第38話

 僕は止めていた足を再び前に出し、雨が激しく振り落ちる中に飛び出した。


 必死で、必至なその事態から逃れるように、僕は走り出す。

 

 肌に雨が打ち付けられ、次第に体温が低下していく。


 息は切れ、心身共に正常な状態ではない。それでも僕は走る。逃げるように、縋るように走り続ける。


 あの横断歩道が、視界に入った。


 時に気だるかったあの場所。時に悩んだあの場所。時に喜びを感じたあの場所。


 僕はあの横断歩道で、色々な思いを抱いていた。

 

 信号は青。


 立ち止まることなく突き進み、左に曲がる。想いながら、願いながら。

 

 大きく呼吸をする度、口の中に大量の雨が注ぎ込まれ溺れたような感覚になる。


 海で溺れた子供と蓮は、これ以上に苦しかったのかと思うとぞっとする。

 

 何度も手で顔を拭いながら、やがて視界に映し出される。


 蓮のいる屋敷。僕は更に足を速める。

 

 足が二度と動かなくなろうが、どうなろうがどうだっていい。心臓の鼓動が異様な脈打ちを始めたが、そんなもの気に留めず僕は屋敷に向け進んでいく。


 縋りながら、願いながら。


 いつものようにあの庭園で、白いワンピースを着ながら笑っている蓮の姿がある事を願いながら走っていく。


 分かってはいる。


 けれど、それでも。


 僕はそこに何かを求めていた。


 何もあるはずの無いそこに、これまでの蓮との想い出が詰まったその場所に。


 縋らずにはいられなかった。

 

 勝手に縋って、そして一人で絶望の底に落ち込んでいく。

 

 門の前に立ち、滝のような豪雨を浴びる僕の視界に移りこんだのは、誰もいない――ただの庭園だった。

 

 力尽きたかのように不安げな足取りで門に近づき、ゆっくりと門を開け中に入っていく。


 花の香りも何もしない。


 香るのは、雨に打たれたコンクリートの独特な匂いだけだ。


「欄君」


 僕は、はっとして振り返る。


 蓮の声が聞こえたような気がしたのだけれど、そこには誰もいなかった。聞こえるのは、雨が激しく降り落ちる音だけだ。

 

 暗闇の庭園の中で、僕は崩れ落ち膝をついた。

 

 


 蓮が死ぬ。蓮が死ぬ。蓮が死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。



 頭の中で死の単語が蠢き、次第にそれらで埋め尽くされていく。


 僕は頭を振るう。だが、消えない。消えるのは、蓮。


 蓮がこの世界からいなくなる。


「うあああぁぁぁっ――!」

 

 僕は天に向けて叫んだ。


 全てを吐き出すように、全てを壊すように、僕の全てを乗せて叫んだ。


 何度も、何度も。雨の音を掻き消してしまうほどに、喉が裂けてもおかしくないほどに、僕は雨の中に隠れる自分の涙を感じながら叫び続けた。 


 「欄君」

 

 僕の叫びの間を縫うようにして、またしても僕を呼ぶ声が聞こえた。


 蓮、のはずはない。


 恐らくまた幻聴だろうと思い、天を見上げたままの姿勢を崩さない。


「欄君!」

 

 今度は、はっきりと聞こえた。幻聴ではない。誰かが僕を呼んでいる。豪雨の音にも負けない程の声量で、僕の名を呼んでいる。


 僕は、ゆっくりと声のする方角に顔を向けた。


 その方角は門。


 門の外に、一つの人影があった。


 暗闇の中の空間が、そこだけ光り輝くように色づかせ、人影は鮮明にその姿を映し出す。僕の良く知るその姿を、映しだす。


「やっと気づいてくれたでござるか、欄君」


「……田所……君」


 打ち流れる雨によってその機能をはたしていないだろう眼鏡を掛けながら、田所君は門の前に立っていた。


「叫び声が聞こえたから、おっとり刀で駆けつけたござるよ。正確にはほっぽり傘でござるが」

 

 声は聞こえないが、田所君は口を大きく開け笑っている。


 口の中に大量の雨が入り込んだのだろう、少しして彼は咳き込むような仕種を見せた。


 僕はゆっくりと歩み寄り門を開け、彼を中へと導く。


「どうして君が、こんなところにいるんだ? 確か君の家は、ここの近くではなかっただろ?」


「まあ、そうでござるが噂を聞いたのでござるよ。学校から帰ろうと思ったら、どこぞかの女生徒が幽霊が病院に運ばれたとか何とか話していたのでござる。小生はそれを聞いて、もしやと思い幽霊屋敷と呼ばれるここに来てみたのでござるよ。着いた途端、叫び声が聞こえたのでびっくりしたでござる」


 自ら聞いておきながら、田所君の説明は半分も僕の耳には届いてはいなかった。


 僕は田所君の両肩を掴み、縋りつくように言った。


「蓮を……助けてくれ」


「やっぱり、噂は本当だったのでござるな」


 沈黙が、雨の音を再び蘇らせる。


 田所君が蓮を救うことはできない、と分かってはいる。


 それでも僕は、この庭園に縋ったように田所君に縋りつくことしかできなかった。

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