Phobia
桑名銀天
1
午後三時三十分。場所は市立宮瀬中学。その日の授業が終わったことを告げるチャイムが鳴った(余談、このチャイムのメロディはイギリス名物・ビッグベンに由来するらしい)。
子どもたち(この歳だと子どもと取ることも大人と取ることもできるが、未成年という点から子どもとする)は、その日の束縛から解放されてそれぞれの自由な時間を過ごす。
ある人は、そのまま、まっすぐ家に帰る(どうせ寄り道をするのだろうけど)。またある人は、部活に行き、精一杯汗をかいたり(青春してんなあ、とか思いながら)、創作に精を出す(悪ふざけしながら)。またある人は、補習・居残り(今時いない?)。およびその他諸々。
各々が各々の帰途に就くために、廊下には沢山の制服姿が溢れていた。
私・葉月百合(二年生)は「帰宅部」である上委員会などに所属しているわけでもない。従って、チャイムが鳴ると私の取る行動は、先程言った中の第一項、ということになる(括弧内は無視)。ただし、私の場合は他の人とちょっと違う。帰り道への就き方が。他の生徒が廊下の端、階段へと向かう中、私は逆方向へと行く。その場所は、廊下に取って付けたかのような二メートル四方の空間。地図で見れば瘤が付いたようにも見える。そしてそこには、三角形と、逆三角の付いたボタン。私は逆三角の「下」を意味するボタンを押す。チン、と音がして自動ドアが開いた。
これは本来車椅子などの障害者のために設置されたエレベーター。つまりこれは一般の生徒は使用できない代物。私は脚に障害を持っている訳じゃないけど、私はこれを使うことを許されている。なぜなら、私は「一般」だけど「特別」だから。
中に入って「1」を押し、「閉」を押す。扉が閉まり、景色が上へと流れていった。
*
あれは、そう、小学校に上がって間もない頃だった。交通安全のお守りを貰いに、神社へと父親と二人で出かけたときのこと。その神社は山の上にあって、辿り着くまでにはそれなりに長い階段を登ることで有名な神社だった。その所為か、近くの学校の運動部がトレーニングに来ることも時たまあるらしい。
登りは、何ともなく、順調だったの。疲れたけど。問題は、お守りを貰った、その後。下りてみて分かったんだけど、実はその階段、勾配が結構急で、身体の小さい私にとっては一苦労だった。階段は登りより下りの方が辛いっていうのは、確かに合ってると思う。で、悪夢が起こったわけ。お父さんと取り留めのない話をしていて、私は石段を踏み外した。滑って後ろに転ぶのならまだ良かった。背中を打ち、後頭部を打つだけだから。でも私の場合、階段が歪んでいたとか、歩幅が短すぎたとかの事情が重なって、前のめりに派手に転んだ。腕で頭を守ったのはいいものの、そのまま勢いを殺さず前転、バランスを崩して横向きになったと思ったら、そのまま一番下までごろごろ。歩道に投げ出され、慌ててお父さんが駆けつけてきた。全身打ち身、夥しい数の擦り傷・切り傷。私は「大丈夫」とか言った(その直後に大泣きした)けど、実は思ったより大変だったことが帰ってから判明した(命に関わるとか、障害が残るとかはなかった。距離が短かったからかも)。消毒液のしみる痛みによって。
無病息災のお守りも貰っとくべきだったな、というのは、後日談の笑い話。でも、この出来事は私に「高所恐怖症」というトラウマを植え付けることとなった。
でも実際は「階段恐怖症」だった。それも、下り限定の。
それは、上る分には何ともないけど、下りになると底知れぬ恐怖に包まれ足が竦み、立てなくなるというもの。
挙げ句の果てには泣いちゃって、周りの人を困らせたこともしばしば。運が良かったというのか、私が入学した小学校はバリアフリー思想によってエレベーターが設置されていた。というわけで、私は特別にそれを使わせて貰っていた。
中学に上がってもそれは同じ。登りは階段を使い、下りはエレベーターを使う。奇妙だと言われることは慣れっこだった。
階段恐怖症を克服しようとは思わなかった。あの人に会うまでは。
*
再びチンという電子音。一階に着いたようだ。自動扉が開き――
「てーーっ!」
「!?」
突如私の顔に冷たいものが飛んできた。私は思わず顔を庇った。腕の隙間から見ると、エレベーターホールから男子が水鉄砲を撃っていた。中学生にもなって水鉄砲ですか。
やっと集中砲火が止んだと思ったら。
「ばくげきーっ!」
「ひぁぅっ!?」
またしても来た冷たい感触に、奇声を上げてしまった。しかも今度は水鉄砲のように点の攻撃じゃない。面の攻撃だった。視界が水で滲んだ。もう一発来た。さらにもう一発。
「お前が階段恐怖症だから悪いんだぞ」
………何それ。
「悔しかったら階段で下りて来いよ!」
………できません(ここ一階だし)。
「だっせぇ! びしょ濡れじゃんか! ちゃんと拭いとけよ!」
あんたらの所為ではないのかあんたらの!
笑い声を上げながら、悪ガキ三人衆は去っていった。目に入った水を拭い取り、足下を見た。水たまりの中に、赤、青、緑のゴム片があった。
(み、水風船(別称:水爆弾)?)
悔しかったけど、さっきの悪ガキの言葉を思い返すと、自分が悔しくてならなかった。どうして自分はこんなに弱いんだろうって。階段を下りるなんて、他の人には当たり前にできることなのに!
泣き虫の悪い癖が、目に涙を浮かべさせた。やがて、私の頬を濡らすのが爆弾の水か私の涙か分からなくなった頃、側にいた誰かが呼んだであろう先生が駆けつけてきた。その時の私は、上半身だけが濡れ鼠だった。
今の時期は衣替え前。まさに最悪だった。中まで濡れたブレザーは日に当てて乾かすには日差しが弱く、ストーブに翳して乾かすことも出来ない。その上濡れたまま風に当たればさすがに震える。悲しいくらいに、最悪だった。私はどうすればいいのか、保健室で悩みまくった。それは先生も同じだったらしい。私はジャージを着て(その下には何もないです!)、先生が頭を抱え唸る様を見ていた。
結局、私は学校備品のジャージ上下のまま、濡れた制服を持って帰宅することになった。お母さんに説明したらすっごく怒られた。
その夜。自然と、雫が頬を伝った。目を閉じても、それは止まらなかった。やがてそれは嗚咽に変わった。必至に声を押し殺した。しゃっくりも出てきて、眠りに就いたのは、涙が涸れてからだった。どれほどの深夜だったかなんてのは、覚えてない。でも、何故か、心地いい眠りだった。地の底へと堕ちてゆくような恐怖も混じっていたけど。
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