第12話 △の感情

 舞果が学校に来ない。


 それはいつものことだ。妙な契約を結ぶ前からちょくちょく遅刻していたし、契約後も何回かあった。


 ある日のことだ。一緒にマンションを出ると誰かに見られてしまうかもしれないから、


「少し時間をずらして登校しよう」


 と提案し、俺が先に出発した。


 そして舞果が登校してきたのは昼だった。


 ずらしすぎである。


 理由を聞いてみると、


「だって雨降ってたし」


 などと悪びれもせずに言った。


 またべつの日は、


「天気がよかったから公園でぼーっとしてた」


 とも言った。遅刻の理由まで猫っぽい。


 とにかく、舞果が遅刻するのにたいした理由はない。サボり癖がある、というだけだ。進級はできるように計算しているらしいし、定期試験では上位だし、本人がよければそれでいいと俺も思う。


 いや、思っていた。前までは。


 今日も舞果は昼休みになっても登校してこなかった。LINEにメッセージを送っても既読すらつかない。


 いつものことだ。なのに不安になるし、いらいらする。学校の周囲に不審者が出没するという話もある。それに――。


?」


 誰も座っていない舞果の席を見て、クラスメイトのひとりが言った。


 そのたった二文字には、多くの情報が詰めこまれている。


 また遅刻? また朝帰り? また男と――?


 この噂話も、いつもどおり。しかし俺のいらいらは募っていく。


「そういえばさ、白川くんとうまくいってないの?」

「そうなんだよね~。なんか最近冷たいっていうか」


 舞果のことなど会話の箸休めと言わんばかりに、恋の話へ移行する。


 ほっとしたのもつかの間、ふたりはこんなことを言いだした。


「じゃあさ、小瀬水さんに聞いたら? テクニック」

「駆け引きの?」

「そうじゃなくてさ、ほら、の」

「は? 下ネタやめてよ。わたしらはピュアな付きあいしてるんだから」


 と、笑いながら相手を小突いた。


 前なら聞き流せていた。でも、いまはもう無理だった。


 気づいたときには俺は机を叩き、立ちあがっていた。後ろに倒れたイスが派手な音を立てる。


 そして静寂。クラスメイトたちの視線が刺さる。ふだんの俺ならそれだけで気持ちが萎えてしまったことだろう。しかし腹の底から湧きあがってくるような怒りが、弱気をどこかへ押しやった。


「根も葉もない噂で、よくひとを不純呼ばわりできるな?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。よほど恐ろしい声だったのか、噂話をしていたふたりの顔が引きつった。


「で、でも、みんな言ってるし」

「だからなんだ? 『そうらしい』がたくさん集まれば事実になるって言ってるのか?」

「それは……。っていうか、いまさらでしょ」

「いまさらだから、これからもずっと貶めつづけてもいいってことか?」

「そんなこと言ってない」

「どうしてそんな――」


 感情が高ぶって喉がつまり、つぎの言葉が出てこない。腹が立って、悔しくて、泣きそうで、俺はぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた。


「ちょっと落ち着こう?」


 八宮さんがあいだに入ってきた。


「たしかにわたしも、ふたりの話はなんか嫌だなって思った」


 噂話をしていたふたりは気まずそうにうつむく。


 つぎに彼女は俺を見た。


「物に当たるのもよくないかな。ひとに当たるよりはましだけどね」


 ――名ジャッジだな。


 ひりついた空気を収めるために両成敗にする。効果的だし、実に彼女らしいやり方だと思った。しかし俺は謝るのが癪で「ああ」とだけ返事をした。イスをもどし、どかっと座る。


 八宮さんは微笑んで皆に言った。


「ひとを傷つけるような噂話はやめて、もっと楽しい噂話をしよう? たとえば、ラーメン屋さんの裏に猫の集会場があるらしい、とか」


 彼女の言葉で空気が和らぎ、徐々にいつもの騒がしい教室にもどっていく。


 そのときスマホが震動した。LINEのメッセージ、差出人は舞果だった。


『いつものところに来て』


 ようやくメッセージが来たと思ったら、一方的な呼び出し。俺は胸のむかむかを吐きだすように大きくため息をつくと、特別教室棟の裏へ向かった。





「どういうつもり?」


 非常階段に腰かけていた舞果は、俺が到着するなり非難するように言った。


「なにが?」

「さっきの」

「さっきのって?」

「わたしのことで食ってかかってたでしょ」

「見てたのか」

「聞こえたの」


 舞果は呆れたように吐息した。


「余計なこと言って」

「は?」


 ――余計なこと?


