冒涜的錬成術~気弱な僕もマッドに墜ちる~
深蒼鉄鋼
第一章 巡る因果の世界
第1話:試恋
深い悲しみと怒りを覚えた時。
もしやり返せる力と手段を持っていたのなら。
その先に続く道が深い暗闇だったとしても。
迷わず身を投じてしまうと。
僕は思うのですよ。
◇
もう丑三つ時も過ぎようかという深い夜の中、闇に染まる寒空の下にしては不相応に光る部屋が一つ。
そこはとある大学の研究室の一角だった。中からはとめどなくパソコンのタイピング音が鳴っている。
「やれやれ……結局泊りになってしまいそうですねぇ……」
機械の排熱による室温の上昇か、はたまた暖房による発汗のせいかベストポジションから僅かにずり落ちてきた大きな丸メガネを元の位置に押し上げ、そう白衣姿の男は独り言ちた。
彼の名前は内宮
うちみや
創慈
そうじ
。この大学で生物学を専攻しており、本日は論文の執筆のために長時間研究室にこもっていた。
自宅でも作業は出来たが、研究室の方が何かと資料が揃っている他、家で作業するとどうしても気が緩んでしまう質なことを鑑みての選択だったのだが、どうやら興が乗りすぎてしまったことからこの現状に帰着している。実験者ではないので普段着もしない白衣を着ているのは、単に作業意欲を刺激するためだ。
「ん~流石に眠くなってきましたねぇ……今から帰るにも電車はとっくにありませんし……タクシーでと言うのもお金がもったいないですねぇ」
そうやってずいぶんと論文を書き進めたがついには限界が来たようで、凝り固まった四肢を伸ばしがてら創慈は立ち上がる。何と無しに部屋を見渡してみても資料が雑多に積まれたメインの作業机と資材や資料を保管するための棚、そして壁際に沿うように置かれたソファが視界に映るのみだ。
「まぁ仕方ないですねぇ、キリの良いところまで書けましたし今日の所はソファで寝ますか……」
幸いにも今日はもう日付も変わって土曜日。きっと寒いだろうが朝一にでも起きて家へ帰ろうなどと考えながら、メガネを白衣のポケットに突っ込みつつ創慈はソファに寝そべった。それなりに前にも横にも幅のあるソファなので成人男性が一人寝る分には丁度収まる程度のスペースはあった。もちろん靴は脱いでソファのすぐ下に置いている。
「ふぁぁ……おやすみなさ~い」
誰に向けてのモノでも無く、創慈は瞼を閉じた。
そういえば、母に今日は帰らないと連絡を入れるのを忘れていたことを眠る直前にふと思い出したが、創慈は一応家を出る前に帰らないかもとは伝えていたので、まぁいいかと思うことにした。それに携帯は作業の妨げになると電源を切って机の上に放置してあるので、わざわざ取りに行くのも面倒であった。なのでこのまま眠ってしまって構わない。
そう堕落的な結論付けてまもなく、創慈は深く穏やかな闇へ意識を埋没させていった。
◇
素知らぬ誰かの声が聞こえた様な気がして薄っすら目を覚ました時、最初に感じたのは青く深い草木の香りだった。
そして次に後頭部あたりに石を踏んだような鈍く固い感触を認識したところで、ようやく創慈の意識は覚醒した。
「ん……?」
しかし意識がハッキリとしたところで状況飲み込めるとは限らない。ましてやソファの上では到底感じえない刺激を得れば脳裏に疑問符が飛び交うのは想像に難くないだろう。
ゆっくりと白む瞼を押し上げてみると、仰向けに寝そべっている彼のぼやけた視界に広がるのは、広々とした青空とそれを遮る様に枝葉を伸ばしている木々たちだった。
その映像はそれなりに勉学を積んできた創慈の脳味噌でも、思考が停止するには十分な威力を持っていた。ひとまず白衣からメガネを取り出し、装着する。いくらか鮮明になった彼の視界に広がる光景は、概ねの様相を変えずそこにあった。
「……一先ず夢……ではないようですね……」
