(仮)
香坂翼
第1話
その力は穢らわしいと、母親に頬を打たれたのは十歳の時だった。
「あんたのその見透かすような目が、嫌なのよ」
赤い夕陽が低く刺すように入る台所で、三十半ばを過ぎた女性が目の前で項垂れるのを見て、十歳の私はどうしていいかわからなかった。手を伸ばして頭に触れようとした。
「馬鹿にしないで!」
決して馬鹿にした訳ではなかった。ただそうしようと心が動いたからした動作だった。そうして欲しいように見えたからした。それだけだった。
涙を手の甲で隠すようにして、母親は洗面所へ去っていった。
また間違えてしまった。
「ごめんなさい」
私はいつだって、許されたい訳じゃなくて、どうしたら間違えなかったかを教えて欲しいだけなのに。
二十年近く前の、少女の頃の記憶をなぞりながら、私は目の前に広がる青空をひたすら眺めた。
高度は今どれくらいだろうか。この飛行機に乗り込んだのは一時間ほど前だから、それなりの高さにいるのだとは思う。飛行機は飛び立つ前までが長くてうんざりする。だけど、一旦地面から離れてしまえば、どこへだって行けそうな自由さが好きだった。
飛び立つ時の重力が身体から離れる浮遊感に、この世の理から抜け出したような錯覚を覚える。そっと降り立った後に重力を返される感覚は、まるで新しい命を授かったようだ。荷物を預けてほぼ身一つで乗り込むのも、現実をそっくり地上に置いて行けるようで清々しい。
もうこのまま東京に帰らずにいようか。
ふとそんなことを考える。どうせ帰ったって、私の居場所など無いのなら、いっそ命が尽きるまで地球の上空で浮遊していたい。
機内は飛行機の出す轟音に混じって、家族や、友達や、様々な関係性を持った人々の声がしている。
一人で乗っているのは私だけという訳ではないが、何の目的も無いのはきっと私だけに違いない。他の一人で乗っている客にしても、何かしら目的があって乗っているように思えた。パンフレットを開いて旅行ルートを勘案する私と同い年くらいの女性、お土産を膝に抱えている初老の女性、スーツを着てパソコンを開いている男性は仕事だろうか。
することがあるのは良いことだ。時間が過ぎるのが早い。思考を一時的にでも、放棄することが出来る。
その恩恵を受けられない私は、区切りのない時間の中で、止め処なく流れる思考の相手をするしかない。
「あの」
突然、右隣から声を掛けられた。二人組の女性の方だ。一緒に乗ってきた男性は寝ているようだった。
「その手のタコ、もしかして…」
期待の籠もった目で見つめられて、私は焦った。何と答えようか。
私の狼狽えた顔を見たからか、その女性は「すみません、突然失礼でしたよね」と謝った。私は首を振り、「いえ、ちょっと考えごとをしてたので、びっくりしちゃって…」と答える。
「そうですか。私、あなたの手のタコ見て、同じ仕事かなって嬉しくって、つい声かけちゃって」
ふくよかなその女性は、笑うと目尻に皺が寄った。えくぼもある愛らしい女性だ。
満点だ、と思った。
「この仕事って、中々同業者と会いにくいじゃないですか。外に開かれてる訳じゃないっていうか」
女性は喋り続ける。こういう人が、この仕事には向いているのだと思った。他人の感情を過度に受け取りすぎず、的確な応答をした後になお、自分の伝えたいことを伝えられる人が。
「だから–」
「すみません、私、無職なんですよね」
女性の言葉を遮るようにそう伝えると、その人は一瞬はっとした顔をして、次に、申し訳なさそうな表情をした。
「ごめんなさい、私ったら早とちりして……お互い、良い旅になると良いですね」
女性は私を励ますように笑った。そうですね、と私は返す。居心地悪そうにしている彼女に罪悪感を覚え、私は席を立ってトイレへ向った。
トイレの個室に入り、息を吐く。揺れる機内の中では、お世辞にも居心地の良い場所では無いが、あのまま席にいるよりは良かった。
彼女に返した言葉に嘘は無かったが、実のところ私は、彼女と同業者だ。だが、もう辞めると決めた仕事だ。
私の仕事は、人の心を目に見える形にすることだった。自分では伝えきれない思いを、誰かに伝わるように形にすること、だった。
別に小さい頃からの夢だったとか、憧れだったからではない。その仕事をすることが、私が母親に疎まれた能力のただ一つの使い道だったからだ。
トイレの便器を前にしていると、徐々に安心感を覚える。ここでなら泣いたって吐いたって他人を罵ったって、許される気がする。今まで私は生きてきた中で、様々な危機的状況をトイレの個室でやり過ごして来たなという、他人からしたら意味のわからない感慨が沸いてきた。
自分の心の守り方がこんなことしかわからない人間になど、あの仕事は無理だったのかもしれない。
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