第4話 ヴェルサーチ
わたしはこの時間を楽しみにしている。毎日、毎日。淡々と過ぎていく時間の中の、ほんの一握りの戯れを。
「ありがとうございましたー」
長年レジに立っていると、言葉は半ば自動的に口をつくようになる。まるでロボットだ、そんなふうに考えると、どこか可笑しい。猫のシルエットが描かれているお気に入りの腕時計にちらりと目をやると、十四時に近づいていた。そろそろだ。少しだけ、ソワソワとする。ロボットならこんなことにならないんだろうなぁと、馬鹿げた空想を続けた。
自動ドアが開く音と同時、ほのかな甘い香りがふんわりと店内へ入り込んでくる。彼が来たと、それだけでわたしにはすぐにわかる。五感が鋭いことが、昔から少しだけの自慢だった。勉強も運動も苦手、でも他の人が聞こえない音も聞こえたし、微妙な味付けの違いにだって気づくことができた。……お父さんが仕事終わりにキャバクラか何かに行って帰ってくると、匂いでわかるわたしは、後でこっそりお母さんに耳打ちしたりなんかして。今思えば、お父さんに悪いことをしたなと思う。子どものわたしはほんの自慢と、悪戯心からだったけれど。
「いらっしゃいませ、どもども」
「や。今日も暑いねー」
「あっついですね。もー店内から出たくないですよー。いつも通りでいいですか?」
篠崎さんは入店してすぐにわたしのいるレジへ向かってくる。いつも通り。甘い香りに、少しだけ、柑橘の香りが混じるようになったのは、気のせいではない。今日もそうだ。前回は…確か先週だったように思う。わたしはアイスコーヒーを淹れながら、考える。病院の先生って香水をつけるものなのだろうか。なんとなく、つけてはいけないイメージがある。ピースライトを二箱取ってレジへ戻る。篠崎さんの香りは、変わらない。
「…病院帰り、ですか?」
「あ、わかる?相変わらずすごいね。今日は少し意識してみたけど、やっぱり主治医の香水だと思う」
「お洒落な先生ですねぇ…」
「……お洒落に見える人ではないけどね」
会計を済まし、いつもの質問をする。
「一服しますか?」
「もちろん」
「ふふ、カフェオレ持って遊びに行きますね」
甘い香りが遠ざかる。名残惜しい。毎日、そう思う。自動ドアが閉まり、それは残り香に変わる。わたしは、急いで店長にサボると伝えた。事務所でスマホを弄っていた店長は、恋する乙女だねぇとニヤニヤしながら、いってらっしゃいと手を振ってくれた。
「お待たせしました!」
「お疲れ様。アイスコーヒーが暑いとおいしいねぇ」
「ですねー。わたしカフェオレですけど…。篠崎さんいつもブラックですよね。よくそんな泥水飲めますね」
「甘いの、吐き気しちゃうんだよね。俺、胃が弱くてさ」
篠崎さんはそう言うと、甘いバニラの香り、ピースライトの煙を吐く。
「でも香水とか煙草とか、香りは甘いもの好きですよね?」
「そうだねー。気分が落ち着く、というか。リラックスできるんだ」
「そういえば、その香水って名前なんて言うんですか?」
あれ、話してなかったっけ。と篠崎さんは少し笑った。この人は優しい話し方の割に、笑顔が少ない。控えめ、と言った方が似合うのかもしれない。
「ヴェルサーチの…エロスってやつ」
「うわ、なんか直接的な名前ですね」
「そう思うよねー。俺も最初香りだけ嗅いで気に入って買ったんだけど、名前見てうえってなったよ」
「エロス…ふむふむ。たしかに大人の色気が…ふむ……」
甘いバニラの香りに、ガムシロをたんまりと入れたカフェオレの甘さが重なる。後味のほんの少しの苦さが、頭をスッキリさせてくれる。…でも、そろそろ新しいコーヒー豆を仕入れないと。少しだけ、ほんの少しだけ酸化している。
「大人の色気ねぇ…ないけどねぇ俺」
「ありますよ!…たぶん!」
「説得力ないなぁ」
篠崎さんは、そう言って体を軽くくの字に曲げながら笑った。わたしもそれに釣られて笑う。幸せだと思った。漂うほのかな甘い香りに若干の柑橘が混ざろうとも、わたしは今幸せだ、と。
「さて、そろそろ帰ろうかな」
「もー、夏なんて早く終わればいいのに」
「暑くて辛いからね」
「……サボれる時間が短くなるんです、暑いと」
篠崎さんは車に乗り込もうとしながら、一瞬だけ動きを止め、わたしの顔を見て笑った。
「そうだね。…じゃ、また明日」
「はい!」
また明日。また明日。篠崎さんがその言葉を口にするのは、初めてだった。嬉しかった。何がなくとも、彼は毎日ここに来るだろう。でも、それでも、わたしはただただ、嬉しかった。
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