ以降のことは、またそのときに考えればいい。気に入ってくれたなら、そのままうちにいればいいし……その、なんだ、私のことを快く思わないなら、別の方法を選んでくれていい。もちろん、そのときもこれまで以上にできるだけのことはさせてもらうつもりだ」
彼は僕に選択を迫るというよりは、どこか懇願するような目でこちらを見てくる。親として何かせずにはいられないにちがいない。
普通ならば確かに彼の言う通り、彼のことを快く思わないところなのだろう。でも、妻帯者でありながら母と関係をもったことを指弾するなら、同じ理由で母も非難しなければ公平ではない。
そして、冷静に己の気持ちを確かめるに、おそらく僕は彼のことを何とも思っていないのだと思う。
そもそも彼に対して負の感情を抱くだけの条件がそろっていないのだ。僕は母が恨み言をこぼすのを聞いたことがないし、彼と同じ職場にいながら何の行動も起こさなかったことを考えれば、十分に納得して関係が終わったのではないだろうか。
彼自身も、こうして駆けつけてきたことと言い、僕を引き取ろうとしていることと言い、少なくとも起こしてしまったことへの責任感は持ち合わせているようだ。
では、ここはどうするべきだろうか?
僕は例の如く冷静にフラットな思考を巡らせ――、
「わかりました。まずは一ヶ月、お世話になろうと思います」
「そうか! ありがとう。これで私も少しは救われるよ」
彼は喜びに声を弾ませ、僕の手を両手で握ってきた。
おそらくこれが今の最適解。
何せ僕は身の振り方が決まっていない。しかし、頼られたくないと思っている身内を頼るのは、僕としてもできれば避けたいところだ。そして、何より彼がそう望んでいる。ならば彼の気のすむようにさせるべきなのだろう。
まぁ、僕にとっても悪い話ではないわけだし。
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