同級生を、買いました ~月額三万四千円のサブスク彼女はときどきサービスが過剰になる~
藤井論理
プロローグ キスの値段は?
俺の彼女である
舞果のくちびるはねぶられ、口のなかにまで舌が差しこまれている。これはもはやキスなどではない。くちびるの蹂躙である。
「も、もうっ。駄目だって、ん……!」
駄目など言いつつ、舞果は求めるようにくちびるを突きだす。
言葉とは裏腹な彼女の反応。俺の胸には嫉妬が渦巻く。しかし同時に、ずっと見ていたいという倒錯した欲望も沸き起こっていた。
「こら、いつまでやってんの」
と言ったのは舞果でもなければ俺でもない。
隼人の飼い主である。年の頃なら三十過ぎくらいの上品そうな女性だ。彼女がぐいっとリードを引くと、小型犬のヨークシャーテリアである隼人は吊り上げられるみたいにして舞果から離された。
「ティッシュ使います?」
飼い主さんがウエストポーチを探る。
「大丈夫です。犬、好きなんで」
舞果は手の甲で口を拭う。
「隼人くん、バイバイ、またね」
隼人は手を振る舞果を名残惜しそうに何度も振りかえりながら公園の出口へ歩いていった。
舞果はベンチにもどってきて俺の横に座った。ご満悦、といった表情だ。
「犬、好きなのか。なんか意外だな」
「なんで?」
小首を傾げる舞果。つり目なのにどこか気だるげな瞳も、きゅっと上がった口角も、どこか猫を思わせる。
「いや、猫が好きなのかと」
「猫も好き!」
と顔を輝かせる。
「
俺の太ももに手を載せ、身を乗りだすみたいにして顔を覗きこむ。まるでキスをするみたいな仕草。俺は弾かれるように顔をそむけた。
さっきは俺を置いて急にふらふらと犬のほうに遊びに行ってしまったくせに、いまは俺のことしか見えていないかのようにぴったりと寄り添ってくる。そんな気ままなところも実に猫っぽい。
「ま、まあ、好きだけど」
猫が、だ。なのに顔がかあっと熱くなる。俺は照れくさくなって、ごまかすみたいに早口で質問を繰りだした。
「ペット飼ってたのか?」
「……ううん」
舞果の表情にふっと影が差す。
――失敗した。
彼女は過去のことをあまり話したがらない。
でも今日は珍しく、舞果が自分の話をした。
「生き物を飼うのって怖くない?」
「怖い?」
「だって命だよ? 責任が重すぎる」
「まあ、かわいいから、ってだけでは飼えないよな。金もかかるし」
「お金も、愛情もね。両方ないと」
舞果は挑発するような蠱惑的な笑みを浮かべて言った。
「で、どう? わたしの飼い主であるところの直司さんは、ちゃんとわたしに愛情を与えてますか?」
「か、飼い主なんて人聞きの悪い」
「でも、わたしのこと買ったじゃん」
「かっ! ……ったけど」
「身体は買われても心までは買われてないけどね!」
「誤解されること言うなよ!」
「嘘~。ほんとはもう、心まであなたのものだよ……」
「……え?」
「な、なんてね! 本気にした?」
舞果は俺の肩を小突いた。
俺は月額三万四千円で舞果を買った。
サブスクリプション。音楽や動画配信では主流となりつつある、定額料金を支払うことで一定期間サービスを利用することができるビジネスモデル。その通称サブスクで、俺は『彼女としての舞果』を買った。
「で、でも、愛情なんてどうやって測るんだよ」
「んー……。隼人くんみたいに、キスとか?」
「キ……!?」
慌てる俺を見て、舞果はますます愉快そうに肩を揺らした。
薄い桃色をした彼女のくちびるを俺は見る。
「それはちょっと」
「遠慮しなくていいのに」
「いや、遠慮とかじゃなくて……」
「じゃあ、買う?」
金を払っているからといってなんでもしていいわけではない。そこにはれっきとしたルールが存在する。
・カップルですること=サービス内
・カップルじゃなくてもすること=サービス外
つまりデートをしたり手をつないだりはカップルですることだから基本料金のサービス内。
料理や掃除といった家事などはカップルじゃなくてもすることなのでサービス外。
サービス外でもオプション料金を支払えば受けられるサービスもある。料理は一回三百円だ。
ただし、カップルですることだとしてもセクシャルな行為は禁止となる。露出の強要、過度な肉体の接触がそれだ。
俺が舞果にセクシャルな行為を要求したことがあるからこんなルールが作られた、というわけではない。むしろ舞果からのセクシャルなアプローチに参っていたのは俺のほうだった。
それがいつのころからか少なくなり、あれはどういうつもりだったのかと尋ねたところ、
『はあ!? 勘違いなんですけど。っていうかいつもいやらしいことばっかり考えてるからそんな勘違いするんじゃないの?』
と責任転嫁され、逆ギレぎみにルールを突きつけられたのだ。
だから当然キスなんて御法度だと思っていた。しかし彼女の口ぶりからするとあくまでサービス外というだけであり、オプション料金を支払えば可能ということらしい。まあ、いつもどおりからかっているだけだろうが。
「ねえ、キス、いくら?」
「か、仮に値段をつけるとして」
「つけるとして?」
「一万円、とか」
「そんなに?」
「高いか?」
「分かんない」
「分かんないのかよ……」
「でも、そっかあ。一万円かあ。ふふ」
嬉しそうに微笑む。先ほど見せた表情の陰りは消えていた。
「じゃあ、する?」
「え、いや、だから……」
「まだ遠慮してるの?」
「さっきも言ったけど、遠慮とかじゃなくて――」
「なら問題ないよね」
舞果は首を傾げるようにして顔を近づけてくる。ほんの少しだけ開いたくちびるが妙に生々しい。
――え、ちょっと待って。からかってたわけじゃないのか? 本気で?