「あんなゲスな噂、ほっといていいのかよ」

「わたしはべつに気にしてない」

「なんか言っとかないと、どんどんエスカレートしていくぞ?」

「だから、そんなの頼んでないって言ってんの」


『余計なこと』『そんなの』


 俺の感じた悔しさや怒りが取るに足らないものだと言われたようで、かっとなった。


「なんだよそれ! そもそも舞果が理由もなく遅刻するのが悪いんだろ!」

「いまそれ関係ないでしょ」

「あるだろ。せめて正当な理由があれば疑われなくて済むんだから」

「たかが学校に遅れるのに、なんでいちいちたいそうな理由が必要なわけ?」

「たかがって……」


 学生にとって学校は休まず通うべき場所。きっと学校中のほとんどの人間が、なんの疑いもなくそう信じている。俺だってそうだ。


「学校なんて、ただの勉強に適した施設でしょ。その施設をどう利用しようとわたしの勝手じゃない?」


 舞果らしい考え方だ。そんな自由なところが彼女の魅力だと思う。


 でもなぜだろう。いまは無性に腹が立つ。


「でも、内申とかあるし、テストだってふだんからちゃんと授業に出てないと――」

「へえ、品行方正だね」


 舞果は明後日の方向を向いて、非難めいた口調でぼそっと言った。


「自分が女の子を買ったことは棚に上げてさ」

「……」


 俺が黙りこんだのに気がついて、舞果は息を飲んでこちらを見た。


「あ……」


 そのとき予鈴がなった。


「じ、じゃあ俺、先にもどるから!」


 気にしてないふうを装うために声を張ったのだが、かえって痛々しく聞こえてしまったかもしれない。舞果の返事を待たず、俺は背を向けて早足で歩きだした。





 午後の授業が始まっても舞果はもどってこない。


 大きなため息が出た。


 売り言葉に買い言葉で、つい感情的になってしまった。


「なんかあったの?」


 放課後、帰ろうとする俺に八宮さんが尋ねてきた。


「え!? あ、いや……」


 彼女に話しかけられたこと、そして図星を突かれたことに驚き、声が裏返ってしまった。


「小瀬水さん、一回登校してきたよね?」

「あ、あ~……、うん」

「喧嘩した?」

「……」


 八宮さんは俺と舞果の関係に気づきかけている。なんとかごまかしたいところだったが、緊張で頭が回らず、言葉が出てこない。それはほとんど肯定しているようなものだった。


「ち、遅刻するなって言ったら、なんか言いあいになって」


 友人関係でもこのていどの苦言はするだろう。舞果を買ったことさえバレなければいい。


「そしたら怒っちゃった?」

「うん……。で、でも、遅刻はよくないだろ? 俺、まちがってないよな?」


 そんなこと八宮さんに言ってもしかたないのに、俺は言わずにはいられなかった。彼女なら、さっきの名ジャッジみたいに公平な解答をくれるのではないかと。


 しかし彼女の答えは俺の期待したものとは違った。


「まちがってないよね、って確認したがるのは、まちがってた気がしてるからじゃない?」


 俺は言葉を失った。また図星を突かれた気がしていた。


「あ、ごめんね、偉そうなこと言って」

「いや……」


 実際その通りだと思う。常識的に考えれば、俺の言ったことはまちがっていない。でもなぜか、テストの採点で三角をつけられたような、もやっとした気持ちだった。


「ありがとう」

「うん? うん。早く仲直りできるといいね」


 八宮さんと別れ、俺はバイトに向かった。

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