とりあえず太ももを抓ってみれば、相応な痛みが返ってきたことから、悲しくもこの目に映る光景は脳味噌が生み出した産物ではないことを確認した。それに夢の中ではこうもハッキリ意識は冴えないだろうということも、判断材料の一部となった。
「明晰夢という線も……いや、これ以上は悪あがきですね……」
言わずもがな、これが明晰夢の類であれば夢を想像で動かせるはずである。夢について少し興味を持って調べていた時期もある創慈は早々にその考えに至り、その線は捨てた。
「……まぁまずは考えつつも行動しなければいけませんねぇ……」
そう呟きながらまずは立ち上がり、足元付近に転がっていた靴を履く。どこの誰がこんな森の中へ自分を放棄したのかは分からないが、ご丁寧にもソファの下に置いていた靴は一緒に持ってこられていたようだ。その代わりに携帯や財布は無いようで、文字通り無一文だ。
創慈は靴下裏の土を払いつつ靴を履き、紐をしっかりと結ぶとおもむろに空を見上げた。太陽の姿は見えないが、空の色から察するにまだ正午前後あたりだろうと予想を付ける。
この森から出るにしても時間配分はある程度考えておかねばならないだろうと、頭を回す。
「……ダメですね、思考が纏まりません……」
口調こそまだいつも通りを保てているが、心拍数や胸中の不安感は今までにないほど荒々しくなっていた。しかし、それもそのはずだ。なんせ彼はただの大学生であり、普段は少々小心者なきらいがあり、気弱な青年なのだから。
誘拐、神隠し、拉致などの言葉が無意識に脳裏を行ったり来たりしているなかで、落ち着いた思考などできるはずもない。
「森を抜けて人里……よりも先に水源を見つけた方が良さそうですね」
直射日光を浴びていない分まだ体温の上昇は僅かだが、何分気温が高い。これでは発汗等で水分を消耗することは目に見えていた。なので水源……川もしくは湖を探すことにした。無ければ最悪沼でも水分は取れるのだが、なるべく綺麗に済ませたくなるのは現代人の性だろう。
ちなみに、眠る前は冬だったのにも関わらずこんなにも暑い訳は出来るだけ考えないようにした。きっと、目を背けたくなるものに気付いてしまう気がして。
太陽の光をより強く感じる方角を一応の目安として、休憩を挟みつつも歩を進めること一時間弱。創慈は運よく眼前を横たわる様に流れる川にぶつかることが出来た。川幅は大股で十歩ほどでそこそこ大きな川と言えるだろう。
「ふぅ……頑張って歩いた甲斐がありましたねぇ。もう喉もカラカラですしちょっと危なかったですね」
そう言って川岸にしゃがみ込む。
このまま口を川に……なんてことは勿論しない。サバイバル等を良くしていて強靭な胃を持っているのならともかく、脆弱な都会っ子大学生が、大自然の川を流れる生水を飲むのは非常に危険だ。それも体を壊したのならばすぐさま死に繋がりそうなこの状況ではなおさらだ。
まず、川から拳三つほど離れた場所を掘る。おおよそ手首から肘くらいの深さで範囲を少し広めに掘れば、水が滲み出るのだ。
この作業を数十分行うと、最初は濁っていた水だったが徐々に澄んでいき、最終的には十分飲める量の水を確保できた。
源流の状態によってはこれでも危ない可能性はあるが、創慈の知識では現状これ以外に今できる濾過法が無かったのでこの水を飲むしかない。
「さて……ちゃんと飲める水でありますように」
普段信じてもいない神に祈りながら数秒掛けて湧き出た水を飲み干す。それはそれは人生の中で最も美味い水といっても過言ではなかった。
「あ~~もう限界ですぅ~」
水を飲み切ったら緊張が緩んだのか、今まで半ば忘れていた疲労感がグッと身を乗り出してき、創慈はその場に仰向けで倒れ込んだ。川岸には木が生えていないので空が良く見えた。
(うーん、一先ず誰か人と会いたいですねぇ。人と出会えれば事情を話して携帯なりを使わせてもらえればよいのですが……)
