この夏、恐竜のおんなの子と仲良くなりませんか?
悠々自太郎
♯1 夏のはじまり
——“夏休み”
その言葉を聞くと、ほんの少しだけ切なくなる。
きっと、楽しかった以上に、やり残した思い出が多いから。
それは借りっぱなしのゲームカセットだったり。
毎年出すと言っていた手紙の約束だったり。
目標。夢。希望その他。
もしも、あの夏に戻れたら。
もしも、やり直すことができたなら。
“わたし”は、きっと——
………………
…………
……
「神田少年、そこにいるのはわかっているぞー。出てこきたまえー」
夏。7月末。
アパートの扉の外から、見知った女性の声が聞こえてくる。
現在時刻 AM5:49。
有り体に言って、早朝である。
常識的に考えれば、誰かの家を訪れるには迷惑極まりない時間帯。
つまるところ、この訪問者は一般的な常識を身に着けていないタイプということになる。
女性。常識の欠如。僕のことをわざとらしく“少年”と呼ぶような気取った口調。
「お前は完全に包囲されているー。おとなしく出てくるんだー」
……おまけに、なんの理由もなく、立てこもり犯を説得する警官のマネをし始めるような人。
まず間違いなく、“先輩”だ。
「…………」
とりあえず、無視することにした。
俗にいう、居留守である。
「zzz……んぁ……なに?」
「ふぁ……神田。なんか呼ばれてるぞ、出なくていいの?」
朝から何事かと言わんばかりに、ちょうど昨夜僕の部屋に泊まっていった大学の友人達が目を覚ます。寝ぼけた頭で体を動かすせいで、昨日の宅飲みで部屋の床に置かれた酒瓶やチューハイの缶が崩れ出した。
「……!」
しまった、と思った時には時すでに遅し。
アパートの扉越しといえども、あの先輩がこれだけの人の気配を察知できない筈もなかった。
「ふむ。なるほどなるほど」
「……(ダラダラ)」
「神田少年の友人、かな? 神田少年と折り入って話したいことがあってね。悪いけど、ここを開けてもらってもいいかな?」
「?いいですけど……」
「さ、させるかぁ!(小声)」
扉のドアノブに伸ばした友人の手を、マッハの速度(当社比)で掴んで食い止める。
「な、なんだよ。というか、外にいる女の人誰だよ。彼女いるとか聞いてないんだけど」
「彼女じゃない!た、頼むから静かにしてくれ!」
まずい。いまここで1人を抑え込めたとしても、部屋の奥にはもう1人控えている。
普段から下世話なトークで盛り上げる友人達のことだ。事情を話したところで、一人暮らしの男子大学生のアパートを早朝から訪れる女性の存在を簡単には無視してはくれないだろう。
流石に2人がかりで来られたら、僕如き防衛線はいとも容易く突破されることだろう。
「学食のメニューを1品奢るから。頼む、見逃してくれ」
「……カモシカ食堂の“スペシャル定食”大盛り、で手を打ってやる」
「ばっ……! それ、医学部キャンパスの高級食堂の方じゃないか。しかも1食1200円もするメニューを……」
僕らが通常“学食”と呼ぶ「安い、早い、具ない」が謳い文句の格安食堂とは違い、医学部のキャンパスにはいくつか高級な価格帯の食堂が並んでいる。ちなみに「カモシカ食堂」の料理長は元・三ツ星ホテルのシェフだったらしく、味も値段もワンランク上のものとの話だ。
正直、貧乏学生にとってはかなり痛い出費ではあるが……。
あの先輩から逃げられると思うと背に腹は代えられない。
「わ、分かった。1人分ならなんとか……」
「あ。俺は“特製デミグラスカレー”全トッピングのせで」
いつの間に起きてきたのか、もう1人の友人が僕の肩をつかんで何の罪悪感もなく僕にオーダーしてきた。ちなみに、1食2000円もするカモシカ食堂の中で最高価格のメニューである。
「…………」
「神田。俺たち、親友だよな?」
「な?」
一度、僕は交友関係をリセットするべきなのではと本気で思った。
とはいえ、今はこの状況を脱するのが先決だ。僕はしぶしぶ友人(と思いたい)2人の手に握手すると、彼らは僕に向けてサムズアップして交渉成立のサインを見せた。
報酬ありきとはいえ、彼らも友人と交わした約束を破る真似はしないだろう。僕は彼らを信じて、部屋の奥へと隠れるようにして移動した。
「あー……すみません。実は神田のやつ、俺たちに留守を任せてどこか出かけちゃったみたいでして、」
「もし正直に話してくれるなら、今度わたしの知り合いの女性との合コンをセッティングしてあげようか?」
ガチャ!
