第8話 道に迷った男がたどり着いた幸せな世界
この道を通るのはもう何度目だろう。私は今自分がどこにいるのか、どこを歩いているのか全く分からなくなっていた。
いつもどおりに自宅を出て、いつもどおりの道を通っていた。普段なら歩いておよそ15分程で職場に着く。今日はたまたまいつもの道が道路工事で通れなかった。ほんのちょっと迂回しただけなのになぜこんな事になってしまったのか。
私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも認知症でも急に発症してしまったのだろうか。いや、私はまだ50歳。ストレスも悩みもない。おかしくなる要素も認知症になる要素もないはずだ。
しかし、どの道を通ってもいつもの道に戻れない。もちろん職場にもたどり着かない。気持ちが焦れば焦るほど、職場の方向や、自宅の方向さえも分からなくなっていく。
どれくらいの時間歩き回っていたのか、とても足が痛い。私はついに座り込んでしまった。
「少し冷静になろう…」
私は自分に言い聞かせた。なぜ道が分からなくなってしまったのか。たかだか15分程度の道程なら、距離にすればおよそ1.5kmにも満たない。そんな短い距離で、いい大人が道に迷うなんてありえるのだろうか。しかも、これまで20年以上通い慣れた自宅と職場の移動だ。
私はとても不安になった。
「一体どうしたらいいのだろう…」
いつの間にか、辺りは薄暗くなっている。すると、道沿いの街灯が1本づつ、ポッ、ポッ、と明かりを灯しだした。その明かりに照らされたのは、路地沿いの塀に貼られた古いデザインの清涼飲料水の看板。ノスタルジーを感じさせる看板を見た私は、ふいに子ども時代を思い出した。
私が少年時代を過ごした東北地方には「迷い道の神さま」という古い言い伝えがある。子どもの姿をしたイタズラ好きの神さまが、大人を迷子にしてからかうというものだ。私は、子どもの頃どこかで聞いたそんな話を思い出していた。
「おかしな神さまに目をつけられてしまったのかな」
そんなことを考えているうちに、今度はなんだか愉快な気持ちになってきた私は、つい声を出して笑ってしまった。
「アハハハハハハ!」
すると、遠くからなにやら大声で叫ぶ声が聞こえた。その声がするほうを振り向くと、老女と初老の男が凄まじい形相で私に走り寄ってくる。
「ひい!」私は思わず悲鳴をあげた。
私に向かい老女が叫ぶ。
「お父さん! こんなところで何やってるの! どれだけ探したと思ってるの!」
私はうろたえながらも、初めて会ったその老女と初老の男に優しく紳士的に声をかけた。
「あの…、大丈夫ですか? 多分、お人違いをされていますよ」
するとその老女と初老の男はあきれたような表情をしながら、二人で私の両腕を抱きかかえた。
「ちょっと! 何を…」
私はあっという間に車内に連れ込まれてしまった。
なんという乱暴な連中だろう。私はどこに連れて行かれるのか。
「さあ、帰るよ」
初老の男はそう言うと車のエンジンをかけた。老女は黙って私の手を握っている。私は疲れていたし、なぜだか初めて会ったこの老女に手を握られても嫌な気がしなかったので、とりあえずはこの二人に従うことにした。
まったく、今日は大変な一日だ。車で揺られるうちに、私はどっと疲れてしまって、いつの間にか眠りに落ちた。
同乗している老女が私の手を握りながら、初老の男と何やら話している。
「お父さん、すっかり疲れちゃって、ぐっすり眠ってるよ」
「そりゃそうさ、もう88歳にもなるのに9時間も歩き回ってたんだから」
「部屋の鍵、外側からかけなきゃダメだね…」
「うん、可哀想だけど、仕方ないね…」
私は、夢現のなか、明日は絶対に職場までたどり着きたいと強く願った。
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