恐ろしい予測が正しければ、ここは日本ではない可能性がある。もちろん急に冬から夏のような気候に代わるのはありえないからだ。だとすれば、外国……日本が冬の時に夏の国と言えば南半球の国だ。帰るのはかなり骨が折れそうである。
英語などの外国語ならまだ少しは馴染みがあるが、その他……特に一部地域のみで使われている言語などともなるとまるで分らない。分からないという事はコミュニケーションが取れないという事に他ならない。
人間はコミュニケーション能力を武器に繁栄してきた動物なのだから、それを封じられるのはこれ以上にない痛手なのである。身振り手振りでも……自分には無理そうだなぁと創慈は溜息をつく。
まぁ何はともあれまずは休息である。喫緊の課題であった喉の渇きも解決できたので、多少は危機感のせっつきもマシになった。思考も徐々にだが落ち着きを取り戻しつつある。
飯のことも何かしら考えねばならないが、体力が戻らないことにはどうにもできないので、創慈は大の字で寝転がったまま思考を回すことにした。
「森の中で得られる現実的な食料といえば……山菜やキノコ類、あとは魚くらいでしょうかねぇ」
頭上に流れる川を見上げそう独り言ちる。一瞬、獣肉のことも頭に過ったが自分には狩猟は厳しそうだと思い、候補から除外した。まるで己の狩りの様が思い浮かばない。
「川も綺麗なので魚は探せば取れそうですねぇ、あとは……ん?」
サバイバルという専門外なジャンルに対して必死に頭を働かせていると、ふいに足の先の森の中から、落ち葉を蹴飛ばしながら走って来る様な音と生き物の息遣いが近づいてきていることに気付いた。
もしや荒ぶる獣がやって来たかと創慈は疲労を押しのけ立ち上がり、身構えた
徐々にその姿は明瞭になってきた。
「へ?」
それは小鬼と表現するのが最も適しているであろうシルエットだった。小鬼はペンダントの様な物を右手に握っており、何者かから逃げる様に走ってきている。
しかしそんな様子はどうでもよく、何度目を瞬いても間違いのない異形はもちろん人などではなく、かと言って生物学を専攻している身としては全く未知の怪物だった。
「ギャババ!」
どうやら向こうも創慈の姿を補足したようで、驚いたように立ち止まった。
僅か数秒、マヌケ面の人間と緊迫した表情の怪物が見つめ合った後、あろうことか怪物は創慈へと敵意を以て飛びかかった。
「ギャア!」
「うわぁ!」
それはほとんど弾かれるような反射のみだった。創慈は思いっきり背後へ跳び、その襲撃を躱した。だが、滅多に運動をしなかったせいか、着地は失敗し足をもつれさせるようにして尻餅をついてしまった。
そこを怪物は好機とし、いつの間に拾ったのか拳大の石を握りしめ創慈にじりじりと近づく。
「あわわわわ」
人生で初めてといえる体験。日本で健全な生活を送っていたら余り出会う事のない経験。それは明らかな害意を以て迫られるという経験だ。
想像以上の恐怖、想像以上の慄きにより、もはや創慈は立ち上がることすら困難だった。
そしてついに小鬼は眼前へと迫った。そして握りしめた石と拳を高らかに振り上げた。
もうだめだ、そう創慈は思いギュッと目を瞑り、せめてもの抵抗に腕を頭上で交差させる。
…………衝撃も痛みもこないまま、十秒弱ほどが過ぎた。
「はれ?」
思考が空洞化したせいか、何故という感情に突き動かされ、恐る恐る腕の交差を解き、目を開いてみる。
すると、そこには……
「よう、大丈夫か?」
太陽の輝きを受けて煌めく金の毛髪……華奢で小柄な体躯を以てしっかりと大地に立つ姿……そして小鬼の頭蓋を真後ろから貫いている大振りのナイフ……総合すると、怪物以上の驚きがそこにいた。
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