キノコの森

里山一

第1話 キノコの森



 サブローおじさんは、キノコ採りの名人


 夏を前にして雨が降り続く頃と、夏が過ぎて秋風が吹く頃になると、おじさんは長めの袖のシャツに着替え、いつも大事にしている地下足袋を用意します。軍手をはめて帽子をかぶって出かけるおじさんの姿は、なにか凛々しくて、いつものおじさんとは別人のようでした。— ただ時々、シャツが裏返しになっていたりするのですが。


 八王子のこのあたりは、わずかに里山の名残りを残していて、よく見ると少ないながらも珍しい昆虫、野生動物、植物が生きています。大規模なニュータウン開発や宅地開発が始まって自然が少なくなってからすでに半世紀近く経っています。昔は狐や狸もたくさん棲んでいたのでしょうが。

 でもそれは遠い昔の話ではなくて、現在でも絶滅の危機にあるトウキョウサンショウウオや国蝶のオオムラサキの棲息地に、物流拠点建設計画があったりと、地元の人々の関心がもたれにくいところで進行しています。


 おじさんが学生だった、ある日のこと、キノコを食べることを思い立って、図鑑を手にしながら、森に分け入って、キノコを採集して食べてみたのが、キノコとの出会いだったそうです。もっともお金が無くて、食べるものにも工夫が必要だったのがもう一つの深い理由でもあったのですが。


 おじさんの部屋からはいつも奇妙な音が聞こえてきます。おじさんはアナログ・モジュラー・シンセサイザーを弾いています。プー、ピョロピョロ、ジーという音を出して、周りの反応も気にしません。ケーブルを引っぱってきては、あちらこちらの穴にそれをつっこんで音を出します。

 しばらくするとダダダ、ザーという低い音が入ってきて、大きな周波数の波のなかを漂っているかのように、目を閉じて音に聞き入っています。


 ある時は、キノコが生えている湿った古木を持ってきてプラスチックの容器に入れ、センサーを仕込んだケーブルをシンセサイザーにつないでいました。キノコの季節がやってくると、音が変化するんだと言ってます。


 おじさんはデータサイエンティストで、最近はデータ分析など人工知能を使った仕事をしています。たくさんのデータから統計的に特徴を見つけ出していく仕事です。

 様々な種類の大量データを分析しています。とくに金融関係の分析をしているそうです。おじさんの説によると、菌類の成長の仕方と、情報の伝わり方は、よく似ているそうです。

 これこれと言って見せてくれたのは、おじさんが撮影した粘菌が迷路を抜けて栄養分のある餌を見つける様子の映像でした。脳は無いのに、変形菌は迷路の抜け道を見つけ出すのでした。


 そして、

 人間は、答えはあるのに、戦争や環境破壊や気候変動などから抜けられなくて、バカだよね。

 と言います。


 いっぽうで、おじさんが自分で、ぜひ作りたいものは、キノコの名前や性質を表示するアプリケーションです。写真を撮ってネットにアップロードすると、クラウドで分析して答えをたちまちに返してくれるものです。

 でも、そもそも世界中にどのくらいの種類のキノコがあるのかは不明だそうです。日本だけでも五・六千種あると推定され、そのうち名前がついているものがやっと千八百種あるかどうか。キノコの種類を分別するためのデータセットもアメリカの大学から公開されているそうですが、ちょっと役に立ちそうにありません。

 だから人工知能の機械学習によって、キノコの種類を判別したり、食用種かどうかを見極めるアプリの完成はまだ先になりそうです。


 キノコはなぁ、すごいんだぜ。俺はさ、これを干して吸ったことがあるのだけど、二晩ぐらいこの世を離れていたんだ


 と、南米や熱帯アジアの国々を旅した時の話をしてくれます。


 キノコは、古代人たちを意識の高みへと導いてくれたし、大昔の日本でもキノコを食べては踊り出し、天上世界と交歓していたんだ。


 と、話に熱が入ります。

 

 おじさんとは、そんな話をしながら山で採ってきた小さなキノコをアルミホイルに包んで味噌や醤油で味付したり、炙ったりします。

 キノコオムレツ、キノコご飯、キノコ炒め、キノコ汁とかもいけてます。

 とても美味しいのですが、それでぼくの意識は変わるわけではありません。


 おじさんの本棚には、キノコ図鑑以外にも、技術書、数学、生物学、人類学、文学などの本が並んでいます。

 オルダス ハクスリーが書いた「知覚の扉」という本があって、おじさんが好きな60年代のロックバンドのドアーズの名前は、この「扉」にちなんでいるそうです。


 おじさんは、コロナウイルス感染防止で設けられているアメリカへの渡航制限が解除されたら、サンフランシスコに引越しするそうです。データサインティストの仕事の依頼があって赴くつもりです。カリフォルニア大学バークレー校大学院時代の友人がスタートアップしたので手伝いにいくそうです。

