___ Me to the Moon

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___ Me to the Moon

 彼が彼女に初めて会ったのも、わずかな月明かりの下りる薄暮のころだった。

 彼女を初めて見た彼は面食らった。針金細工のような足。まっ白な翅はまるで繊細な刺繍のドレスのようである。なにより、離れていてもかすかに優しい匂いがした。

 そのままではとても近づきがたくて、一度物陰に隠れた。くすんだまだらの翅にクリーム色のキノコをはたき、即席のおしろいをまとった。ずんぐりした足はできるだけ引っ込めながら、おずおずと近づいた。

 何から声をかけるかずいぶん準備をしたにも関わらず、すぐに吹っ飛んでしまった。彼女の周りだけ夕闇から切り取ったように、真昼の太陽の匂いと、柔らかく甘い匂いが包む。

「きみから不思議な匂いがする。どうして?」

「不思議な匂い?」

 きっと怪しまれた、と彼はハッと口をつぐんだ。しかし、彼女は目をぱちくりさせた後、彼のおしろいに目を留めた。

「あぁ、驚いた。ごめんなさい、お仲間だったのね」

「ああうん、そう。驚かせてごめん」

 この日を境に、彼は毎朝おしろいをはたく。

「ええと、不思議な匂いがするって? にじいろ峠の花の蜜の匂いかしら」

「にじいろ峠?」

「あら、知らないの? 珍しい」

 藍と朱の混じる空を背に、彼女の純白の翅に月明かりが透ける。

「珍しいといえば。きみこそ、ここらじゃ見かけない顔だね」

「そうかもね。森は暗くてずっと夜みたいだから、行くなって言われるの」

 彼は少し落ち込んだ。しかしすぐに彼女が近くの花を指した。

「でも、そこの花」

「花?」

「蜜がおいしそうだと思ったから来ちゃった」

「へぇ。食べたことなかったな」

「食べなくていいよ。見た目ほどおいしくなかったから」

 それから、彼らはなんでもない世間話をした。彼については時折、空の色を見ながら。

「そうだ、さっき、にじいろ峠を知らないって」

「うん」

 彼女は彼に微笑んだ。

「よかったら、今度案内しましょうか」

「ありがとう。ぜひ」

 日が随分落ちている。彼女の翅すら見えなくなる前に帰さなければならない。

 彼は彼女を森の外まで見送った。それから、はらぺこの腹を抱えて果物を探して飛んだ。森の外は、日暮れであっても彼にとってはまだ光が強い。



 次の日の昼下がり。彼らは森の入り口で待ち合わせた。キノコのおしろいをはたいたほか、濃い紫の花びらで頬かむりをして。

「どうしたの、それ?」

「私のお出かけ着さ」

 彼女は笑った。いたく気に入ったようだった。

 森の先、小川を越え、原っぱを越え、彼女の先導のままに彼はついていく。進むごとに日の光が強くなってゆくのを彼は感じた。赤や黄、オレンジの花がふたりを迎えた。濃い紫の頬かむりが場違いなように思えた。