「「僕らの大親友、
少しでも彼らを信頼した僕が馬鹿だった。
一瞬で手の平をひっくり返した友人らが、何の罪悪感もなくアパートの扉を開く。
「悪いな、神田。俺たち定食やカレーなんかで女性の頼みを断れるほど子供じゃないんでな」
ついさっきまでそのメニューの奢りで釣られてたけどな。
「人間、本能的に3大欲求には勝てないのさ。特に性欲には」
いや普通に最低なんだけど。
「「それじゃあ、合コンのセッティングお願いします!!」」
「うん。ご協力感謝だ。神田少年を通してまた連絡するよ」
「「あざーっす!!」」
見事、裏切りを果たした友人2人が、それは見事な角度90度のお辞儀をしている。
相手は当然、扉の前に立っている1人の女性。
日本人らしくない、赤みがかった茶髪。ラフなTシャツに、ラフなジーンズ。
そして、街を歩いていたら誰もが見返るような程に整った顔立ち。
——それは紛れもなく、“
「それじゃ、俺たち帰りますんで!」
「神田! 今度、その超絶美人との関係も全部聞かせてもらうからな!」
「うむ。バイバイだ」
呼び止める間もなく、友人を置き去りに帰る友人らを、押鳥先輩は手を振って見送っている。
「……合コンの約束なんて、安易にしてしまって大丈夫だったんですか」
「ま。世の中、若い男の子と飲みたがってる妙齢の女性というのは多いものさ」
なるほど。交友関係の広い先輩のことだ、アラフォー・アラフィフ世代の人にも知り合いが多いのだろう。先輩の知人には美人も多いため、一概に不幸とも言えないが、彼らが痛い目を見ることを祈るばかりだ。
「さて、神田少年。それじゃあ行こうじゃないか」
「……行くって、どこに?」
恐るおそる、と表現するのがまさしく相応しい様に、僕は先輩に問い返す。
この人の提案には基本的にろくなことが無いことを、僕はこの大学2年間の生活で身をもって実感していた。
「決まっているだろう。カモシカ食堂の“特製デミグラスカレー”全トッピングのせ」
「え…………」
「折角だ。朝食がてら、2000円の学食ランチというものを見聞しに行こうじゃないか」
アパートの扉越しにどこまで聞こえていたのだろう。脅威的なスペックの地獄耳である。
はぁ、と僕は思わずため息をついてしまう。無駄に顔が整っているせいで、こんな提案に一々ドヤ顔しているのも、妙に絵になるから腹が立つ。
「押鳥先輩。世の中の常識として、早朝からやってる学食なんてありませんよ」
「……なるほど。そうか、それは残念だな。ならば“もつ牛”にしようか」
「一気にグレードが落ちましたね」
ちなみに、“もつ牛”とは牛のもつ煮を主力商品とする、24時間営業の大手外食チェーン店である。定番の“もつ煮丼”は並盛で320円とお得価格である。
「正直、わたしは米と肉系が食べられるならどこでもいい」
「身も蓋もないですね……」
美人なのに、相変わらず残念な先輩である。
とはいえ、こうして朝食を一緒にする程度の用件であれば、僕もここまで全力で逃げようとはしていない。かなりの変人とはいえ、傍から見れば美人の先輩からご飯に誘われているシチュエーション。僕も健全な男子大学生である以上、嬉しくないといえば嘘になる。
それでも、僕がこの先輩を避ける理由はただ一つ。
美人の先輩との食事以上に、厄介な話があるからだ。
「そうと決まれば、早速もつ牛で“次回公演”の話をしようじゃないか」
「……あの、どうして僕がもうすでにサークルに所属している前提なんでしょうか」
