第8話

次の日、昨日のことを思い返す度に、皆が俺のことをなんて言っているのか想像する度にムカついていた。

そんな状態だから慎重さを欠いていたのだろう。足を滑らせ少しの距離滑落してしまった。まさか自分がと思いながらも、転がるわけではなく滑るような姿勢をとれたため足でブレーキをかけることができた。止まった後は体の具合と滑った距離を確認する。体に変な痛みはない。手のひらと肘を少し擦りむいている他はズボンの尻のところが泥まみれになっているくらいだろう。幸い滑り台を滑る程度で済んだため怪我はほとんどない。振り返ると勾配自体はそこまで急ではなく、登ることはできそうだが実際に事故じみたことになった後となるとさすがに少し怖くなった。


この後どうするかと考えていたら微かに水の流れる音が聞こえた。とりあえず怪我した箇所を洗い流そうと思い音のする方へ下ったところ、流れの緩やかな、中々の大きさの川があった。周りは開けており大きく空が見える。地面が石だらけなのは氾濫することがあるからなのだろうか。こんな大きな川があるということは山と山の間の谷なのかもしれない。ということは俺は本当の意味で山を一つ越えることができたんだ。

天気がいいし、日当たりもいい。大きな岩もあるので、濡れてもすぐ乾くだろう。俺は靴と靴下を脱いで服のまま川へ入る。このまま汚れた服も軽く洗ってやろうと思って川の中の方へ進んでいると。



「危ないよ!」



不意に大きな声で遮られる。声のした方を見ると川の少し上流、対岸にある大きな岩の上に人影があった。

その人影は川に飛び飛びにある石の上を器用に渡りながらこちら側の岸に来た。

なんでこんなところに人がいるんだという思いで、少しの安堵と共に折角の冒険心が少し冷めてしまった。なんだかわからないが、とりあえず怒られるのかと思い身構えていると、

「ここ、真ん中の方は急に深くなってるとこあるから服着たままじゃ危ないよ?ってかどうしてこんなとこいるの?って、私が言えたことじゃないか。」

そう言いながらこちらに歩いてくる人影は、どうやら俺より少し年上と思われる女だった。

俺が答えに窮していると、

「君も遊びでここまで来たの?」

すぐ前まで来たその女は肩までかかる髪を揺らし、町では見たことないような綺麗な顔立ちで真っ直ぐ俺の目を見ながらそう訊ねてくる。俺はなぜか少し恥ずかしくなって目を逸らしながら

「そうだけど。」

と素っ気なく答えた。

「へー、住んでるとこ近いの?」

「山の向こう・・・。」

「え?山越えてきたんだ?凄いね。って私もそうなんだけどね。ところで、一人?」

「・・・そうだけど。」

「そっか。私と同じだね。なんで一人でこんなとこまで来たの?友達は?」

詮索されているような気分。でもきっと悪気なんてない。俺に後ろめたい気持ちがあるからそう感じるんだ。でもこの人は町の皆とは関係ない。だから言ってもいいのかも知れない。

「あいつらは、皆ここまで来れないんだ。ついてこれないって。だから一人で来た。」


・・・少しの間。

この女は何を考えているのか。俺を大人に言いつけるのか。それとも友達と仲良くなれとか説教でもするのか、もしくは友達と上手くやれない俺を憐れんででもいるのかと思っていると、

「そっかそっか。何かホントに私と同じだね。じゃあさ、私と遊ぼうよ。」

私と同じ?その意味は今一わからなかったが、

「誰が女なんかと。」

女が俺と一緒に遊ぶなんて無理だ。

「あー、酷いな。傷つく。」

「だって、年上みたいだけど女が俺と遊ぶなんて無理だ。俺は思いっきり遊びたいんだ。」

「女だから無理って?そんなことないよ。私、結構凄いと思うよ。」

「じゃあ競争するか?」

「いいよ。なにで?」

「川渡りだ。ここからさっきあんたがいた岩まで。」

「わかった。じゃあスタートの合図して。」

「いくぞ。よーい・・・どん。」


俺はさっきこいつがこちらまで渡ってきた飛び石のところまで河原を走る。石ばかりで走りにくいが、そこくらいしか飛び石で渡れそうなところが見当たらなかった。飛び石ではルートが限られるから後ろのやつが抜くのは難しい。これは先に着いた方が勝ちだろうと思っていた。そのまま飛び石のところに先行できた俺は勝利を確信した。