「そろそろ着くよ」

 その頃にはもう、彼は目を開けていられなかった。ほとんど彼女の匂いだけを頼りに後ろをついていっていた。

 突如、強烈な光が彼の体を貫いた。

 彼女が纏っていた不思議な匂いが、何倍にもなって彼の体内に流れ込む。目を開けずとも眩む視界。日除けの頬かむりなど焼け石に水であった。

 気づけば彼は地に伏せていた。白飛びした光の世界から、心配そうに彼女が彼の顔を覗き込む。

「大丈夫?」

 彼は悟った。ここが彼女の住むところである。そして、彼の住むところではないと。

「ごめんなさい、あなたの体にはこたえるのね」

「いいや、構わないんだ」

 彼は心が痛んだ。嘘をついたことにではない。最後まで嘘を通せなかったことにである。いくら食べなれぬものを食べて見せようとも、強い強い昼間の太陽にはかなわない。

「ごめん。あまり……明るいところに慣れなくて。眩しくて、あまり、よく見えない」

「そう……」

 悲しそうな彼女の顔を見るのがつらく、彼はしばらく俯いていた。

 しばらくして、あ、と彼女が彼を振り返る。

「何なら見える?」

「月ならよく見える。はっきりとこの目で」

「ああ、月!」

 彼女は嬉しそうな声を上げた。

「半分の月をよく眺めるの。私が家に帰るころ、空と空の境を滑って越えていくのを」

「夜にはまんまるの月もあるんだ」

「見たい」

 彼は仰天した。

「夜は冷たくて暗いよ。危ないから、お帰りよ」

「今度はあなたの場所へ行きたいの。同じものを見ましょう」

 彼女の姿は、彼には何よりも眩しく映る。ともすれば太陽よりも。それでいて、不思議とつらくなかった。



 その日は遅くに落ちあって、他愛のないことを話していた。日が沈んで少し経った頃だ。

「夜の月を眺めるのにいいところなら知ってる、けど」

 そう切り出すと、彼女は二つ返事でついてきた。そのことにまた彼は仰天したが、彼女は案外折れない質のようだった。

 すぐそこに森の夜が迫る。ここから先は彼女の空ではなく彼の空である。

「おい、やめろ」

 後ろから声が聞こえた。彼女と似た翅をもつ者たちが小さな群れを成して、森の入り口から彼女を見ていた。

「そいつは違うやつだぜ」

「蝶じゃないぞ」

「野蛮な闇の森に住んでるんだ」

 彼ははっきりと否定した。こうなると想像はできていたから、どもりもしなかった。実に落ち着いた嘘が流れるように出た。

「蝶さ。少し強い光が苦手なだけ」

「変わってるのよね」

「そう、変わってる」

 彼女は楽しそうに笑った。

「私のことを不思議な匂いなんていうひと、初めてよ。とても変わってて……信じているの」

 彼は翅を押さえた。おしろいが落ちるのが怖かった。



 ふたりは森の中を進む。今度は彼が先導して。彼女の方はほとんど目隠し同然で、ただ引かれるままに。

 光のない世界では、彼女の美しい翅も細い足も全てが闇の中である。当然、彼女の視界も。本来いる場所ではないのだ。

 森に入って少し経った頃、雨が降り始めた。

「なんだか、寒い」

「雨宿りをしようか。いい止まり木がある」

 ふたりは連れ立って太い木の枝の上に舞い降りた。

 雨宿りにしてはあまりいいところではなかった。なぜなら、枝を覆う葉は雨を凌ぐには心細かったのだ。彼は翅を地と並行に伏せる。なるたけ屋根になるように。

「少しだけ、眠ってもいい?」

「構わないよ。明日もまた月は昇るんだ」

 しばらくしないうちに立てたままの彼女の翅が安らかな上下を始めた。翅がたびたび触れ合う。そのたびににじいろ峠の匂いが舞い、彼はくすぐったい思いをした。

 雲の隙間から差し込む月明かりを仰ぐ。そして彼は思いを馳せる。この先のふたりのことである。ふたりの空を往来するのはただ月だけだ。その月にとりとめのないことを願った。

 もしも、であることとして振る舞えたならそうであるということにならないだろうか。彼女と同じ者でなくても彼女と同じ者と変わらない振る舞いをすることで彼女と同じ者になれないだろうか。

 どうしようもないのだった。もし、そんなものを食べて生きているなんてと揶揄されても、彼はそういう生き物である。誰かの目に触れないようにひっそりと食事を行うことくらいしかできない。

 隠しごとをしないなんてきれいごとでは守れない。隠して生きることを許されるのなら、何より本望だった。



 存外、彼女はすぐに目を覚ました。雨はほとんどやんでいた。

「今晩のうちに月を見ましょう」

「平気?」

「ええ。もう眠くない」

「ここからそう遠くないよ」

 ふたりは再び木々の間を縫ってゆく。この夜の暗がりが、彼女にはどう見えているのだろう。彼には見慣れたはずの森の姿は、なぜだか違って見える気がした。光が強いほど、より深い影が落ちるように。

 厚い木々の屋根が途切れた。

 頭上に藍の空が開け、祝福の月光がふたりに下りた。まんまるの月。夜空にのみ浮かぶ姿である。

「わぁ……」

 彼女の声が漏れ、それから、しばらくの静寂に包まれた。

 月は完全だった。これまでに彼が見たどの月よりも。これまでのまんまるの月と比べても、なお。輝きは最も強く、それでいて柔らかい。月光は彼の体を刺すことはない。ただ、全と静への誘いである。