「ふふん。安心したまえ。うちの“劇団”に入団するのに書類手続きはないよ」
「いや、そもそも入団する気がないんですが」
相変わらずドヤ顔で話を進める先輩に、僕は改めて呆れてため息をつく。
押鳥先輩は、同じ大学の4回生であり、演劇サークル「劇団サフラン」の座長である。
演劇サークルといえば、華々しい光景を想像するが、その実態は過酷なものである。演劇サークルでは、役者のみならず、照明や音響、小道具などのスタッフも必要不可欠であり、少人数の演劇サークルにとって、常に人手不足は大きな課題となっている。そして、それは先輩の「劇団サフラン」においても同様とのこと。
つまるところ、僕は先輩の所属する演劇サークルに勧誘されているのである。勿論、役者としてではなく、舞台スタッフの人員として。
「……言っときますけど、何度誘われても僕は先輩のサークルには入りませんからね」
そして、僕はその勧誘を断り続けている。理由は単純。
そのサークル活動自体が、所謂“ブラック”であるからだ。
かつて、1回生の頃に“ボランティア”と称して、舞台の大道具を手伝わされた時の記憶が鮮明に甦る。ボランティアという位だ、簡単な木材の切り出し程度の手伝いだろうと高をくくっていた僕のもとに、いつの日か稽古場からやってきた先輩はこう言った。
『大至急、木造の船を1隻作ってほしい』
——人間、誰かに裏切られたと悟った瞬間には、本当に声も出ないものだと僕は思い知った。
そんな常識外れな注文のせいで、僕はほぼ一か月の間、筋肉隆々としたマッスルな大道具スタッフ達に囲まれながら、血反吐を吐きながら作業させられることとなった。
もっとも、そんな地獄を前に逃げ出すことなく作業をやり遂げたことで、先輩に気に入られてしまい、以来こうして現在までサークル勧誘されるとは予想だにしなかった。一度頼まれたことは断り切れない自分の性格を呪いたい。
「まあまあ。まずは腹ごしらえといこうじゃないか。人間、起きたばかりの頭で正常な判断などできないものさ」
「そんな朝早くにやってきたのは先輩の方なんですけどね……」
なるほど。今回の作戦は、寝ぼけた状態の僕に有無を言わさず「YES」と言質を取るというものだったのだろう。毎度のことながら、よくもまぁあの手この手で色々策を考えてくるものだ。
「細かいことはいいさ。さあ、早く“もつ成分”を摂取しに行こうじゃないか」
すでにアパートの扉も突破されている以上、これ以上の抵抗は無意味だろう。
もつもつ、と何故の擬音を口にしながら急かしてくる先輩の姿を見て、僕は諦めて靴を履き始めた。
それにしても、現時点でこのアパートの住所がバレている以上、少なくとも公演が落ち着くまではこうした勧誘が続くのだろう。そう考えると、かなり憂鬱な気持ちになってくる。
(……本格的に、この夏休みはどこかに避難しておいた方がいいかも)
そんなことを思いながら、靴を履き終えて、僕は立ち上がる。
アパートの外に出ると、嬉々として語る先輩と、セミの鳴き声が迎えてくれた。
ふと、鼻の奥をツンと刺すような、夏の香りがした。
「あ、そういえば。喜べ、神田少年。この前食べに行った時に貰ったクーポンがあるぞ、ホラ」
「ああ。多分それ使用期限切れてますよ」
「え」
→ 7月29日 大学の先輩に誘われ、もつ牛を食べに行った。
つづく。
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