渡ろうといくつかの石を渡った時、石から川へ視線を移すとあいつはスタートしたすぐ近くの場所から川を渡っていたようで、対岸のすぐ近くの川の中をザブザブと進んでいた。その姿を見て気持ちは焦るが次の足場を判断しながらではそんなに急げるわけでもない。川さえ渡ってしまえば距離は有利と思っていたが、あいつは対岸を相当な速さで走っている。

よく見ると対岸は俺が走ってきたような石ばかりではなく土の箇所も多く、少なくとも俺が走ってきた道よりも走りやすそうだったし、何より走る速さが並みではなく俺より速いかもしれないくらいだった。

俺は川を渡りきる前に目の前を走り抜けて行く姿を見送ることしかできなかった。

そのまま減速することもなく、俺がゴールの岩の下に着いた時にはもう岩の上に登っていて

「ゴーーール!へっへー、私の勝ちだね。」

と両手を挙げながら喜んでいた。

俺は岩の下からその女が「どーだ。」とVサインをしている笑顔を見上げながら、今まで感じたことのない気持ちを感じていた。


俺も同様に岩の上に登って見るとそいつは下半身がびしょ濡れだった。

「負けたな。川の中を歩いたら遅くなるから飛び石まで行ったのに。」

「君がそうするだろうと思ったからね。あんな石だらけのとこを凄い速さで走ってくんだもん、これじゃ勝てないって思ったよ。対岸は地面が走りやすそうだったから、もっと手前で渡っちゃおうと思ったんだ。」

「だからって川の中に入る?普通。」

「あそこは浅いの見えたからね。途中までは石で渡れそうだったし、ちゃんと考えて走ったんだよ?無謀じゃないよ?」

だからって、だよ。服が濡れるのも構わずに、それでいてあの速さ、それも女で。

「もっとやろうよ。次は負けないから。」

「いいよ。私もこんなに本気で勝ちにいったの久しぶりかも。」

その後も木登りや水切り等で勝負したがほぼ互角、勝率では俺の方が負けていたくらいだった。



「お姉さん、やるじゃん。」

「いやー、君も中々やるね。私、運動神経には自信あったんだけど、木登りでは負けてばっかりだった。」

そう言いながらお姉さんは空を見上げて、

「ね、明日もここに来る?」

「どうかな。多分来ると思うけど。」

「そっか、今日はもう帰らないとマズい時間だから、また明日ここで遊ぼうよ。」

また明日、その言葉が嬉しかった。明日も遊べる。明日も会える。

それは今の疲労感が、帰り道が、あらゆる全てが希望に溢れる思いだった。

「ああ、じゃあまた明日。ここで。」

日が沈むまで余裕のある内に帰路に着く。来るときに山から下りてきた道に見当をつけていると、川を渡り切ったお姉さんが

「あ、ねえねえ、君。なんて名前なの?」

と手を振りながら大声で呼びかけてくる。

「井之口。」

俺も大きな声で答える。

「名前だよ。な・ま・え。」

「真。」

「マコト君だね。私はヨーコ。また明日ね。マコト君。」

そのままヨーコお姉さんは俺と同じような道とは言えないような茂みの中に入っていった。



その日の帰り道のことはよく覚えていない。ただ今日のことを反芻していた。今までの誰と遊んだ時より楽しかった。勝った時は嬉しかったし、負けてしまっても次は負けないぞと言ってまた遊ぶ。それができた。

全力で勝負して、それを何度も、それができたことなんて今までなかった。頬に少し気だるさがある、思い返してみると俺はずっと笑っていたんだと思う。別に何か可笑しいことがあったんじゃない、ただただ楽しかった。

日が落ちる前に家に着くことができた俺は、当初は親や皆に山を越えたことを自慢しようと思っていた。しかし今となってはそんなことは何の価値もない。もう町の皆に凄いと言われても全然嬉しくない。それより、怒られて山に行けなくなる方が困る。俺はここ数日のことを誰にも言わないことにした。

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