 どれほど経った頃か、彼は視線を感じて振り返った。彼女と目が合った。彼女は見たことのないものを見る目で、彼を見つめていた。

「……月は、魔法でもかけるのかしら」

「どうしたの?」

「あなたが違って見える」

 この時彼女の言葉の意図が汲めなかったことだけが、後の彼の悔いである。一方で、すっかり取り違えて彼が答えた言葉が奇妙に噛み合ったのは、不幸中の幸いと言うべきだった。

「月が私を惑わしてやまないんだ。私は月ほど不動ではいられないから」

 彼女は何も言わないまま、再び月を仰いだ。それから呟いた。

「やっぱり、魔法か何かがかかるんだ」

 月って、ずるいと思う。

 彼女の言葉を反芻しながら、夜明けまで月の軌道を眺めた。

 明朝の空。未練に引かれつつも森の入り口でまた別れて、彼は森へ帰ろうとした。そして水たまりにその身を映して、愕然としたのである。

 おしろいは半分ほど溶けていた。きっと雨に流れたに違いなかった。

 もう、もう会えない。

 彼は悲しみのあまり、翅を水たまりに浸した。残りのおしろいが溶けていった。後悔と苦しみも一緒に溶けてなくなればいいものを、それだけはいつまでも胸中に渦巻く。

 ただ、結局彼は翅を捨て切れなかった。まだ乾かせば直るうちに体を起こす。次の待ち合わせに会えずとも、その日その場所にいたい。いや、そうしなくてはならないと、彼を何かが急かした。

 なんとか乾かした翅に、念入りにおしろいをはたいた。



 驚いたことに、待ち合わせた場所に彼女は現れた。

 なんと声をかけたものか、初めての時よりも困惑し、彼は言葉を失う。そんな彼を気にも留めないかのように、彼女は切り出した。

「ねぇ、もっと月の近くまで行かない?」

 彼はまた面食らった。

「どうして?」

「あなたはにじいろ峠に来れないし、私もひとりじゃ夜の森はくぐれない。だけど、月だけが繋いでいるの。ふたつの空を」

 それは後から思えば、まるで先のない暗闇に眩い光が差すような言葉だった。

「月まで行けば、ふたつの世界が繋がると思う」

 彼は笑った。

「あぁ……」

 あらゆることの救いが見えた気がした。もう、身の振りに構う場合ではなかった。

「できることなら、月になりたい」

 彼女も笑う。

「私も」

 月光に縁どられた彼女の翅は、欠けたところのない雪の結晶のようだ。途端に、この翅を失うことが怖くなった。

「やっぱり月にはなれないかな」

「じゃあ、月まで行きましょう」

「そうだね。私達には翅がある」



 軽い蔦で互いを繋いだ。それからふたりは長い時間を渡った。

 朱に染まった空がだんだんと藍に移り、星が散らばった。空気の温度が急激に下がっていき、刃のような風が翅をかすめた。その日は曇天だった。月の光は黒々とした雲に遮られていた。しかし、どうということはない。その先にたどり着けさえすれば同じだからだ。