などと戸惑っているあいだにも、舞果のくちびるは俺との距離をつめてくる。
「い、いや、だからそうじゃなくて!」
俺は舞果の肩を押した。彼女は傷ついたみたいな表情を浮かべる。
「なんで? わたしとするの、嫌?」
「いや、舞果とするのが嫌とかそういうんじゃなくて」
「じゃあ、やっぱり一万円の価値はないって、もったいなくなった?」
「そんなことない。ないけど――」
「じゃあなんで?」
悲しそうに顔を歪め、俺を見つめる。
キスをするしないが原因のくだらない痴話喧嘩。ラブラブな恋人同士ならあり得なくもないこのシチュエーションを、サブスク彼女である舞果はサービスとして演じてくれているのだろうか。それにしては演技が真に迫りすぎている気もするが……。
黙っていると、舞果の目はいよいよ潤んできて、本当に泣きだしてしまいそうだ。これが演技なのだとしても、俺の胸には本物の罪悪感が浮かんできてしまう。
もう隠せない。
「ああ、もう! だから違うんだって!」
「なにが違うの」
「わかった、言うって。キスをしたくないのは――」
「したくないのは?」
「いまキスをしたら――ファーストキスが犬のつばの味になるだろ!!」
舞果はぽかんとした。
「ファースト……キス……?」
俺はそっぽを向いた。真っ赤になっているだろう顔を隠すためだ。
「悪いか」
舞果は「ぷうっ」と吹きだした。
「あは、あははははは!!」
そして腹を押さえて笑う。爆笑である。
「そんなに笑うことないだろ」
「ご、ごめん。は、はは……!」
はあはあと息をしながら目尻を拭う。
「なんか安心して」
「なにに安心したんだよ。俺がピュアだったからか」
「それは心底どうでもいいんだけど」
「どうでもいいのはともかく心底ってなんだよ。深く傷ついたぞ」
舞果はほうっと長く息をついた。
「そっかそっか、犬のつばかあ。――じゃあさ、あそこの水飲み場で口を洗って、それからする?」
それならば障害はなくなるが、だからといって「うん、じゃあキスしよう」とはならない。結局のところヘタレな俺は犬臭いことを『キスをしなくて済む理由』に採用しただけなのだ。
キスをしてしまうと彼女との関係が――いまのふたりの形が変わってしまうような気がして、踏みだすことができない。
本当の恋人を作れるほどの甲斐性はない。でもひとりでいるのは寂しい。そんな俺にはこの『サブスク彼女』という適度に距離のある関係が心地よすぎるのだ。
「いや、もうタイミング逃してるだろ」
「女慣れした男みたいなこと言ってる。キスしたことないくせに」
と、俺の肩を人差し指で突っついた。
「う、うるさいな。もし俺が本気にしてキスをしたらどうするつもりだったんだ」
「べつに、なにも」
舞果はじっと俺を見つめる。冗談を言っているふうではない。
「そ、そろそろもどろう」
舞果の真剣な眼差し受けとめきれず、逃げるように公園の出口へ向かうと、後ろについてきた彼女が言った。
「そういえばさ、言い忘れてたんだけど」
「なにを?」
「わたしもファーストキスだよ」
もう話は終わったと安心していたところに、思いも寄らない角度からの不意打ち。
黙りこんだ俺の顔を、舞果は悪戯っぽい表情で覗きこむ。
「ね、嬉しい?」
「……」
「ねえ、ねえってば」
「うるさいな」
俺は早足で舞果を置き去りにする。
「待ってよ」
声を無視して、俺はずんずんと歩みを進める。
嬉しいか、だって? そんなの――。
――嬉しいに決まってる。
でもそれは、舞果がいままで誰のものにもなっていなかったからではない。そんなのは心底どうでもいいことだ。
舞果が俺にファーストキスをくれようとしたこと。少なくとも俺にくれてやっても惜しいとは思ってないこと。
それがたまらなく嬉しい。
――駄目だ、にやける。
こんな締まりのない顔を見られたら、ますますからかわれることだろう。
「待ってって!」
舞果の声と足音が近づいてくる。
「嫌だ!」
俺はますます早足になる。
――あ、このやりとりも本物の恋人っぽい。
そんなことを考えてしまい、俺の顔はますますだらしなく崩れる。
舞果が歩み寄ってくると俺は逃げる。でも離れすぎると、俺は歩く速度を遅くして距離を近づける。
つかず離れず。それがいまの俺たちの距離感だった。
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