 その友人のスティーブとは、キノコでもつながっています。スティーブは現代音楽好きで、作曲家ジョン・ケージを尊敬しています。

 ケージは、「大恐慌」時代にカリフォルニアの森と海に臨んだ美しい街カーメルに住んでいた。森でキノコと出会って、一週間ほどキノコだけを食べて暮らしたという。

 ケージによると、英語の辞書では、音楽musicとキノコmushroomとは隣りあわせに並んでいるそうです。—  本当にそうでした。

 音楽好きな彼らにとっても、音楽とキノコは隣りあわせなのです。


 そのスティーブとおじさんは、学生時代に彼のポンコツのフォルクスワーゲンを運転してメキシコまで下っていって、地元の人に教えられてペヨーテというサボテンを食べにいったそうです。食べてしばらくしたら、閃光が輝いて、感覚は鋭敏になりました。とにかくこのサボテンは、何か目の前の世界を離れて別の精神の次元に連れていってくれるそうです。おじさんの場合は座っている自分を上から眺めているのに気がつきました。

 この体験のために、スティーブとサンフランシスコからメキシコまで、このサボテンを求めてドライブしたわけです。


 えっ、キノコじゃないの?

 

 と、ぼくが聞くと、おじさんは


 メキシコの砂漠は乾燥しているからサボテンさ、山間部にはキノコもあって、それも宗教儀式に使われているよ。精神の高みを求める気持ちは変わらないからね

 

 と、言っていました。



 山の上では、秋はすでに盛りで、風は町よりもずっと冷たく感じられるのでした。今日はおじさんの誘いにのって、キノコ採りにつきあいます。目指すのは、裏高尾にある林道です。

 高尾山や多摩御陵など、人によく知られた場所を含めて、森や小高い山が連なっています。ここでキノコを見つけます。

 また里山の風景が残っている八王子の川口や恩方などでもキノコを見つけられます。このあたり一帯にある二十数種類の食用キノコがおじさんの採集対象です。

 この地域は、南北の生態系が接するところで、生物種が豊富で千数百種を見ることができます。


 今日はモミの木などのもとにあるアカモミタケを探します。アマタケや、倒木などのあたりでクリタケやこのあたりではササコと呼ばれているナラタケなども探せます。ぼくのキノコの知識はまだまだなのでおじさんの指導におまかせします。毒のあるキノコを見分けるには熟練が必要ですから。

 でも今日は、キクラゲの仲間のハナビラニカワタケを見つけて、おじさんに褒められました。


 よく見つけたな、これはうまいんだ、って。


 第二次大戦後の建設ラッシュ時の住宅建設の木材需要を狙って植えられた針葉樹の人工樹林と、太古からある広葉樹林では植生も異なります。

 高尾山のケーブルカーを降りてすぐのところは標高四百七十メートルほどですが、ブナが見られます。もっと標高の高い山か、北の地方で見られないはずのブナがここにあるのはとても奇妙なことです。もっと気候が寒冷な時代にここに棲息していたブナが、高尾山は水も豊かで環境がいいので、温暖化しても北に移動しなかったブナの子孫らしいです。

 人工樹林は手入れされていないものも見られます。春の山に咲くフジの花は美しいですが、森林が手入れされていないと、つる性の植物が樹木に絡みつくそうです。だからフジの花が咲いている森は手入れされていない場合があるそうです。


 クマ出没警告のサインが所々にあります。だからぼくたちは熊ベルを下げています。イノシシや鹿に出会う可能性もあります。イノシシは、他の地域では、強い伝染力と致死率のCSF(豚熱)、いわゆる豚コレラにかかり野生イノシシが多数死んでいて養豚業にも懸念が広がっているそうです。このあたりでも感染拡大してくる懸念があります。もっとも人間には感染しません。


 でも人間の間で流行しているウイルスは、もとはと言えば、野生動物の体内にあったものが、人間が森の奥地に踏み込んだりした結果、変異して、世界で感染拡大しています。ぼくたちはそういうリスクが身近にあると考えた方がいいでしょう。


 おじさんによると、シイタケやマイタケなどのキノコ類の成分は、人間の免疫力を高めるそうです。


 だから今みたいな時は、キノコの有り難みがわかるのだよ


 と、言っています。


 ぼくたちはそんな話を時々まじえながらも、ほとんどは寡黙にキノコを探してはせっせと籠に入れます。


 日没から半刻ほど経った頃、ふと頭の上を滑空していく影がよぎりました。


 おじさんが、


 ムササビだな、って言いました。


 このあたりにはムササビが80頭ぐらい住んでいるらしいよ。体内時計を持っていて、いつの季節でも日没から半刻ほどすると巣から飛び出してくるんだ。


 あたりはだいぶ暗くなってきました。


 ぼくたちは、キノコ籠をぶら下げて家路を急ぎます。

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キノコの森 里山一 @dazro

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