「前からずっと訊きたかったんだ」

 彼は切り出した。

「どうして私についてくるんだい?」

「欠けているの。半分の月みたいに」

 彼女の声はいつになく寂しい。どれほどの光を湛えているように見えても、寂しさを抱えていることについて彼らには変わりがない。

「けれど、残りはあなたが持っている。ずっとずっと、探していたの」

 身に余る期待。駆け上がる不安と恐怖。振りほどくように、彼はより強く風を押す。それに応えるように、ぐんぐんと高度が増していく。

「平気?」

 後ろをたびたび振り返る。一拍遅れて返事が来る。

「平気よ」

「やっぱり、帰る?」

 彼には、彼女が少し弱っているように見えた。

「帰るって? どこに? 半分の月が昇る地へ?」

「分かったよ」

「分かればいいの」

 ついたため息は冷たい風に消えた。

「きみも大概……変わってるよ」

「そうかしら? あなたもじゃない?」

「……言い換えるなら」

「言い換えなくても十分」

 空気が薄くなるにつれ、交わす言葉は減った。しかし、すでに言葉は必要なかった。

 不意に視界が塞がった。厚い雲の中に入ったのだった。ここを抜ければ、月はすぐそこである。もう少しだけ耐えられたらと、彼は祈った。

 雲の中は一段と風が強かった。

「あっ」

 乱暴な風にあおられた。あっけない音がした。彼女の翅の端が破れた。

「やっぱり引き返そう、こういうのはよくない」

「嫌」

 やつれた身のどこからその力が湧くのか、声だけは変わらない。

「あのね、よく聞いて」

 濁った雲の中、彼女だけが澄んだ川のせせらぎのようだった。

「必ず月に帰って。そして、曇りなく誠実でいて」

「それは、どういう」

「いずれ引き合わせてくれる。まんまるの月が……」

 言い終わるか終わらないかのうちに、突風が割り込む。蔦が切れる。あっという間に彼女の白い体は攫われ、黒い雲に飲み込まれた。一瞬の出来事だった。

「あ……」

 掠れた声を聞く者はいない。もう、誰ひとりとして。

 言い表せない感情がのどに詰まった。息苦しいのは空気が薄いせいだけではない。それなのに何ひとつ出てこないのだった、言葉も涙も。

 カラカラの乾いた体で、彼は無心で雲を掻き分けた。

 どうしてこの期に及んで月を目指すのか、彼自身にも分からなかった。

 彼も気づいていた。いい加減分かっていたのだ。月のいる次元までは翅は届かない。

 それでも彼女をここに連れてきたのはなぜなのか。彼はすでに見失っていた。しかし、今でこそ裏目に出たと言えど、ふたりにとってはそれが救いだった。やっぱり彼は月になりたくて、そうである者として振る舞いたかったのだ。

 自分が野蛮な闇の住人ならばどうして彼女には救いが訪れないのか。

 彼女の方がよっぽど美しいというのなら、どうして彼女は報われないのか。

 それともこれは一抹の夢でふたりは等しく月明かりに照らされぬ運命だとでもいうのか。

 彼の胸にとめどない感情が溢れた。それでいて、たくさんのことを考えすぎて、もはや何も感じなかった。

 つらい時、いや、楽しい時でさえも、彼の目に何よりもはっきりと映っていたのはほかでもない月である。彼の救いはただそこにあり、それ以外にはない。

 黒く厚い雲が途切れようとしていた。隙間から、見知った光が差し込んでいる。

 胸の中をすっからかんにして、彼は月光を浴びる。そして願った。

 私は救いを模倣するものである。同じ月の下の彼女に幸せを、まじない程度のご加護を、どうか。



 彼の視界が開け、懐かしい光で満たされた。

「こんばんは」

 月の声が彼を包んだ。彼は月を追い、とうとう雲を抜けたのであった。しかし、彼は満身創痍である。喜びを感じる間はなかった。

「月よ。どうしてですか、教えてください」

「何を?」

「どうして私は彼女を連れ出してしまったのでしょう、どうして彼女はどこかへ行ってしまったのでしょう。そして、私はどうしてあなたにはまだ近づけないのでしょう」

「どうしてかって?」

 月は答えた。

「あなたが一番高く飛べる蛾だからです。他のどんな翅よりもあなたの翅は風に乗る」

 月、それは全てを見通した夜空の主。

「しかし蛾ですから、ここまでは来れません」

 月の光は優しい。そして穏やかで、温度がない。

「もう疲れました」

「ええ。おやすみなさいな」

「できればあなたの腕の中で眠りたいのです」

「どこへいても、私は傍にいますよ」

「あぁ」

 そうだった。いつ、どこへいても、私達の翅を照らしたのはあなただった。彼は身を透かされた思いがした。

「あなたはこんなに大きく見えるのに、さっぱり近づけない」

「でも、ここまで来た者は初めてですよ。きっと誰もが羨むでしょう」

「違います、違うのです」

 彼は懸命に翅で風を掴む。最も高い空から落とされまいとする。

「私は、あなたになりたかったのだ」

「月に?」

「ええ」

 月には曇りも翳りもない。

「小癪ですね」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「構いません。私は感情を持ちません。ただあなたたちの幸を願う者」

 冷たいとも温かいとも取れぬ言葉。月にしか紡げない言葉であろうと彼は思った。

「だったらもう、もったいぶらないで。楽になりたいのです」

「ならば、抗うのはおやめ」

 彼は抵抗をやめた。風に翅が取られ、身体が傾き、一瞬風の音が途切れた。逆さまの月光。薄い酸素。風圧。翅がこの身を離れてゆこうとしていることが彼には分かった。

「お月さま……」

 ほどなくして彼の身は粉々に割れ、月の色の粒子になった。根元からちぎれたまだらの翅だけが、くるくると舞いながら風を滑って地上に帰る。海が、大地が、息をする生命の全てが月光に照らされ、翅を迎える。

 そして、夜明けの近い空に静寂が訪れた。

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